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51話『感情の決壊』
しおりを挟むレオニスは、父母が同時に振り向いたその刹那――靴音すら立てずに、石床へ膝をついた。
乾いた音が、石造りのエントランスに静かに響く。
「……全ての責任は、私 にあります」
これまでどれだけ傲慢でも、偉そうでも、こんな風に頭を垂れたレオニスを、私は一度も見たことがない。
やめてよ……そんなの、見たくない……。
胸がぎゅっと締めつけられる。
これは――本来、私が望んできた“自由を得る”絶好のチャンスのはずだった。
大公家から出ていけるのだ。
私を苦しめていた“未来”から逃げ出せるのだ。
なのに。
なのに――ぽた、ぽた、と頬から大粒の涙が勝手に落ち始める。
「せっ、セレーネ!?」
お父様が驚愕の声を上げた。
「ちょ、ちょっと……あなた、大丈夫!?」
お母様までうろたえている。
私は泣きたくて泣いてるわけじゃない。
なのに涙は止まってくれない。
「だ、だいじょぶだっていっでるのにぃぃぃ……!!」
私は感情のまま言葉を吐き出した。
レオニスは頭を床に押し付けたまま、ピクリとも動かない。
高圧的で、誰よりも強くて、誰に対しても感情がなかったはずなのに、今のレオニスは私のことになると、なりふり構わなくなる。
そして今、私のために――床に頭をつけている。
「わ、私にどうしろっでいうのおおお……!!」
叫んだ瞬間、自分でもどうにもできない感情が込み上げてくる。
父母は完全に固まり、従者たちは気まずそうに視線を逸らし、レオニスだけが、動かずに言った。
「……セレーネを……連れていかないでください」
その言葉は胸の奥に突き刺さった。
「みんな大嫌い!!」
胸の奥で何かがぷつん、と切れた音がした。
私はその場から逃げるように走り出した。
視界は涙でぐしゃぐしゃで、どこに向かって走っているのかもわからない。
ただ、足が勝手に動いた。
なんで……なんでこうなるの……!?
――レオニスの、膝をついた姿。
あんなのを見たかったわけじゃない。
「セレーネ!! 待ちなさい!!」
お母様の声が、いつになく切迫して響く。
足は止まらない。
涙はもっと止まらない。
「うぅ……やだ……やだよぉ……!」
息が苦しい。胸が痛い。
さっきまで“家に帰れる”なんて思ってたのが馬鹿みたいだ。
どうしてうまくいかないんだろう。
なにが正解なの……?
*
「セレーネ!!」
お母様のヒールの音がすぐそこに迫る。
ぐちゃぐちゃになった思考のまま、私は角を曲がろうとして――足がもつれ、よろめいた。
「……っ!」
「セレーネ!?」
母の声が背後から聞こえる。
私はその場にしゃがみ込んでしまった。
「……どうして……」
泣きながら、私は自分でも意味がわからない言葉を繰り返していた。
私は崩れ落ちるように廊下にしゃがみ込んで、涙で濡れた手のひらをぎゅっと握りしめた。
胸の奥が、こんなにも痛むなんて知らなかった。
「セレーネ!」
お母様の声がすぐ近くに聞こえる。
「もうやだ……」
自分でも驚くほど弱い声が漏れた。
レオニスが頭の中から消えてくれない。
夜会の会場の中を私を抱えて歩くレオニスの拗ねた顔。月の下でみた綺麗な横顔。花を欲しいと不器用に笑った顔。高台の空の下、ソースが甘いと言った悪戯な顔。私を抱く時の、狂ったあの瞳。
大きな手で包帯を巻いてくれた時の熱。
「……レオニス……」
呟いた途端、胸がぎゅっと締めつけられた。
……どうして。
――エルバーン家を出ると思った途端、心臓が抜け落ちていきそうな感覚になった。
「……やだ……」
どうして嫌なのかわからなかった。
「……離れたくない……」
自分で言った言葉に、自分がいちばん驚いた。
でも、それはもう誤魔化しようのない本音だった。
父に連れて帰られると思った瞬間、もう二度と私がレオニスの側に戻ることはないだろうと悟った。
――嫌だ。
――離れたくない。
――彼のそばにいたい。
理由なんてわからない。
恋とか愛とか、そんな言葉で説明できない。
ただ、ここにいたいと思った。
「……セレーネ!」
お母様が追いつき、私の肩を抱きしめた。
その温もりの中で、私は自分の心の叫びをひた隠しにして、泣きじゃくるしかできなかった。
どうしよう……。
……私、レオニスのこと……。
違う。
認めたくない。
なのに、息が苦しくなるほどに、胸が苦しい。
――気づかないようにしていたのに。
私は、レオニスの事が好きだ。
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