浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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46話『あなたの光』

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 湯浴みを終えて外に出ると、侍女のイネスがすでに衣装ラックを整えて待っていた。

「お湯加減はいかがでしたか、奥様」

「ええ、気持ちよかったわ」

 そう言いながら、私は濡れた髪を軽くタオルで押さえ、鏡の前に立つ。

 少し薄れてきたけど、まだ身体にはレオニスがつけた印が散らばっている。

 首から胸、腹や太ももの内側。

 ……全くもう。


 「襟元の詰まったものを出してくれる?」

 イネスは「かしこまりました」と軽く会釈し、衣装ラックの中からドレスを選びはじめたが——

 私がガウンをぬぐと途中で、手が止まった。

 イネスの視線が、ふと私の背中に落ちている気配がする。

「……?」

 何だろうと首を少し捻るが、背面までは見えない。

 イネスはまるで何かを見てはいけないものを見つけたように、ピタッと固まっていた。

「イネス?」

「……っ、い、いえ。失礼いたしました」

 イネスは慌てて姿勢を正すが、耳がほんのり赤い。

「どうかした?」

 問いかけると、イネスは一瞬だけ迷った末、丁寧に言葉を選んだ。


「……いえ。大公様は、本当にセレーネ様を……お好きなんだな、と」

 イネスはほんのり目を伏せて、言葉の最後をそっと飲み込んだ。

「……」

 私は眉をひそめた。

「どうしたの——」

「奥様。お召し替えを先にいたしましょう。……背中は、後で私がうまく隠しますので」

「背中?ちょっと、隠すって何を——」

「ふふ。大丈夫です」

 イネスは微笑みで誤魔化し、私は余計に不安になる。

 鏡で背裏を見る。

「……」

 真新しいく、鮮やかなピンク色のキスマークが増えていた。

 気づかぬまま湯浴みで気持ちよくなっていた自分を殴りたい。

 レオニスも大人しく寝れるのだと思った私が間違っていた。

 イネスは手慣れた手つきでハイネックのドレスを選び、背面のボタンを留めながら、ぽつりと呟いた。

「……本当、羨ましくなるくらいに愛されていますよ、奥様」

 その声音はいつになく柔らかくて、こちらが返事に困るほどだった。


「そ、そう、なのかな?」

「ええ、嫁いでこられた当時はどうなるかと思いましたけど、今は本当にお似合いでございます」


 ——今回の視察に同行している私の従者は、彼女ひとりだ。

 本来なら、公爵家付きの侍女は複数人ついてくるのが通例らしいのだが、急な出立だったことで動きの良いイネスだけが即座に対応してくれたらしい。

 だからこそ、彼女の気遣いは細やかで頼もしい。

 そして——イネスは、エルバーン家で最も古くから仕えている侍女だ。

 私が嫁いでくるまでは、ずっとリディアに付き従っていたらしい。

 だからこそ、この屋敷の事情も、人の癖も、私よりずっとよく知っている。


「大公様は女性には優しいですけれど、扱いの方はちょっと心配になるところがおありでしたけど」

「そうよねー、童貞だったもんねー。リディアもお気の毒だったわよね」

「……セレーネ様?」

「でも、きっと次は大丈夫よ!!私がいなくなったあとにリディアが戻ってくるから」

「セレーネ様は、いなくなられるのですか?」

「ええ、ここは私の居場所じゃないもの」


 そう言った瞬間、イネスは静かに手を止めた。
 ボタンに添えていた指が小刻みに震えている。

「……奥様」

「ん?」

「――“セレーネ様の居場所”は、確かに大公様が決められることではございません。奥様ご自身が選ばれるものです」

「……ん?あ、うん?」

 イネスは、ほんの少しだけ微笑んだ。
 その笑みには、長年仕えてきた者にしか出せない重みがある。

「私は、何十年もこの家を見てまいりました。
 リディア様の時も、今の奥様の時も。
 誰がこのエルバーン家を照らしているのかは、仕えている者にはすぐわかります」

「照らして……?」

「はい。――今、この屋敷を照らしているのは、奥様です」

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 イネスは続ける。

「リディア様は……たしかに美しく聡明でしたが、奥様とは“色”が違います。
 奥様の光のほうが、ずっと温かい。
 だから領民の方々も、昨日のように自然と笑えるのです」

「……私なんて、何もしてないのに?」

「何もしていない人をあれほど庇われたりしませんよ。
 大公様があれほど取り乱されることも。
 奥様の言葉ひとつで冷静に戻られるのも」

「……それは、ローレンス家の援助が必要だからで」

「いいえ」

 イネスはきっぱりと言った。

「ここ最近の大公様は――とても変わられました。セレーネ様が嫁がれてきた時とはまるで別人のように」

 思わず息を呑む。

「……そんな、大げさな」

「大げさではございません、大公様がお変わりになられたのは、奥様のお力なのです」

「そ、それは」

「ふふ……奥様、ご自覚がないようで」

「……」

 いたたまれなくて、耳まで熱くなる。

 イネスは続けた。

「奥様の居場所はここにはないとおっしゃいましたが……」

 イネスは背中のボタンを留めながら、静かに微笑んだ。

「――奥様がいらっしゃるこの“場所”は、私達のいる場所でもありますから」
 

 ドキン、と心臓が跳ねた。

 そんなこと――考えもしなかった。

「……そんなこと言われても」

「悲しい事をおっしゃらないでください。皆嘆いてしまいます。
 領民の方々も、従者たちも……そして、大公様も」


 私は返事ができなかった。

 だって。

 胸の奥で、言いようのない熱がじわじわ広がって、息が苦しくなる。

 唇がかすかに震えた。

「……でも、もし……出ていけって言われたら……」

 思わずこぼれた弱い声は、自分でもびっくりするほど小さかった。

「……私、ちゃんと出ていくから」

 イネスの指先が、ボタンをとめる。

 ぱちん、と静かな部屋に小さな音が落ちる。

 次の瞬間、イネスははっきりと首を横に振った。

「そんな事をおっしゃることは、決してございません。」

 その声音は強く、けれど驚くほど優しい。

「大公様が奥様を手放されるなど、ありえません」

「……イネス」

「大公様のご様子をご覧になれば、誰にでもわかります」

 胸の奥が、ぎゅっと音を立てて縮む。

 どうしてだろう。
 こんな言葉をかけられるなんて思っていなかった。

 息が苦しくなるくらい、温かい。

 イネスは微笑んだ。

「奥様がもしここからいなくなったら、困るのは……大公様だけではありません」

「……そんな、大げさよ」

「大げさではありません。奥様は、ご自覚がないようですけれど」

 まるで全てをわかったうえで包み込むみたいな、長く仕えてきた者の穏やかな眼差し。

「どうか、ご自分を軽く扱わないでくださいませ。――奥様は、エルバーンに“必要な方”です」

 胸の奥が、じわじわと熱で満たされていく。

 息を吸うのが、苦しいほどに。

「……イネス」

「私は、奥様がおいでになってよかったと、心から思っております」

 心臓が跳ねて、言葉が出てこなかった。

 イネスは、穏やかに微笑んだ。
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