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50話『愛と叱責のはざまで』
しおりを挟む原作、つまりリディアが主人公として語られる物語に出てくる悪役、つまりは脇役としてしか知り得なかった情報と、セレーネ本人が感じていた世界とではここまで乖離(かいり)しているものなのか?
全てが私の知っている物語とは違う。
レオニスからはじまり、その他、原作に登場しない人物からなにから、一体どうなっているのか。
そもそも私はどうやってこの世界に来たのか。
母の手によって、地味なドレスを半ば強制的に脱がされ、
鏡の前であれこれ文句を言われていたその時だった。
「あら……ちょっと待って」
母の声の色が変わった。
次の瞬間、肩に触れていた手がすっと離れ、代わりに、母の視線がゆっくりと地面へ降りていった。
(あ……)
母の目の先——私の足首。
包帯がきゅっと巻かれ、そこから下の皮膚がうっすら見えた部分が赤く腫れている。
「セレーネ」
名前を呼ぶ声が——低い。
さっきまでの妖艶さも、明るさも、全部消えている。
「……これは、どうしたの?」
私は反射的に言い訳を探す。
「な、なんでもないわ。ちょっと……その、転んだだけで——」
「転んだだけで、そんな腫れ方しないでしょう?」
(ひっ)
母がしゃがみ込み、私の足首にそっと触れた。
触れた指先が震えている。
「……痛むでしょう?」
「だ、大丈夫よ本当に」
「セレーネ」
怒鳴りはしなかった。
だからこそ、恐ろしい。
「誰かにやられたの?」
「だ、誰にって……!」
鋭い……。
「嘘をついてもわかるわよ?」
母が顔を上げた。
その瞳は、普段の艶やかな金色ではなく——まるで鋼のように冷たい。
「誰が、私の娘に怪我をさせたの?」
「わ、私が……無理をしただけで——」
「じゃあ“無理をさせた” のは誰?」
息が止まる。
母の怒りは静かで、澄んでいて、それなのに背筋が震えるほど恐ろしい。
「……セレーネ」
母がゆっくりと立ち上がった。
「ローレンス家の娘が傷を負うというのが、どういう意味かわかってる?」
「お母様、お願い、ちがうの。誰も悪くないの」
必死で首を振る私を見て、母は一度だけ深く息を吸った。
「“庇っている誰か” がいるのね?」
「っ……!」
言い返せない私を見て、母は確信したように目を細めた。
「……レオニスね?」
「!!?」
全然違う!!
母の表情がゆっくりと変わる。
笑っているのに、その奥がまっすぐに怒っている。
「いい? セレーネ」
母が、私の頬に両手を添えた。
「男に愛されることは素晴らしいわ。でも——傷つけられることは、絶対にあってはならない」
「……うん」
「“あなたを守れない男” は、この世に存在してはいけないの」
「ち、違うの……レオニスはそんな——」
「だったら本人の口から聞くわ」
「え——ま、まままま待っ……!」
母の瞳に妖しい光が宿った。
「娘を怪我させた娘婿と話し合う必要があるわね?」
母の怒りが燃えている。
「娘を傷つける男は……私が許さないわ」
その一言に、背中がぞわりと粟立つ。
(ちょっ……思ってた以上に、キレてる……!!)
「ち、違うの! 本当にレオニスは——」
「庇う必要なんてないわ」
「そうじゃなくて!!」
思わず叫んだ。
けれど母は一歩も引かない。
「セレーネ。あなた、怪我しているのよ?」
「そ、それは私が不注意でぶつけただけで! レオニスは悪くない!!」
「——だからじゃない」
母は真剣な目で私を見つめた。
「“怪我をしたのに言い出せない” そんな環境が一番危険なのよ」
「でもっ……!」
「いいわ。直接話すから」
(やばいやばいやばい!!)
母は踵を返した。
まるで戦場へ向かう軍人みたいな後ろ姿だった。
「ま、待って!! レオニスは悪くないの!! 本当に!!」
「本人から聞きます、今すぐお父様に言って呼びつけましょう」
「ダメーーーーーッ!!」
必死で母の腕にしがみついたその瞬間——
ドンドンドン——!
