浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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52話『父と夫』

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 午後の陽は傾き始め、濁った川の匂いがまだ土の奥に残っている。

 私は崩れた堤の補強作業の進捗を見渡しながら、職人たちの動きを追った。

 本来ならあと二日はかかるはずだった。
 山間の地形、やわい地盤、そして水害の残り香——どれをとっても時間のかかる案件だ。

 だが。

 「……早いな」

 呟かずにはいられなかった。

 杭を打ち、石を積み、土嚢を運ぶ動作に無駄がない。
 ローレンス家から派遣された職人たちの統率は、軍隊のようだった。

 作業主任からもたらされた報告書には、あり得ない数字が並んでいる。

 ——進捗、予定の三倍。
 ——午前の作業で、明朝分の工程がすでに完了。

 常識では考えられない速度だった。

 鉄道建設で帝国を牛耳っているローレンス家は、こういう場面で本領を発揮する。
 職人の質、人員の規模、後方支援、物資の搬入速度。
 どれを取っても規格外だ。

 午後になって気づけば、現場にはもう疲労の色がない。
 むしろ活気づいている。

 そこへ、クライヴが駆けてくる足音が聞こえた。

「レオニス様!」

 振り返ると、彼は興奮を抑えられない様子で息を弾ませていた。

「さらに増援が来ます! ローレンス家の第二陣が街道を越えました!」

「……まだ来るのか」

「はい! この様子ですと、今日中に堤の補強がほぼ終わります」

 私は空を見上げた。

 午後の光の中、集落の向こうで土煙が舞っている。
 ローレンス家の職人たちの独特の掛け声、金属の響き。
 すべてが“仕事の速さ”そのものを象徴していた。

 ふと、皮肉にも思えて苦笑が漏れた。

 これだけの規模の支援をしてくれた理由は、ただ一つ。

 セレーネのためだ。

 ローレンス家は娘には甘い。
 いや、甘いどころではない。

 “娘が嫁いだ家に不便がある”
 その一言だけで、帝国最大の鉄道企業が動くのだ。

 午後の風が頬を撫でる。

 (…… アーヴィング侯が来る前に、現場を整えねばならん)

 心の奥で、静かに覚悟が固まる。

 アーヴィング侯の手腕は心強いが、同時に“義父上の到着”という避けたい現実が刻一刻と迫っている。

 
「それとアーヴィング侯は屋敷に“直接”向かわれているとのことです」

 「…………何?」

 思考が一瞬、空白になった。

 通常なら街道の関所に到着した段階で報告が入る。
 それが──

「屋敷に、直接?」

「はい! 街道での休憩も取らず、そのまま馬車を走らせ続けたようです!」

 (……休憩なしで?)


「……わかった。すぐ戻る」





 馬を飛ばし、屋敷の前に降り立つ。

 玄関の扉が開いた瞬間――義父と義母が、同時にこちらを振り向いた。

 その奥にはセレーネ。

 なんだか様子がおかしい。


「まあ……お久しぶりね、エルバーン大公?」

 義母の声が、刺すような柔らかさで響いた。
 口元は微笑んでいるのに、目が一切笑っていない。

 
 俺はすっと姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。

「……ご無沙汰しております、イザベラ夫人。アーヴィング候も、お変わりなく」

 するとアーヴィング侯が一歩前に出た。


「——レオニス大公」

 その声音に、空気が揺れた。

「娘の怪我のことは周知か?」

 突然の事に思わず何が起きたのかわからなかった。

「父親として、聞かせてもらおう。——これはどういうことだ?」

 セレーネの方に一度視線をやると、焦った様子でこちらを見ている。

 不本意そうなその顔で、俺はこの状況を理解する。

 おそらく昨日の投石の事件のことだろうことは明らかだ。
 
 これは俺の責任であることは間違いない。

 ゆっくりとアーヴィング侯へ向き直る。


「……ご心配をおかけして、申し訳ありません。セレーネは、昨日……私の不注意で、足を痛めました。」


 そして、深く頭を下げた。

「責任はすべて、私にあります——」



「そうだな」

 ローレンス侯の低い声がしたかと思うと、

「娘を連れて帰る。セレーネ、準備をしなさい。」

 ……!

「ローレンス家で休ませる。エルバーン家に戻らせるつもりはない」

「そうね。こうなった以上、娘をここに置いておく理由がないわ」

 全く予想外の事に、セレーネも焦り始めた。

「ちょ、ちょっと待って!?」

「セレーネ。部屋に戻って荷物を——」

「い、いやいやいや!!」

 間に入る隙もないほど展開が早い。
 セレーネが慌てて義父の腕を掴む。

「だ、大丈夫! 本当に大したことじゃないの!!」

「セレーネ」

 義父は静かにセレーネを見つめ、

「“大したことだ”」

 と、すごんだ。

「親に隠す時点で、ロクなことが起きてない証拠よね?」

 義母の言葉を合図に、ローレンス家の従者たちが早くも動き始める。

「——では、お荷物はこちらで……」



 これは俺の失態だ。

 罰はいくらでも受けよう。

 だが


「……お待ちください」

 俺はぎり、と奥歯を噛みしめ、石床へ膝をついた。

 石の冷たさが膝を貫く。

 「……すべての責任は、私にあります」

 頭を垂れたまま告げると、空気が一度、鋭く凍りつくのを感じた。

 どうにかしてセレーネを連れ戻さないで欲しい、その一心だった。

 そして次の瞬間だった。

 「せっ、セレーネ!?」
 「ちょっと……あなた、大丈夫!?」

 夫妻が動揺する声が耳に刺さる。

 何が起きたかと思い頭を上げると──セレーネがボロボロと涙をこぼしていた。

 そして泣きじゃくりながら彼女は叫ぶ。

 「だ、だいじょぶだっていっでるのにぃぃぃ……!!」

 
 その泣き叫ぶ声に胸が痛む。
 痛いどころではない。
 胸の奥が、焼けた鉄で抉られているようだった。

 俺はまた頭を床に押しつけ言った。

 「……セレーネを……連れていかないでください」

 これだけは譲れなかった。

 取り乱した声を出すわけにはいかない。
 ──だが胸の奥は削られるように苦しい。


 「みんな大嫌い!!」

 次の刹那──彼女の気配が遠ざかった。

 走り去ったのか、義母がそのあとを追いかけた。



 追いかけたい。
 今すぐ抱き止めたい。だが、

「…………レオニス大公……何があったか、娘は言わない。だから――君の口から聞かせてもらおう」

 喉が焼けるように乾いた。

 俺は、すべてを話した。

 領民によってセレーネが怪我を負わされたことを。


 その瞬間。

 拳が飛んできた。

 ゴッッッ!!という衝撃で頬が横に跳ね、視界が白く弾ける。


 ぐらつく足を踏みしめる。

「アーヴィング侯……!!」


 俺と義父の間にグレイが止めに入る。


「グレイ、下がれ。余計な事はするな」

「ですが!」

「下がれと言っただろう。アーヴィング候が怒るのは当たり前だ」

 俺ですら、昨日制止されなければグレイに同じ事をするところだったのだ。

 父親なら当然のことだろう。

 セレーネが泣きながら走り去ったあと、玄関ホールに残ったのは――殺伐とした空気だけ。

 俺にはわかる。

 アーヴィング候の煮えたぎるほどの怒りが。


「……レオニス大公」

「……私の管理の甘さです」

 アーヴィング候の眉がわずかに動く。


「娘は政略結婚の人質ではない。私の宝だ。その娘ひとり守れず、何が“大公”だ」

「……返す言葉もございません」

 胸が焼けるように熱い。

 アーヴィング候はさらに一歩近づき、低く告げた。

「婚姻の時に――私は言ったはずだ」

 胸が強く脈打つ。

「“娘を頼む”と」

 喉の奥がひりついた。

「君という男に賭けた、親としての言葉だ」

 言葉が突き刺さる。

「……その約束を、君は破ったのだよ、レオニス大公」

 胸の奥に切り傷のように痛みが落ちる。


「……全て、私の責任です。どのような処罰も受ける覚悟があります」


 アーヴィング侯に俺の言葉は届いていないのか、義父は遠くを見つめてボソリと呟いた。


「娘に泣かれるとどどうしていいのかわからない」

「……」

「私のもとで幸せにしてやりたかったのだが、どうもそれは叶わなそうだ」




「もう二度とこのようなことは……必ず、幸せにします」

「“今更”それを聞きたくなかったよ、大公殿」

 婚姻交渉の場では、口にしなかった。
 あの時は、そんな感情などなかったからだ。

「泣かせるために嫁がせたわけではない」

「申し訳ありません……二度と、泣かせません」





 そうしてアーヴィング候は、ぽつりと言った。


「……セレーネに嫌われてしまったではないか」



 アーヴィング候、俺は言われ慣れているからわかる。

 セレーネの嫌いは、嫌いではないことを。


 だが今それを言うのはやぶさかではない、俺は立ち上がり頭を下げると、セレーネの後を追いかけた。



 
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