“奥さま! 大変です!!”と、外から慌てた声がした。
エリンが顔を真っ青にして飛び込んでくる。
「お、おくさまっ……! だ、大公様が……!」
「えっ」
「こ、この屋敷に……お帰りで……!!」
(すごいタイミングで帰ってきた!!)
よりによっていま!?
母はゆっくりと振り返り、にっこり笑った。
「……ちょうどいいじゃない」
めっちゃキレてるのに、笑ってる……!!
「お母様、本当にやめて!!! レオニスは悪くないの!!」
「ええ、わかっているわ。だから“本人に確認する”だけよ?」
ぜんっぜん “確認” のトーンじゃない!!
心臓が喉から飛び出しそうだ。
そこへ——さらに追い打ちのように、廊下の向こうから落ち着いた低音が響いた。
「——何事だ?」
父、アーヴィング・ローレンス候が姿を現した。
私は頭を抱える。
「お父様!?」
「イザベラの大きな声がしたが」
母は胸を張って堂々と言った。
「あら、あなた。ちょうど良かったわ」
「何かあったのか」
「これを見てちょうだい」
(やばいやばいやばい!!なんかよくわかんないけどやばい!!)
逃げる暇も、口を挟む余裕もないまま、
母は私の足首をがしっと掴み、スカートを持ち上げた。
「この傷よ」
硬直する私。
父の眉間に、深い深い皺が刻まれる。
「……誰がやった」
その一言が静かすぎて、逆に恐ろしい。
「ま、待って!これは――」
母は涼しい顔で言う。
「あなた。大公殿下が帰ってきたそうよ。——娘を傷つけた男と、お話をしましょう」
父は眼鏡を押し上げ、静かに頷く。
母はその横で、完璧な笑みを浮かべている。
「さあ行きましょう。セレーネ、あなたも」
どっ、どうなるの!?
*
エントランスホールに、冷たい外気と一緒に、長い影が差し込んだ。
重厚な扉が開き、レオニスが帰宅した。
広い石床に落ちる足音が、ひどく遠く聞こえる。
胸がどくり、と跳ねた。
――その瞬間。
「まあ……お久しぶりね、エルバーン大公?」
母の声が、刺すような柔らかさで響いた。
口元は微笑んでいるのに、目が一切笑っていない。
レオニスはすっと姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「……ご無沙汰しております、イザベラ夫人。ローレンス候も、お変わりなく。」
父が一歩前に出た。
「——レオニス大公」
その声音に、空気が揺れた。
「娘の怪我のことは周知か?」
レオニスの眉がかすかに動いた。
父は続ける。
「父親として、聞かせてもらおう。——これはどういうことだ?」
私は背中に汗が滲む。
レオニスは一度だけ、私に視線を向けた。
私は何も言わなくていいから、という合図をおくる。
そしてゆっくりと父へ向き直る。
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません。」
その口調は冷静で、整っていてた。
そしてレオニスは淡々と事実を話し始めた。
「セレーネは、昨日……私の不注意で、足を痛めました。」
(あー、その言い方はもう誤解をうむダメなやつだ)
母の笑顔が完全に消えた。
父も眼鏡の奥で瞳が細くなる。
レオニスは深く頭を下げた。
「責任はすべて、私にあります——」
「そうだな」
父の低い声がレオニスを遮った。
「娘を連れて帰る。セレーネ、準備をしなさい。」
「っ……!?」
と、唐突すぎるっ!!
父は容赦なく早口で続ける。
「ローレンス家で休ませる。エルバーン家に戻らせるつもりはない。」
母は涼しい顔で頷いた。
「そうね。こうなった以上、娘をここに置いておく理由がないわ」
私は血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待って!?」
父は聞いていない。
「セレーネ。部屋に戻って荷物を——」
「い、いやいやいや!!」
わたしは慌てて父の腕を掴む。
「だ、大丈夫! 本当に大したことじゃないの!!」
「セレーネ」
父は静かに私を見る。
「“大したことだ”」
(ええ……)
母が腕を組んで言う。
「親に隠す時点で、ロクなことが起きてない証拠よね?」
(それはごもっともすぎる!!!)
父の従者たちが早くも動き始める。
「——では、お荷物はこちらで……」
その時。
背後から、低く押し殺した声。
「……お待ちください」
レオニス。
父母が同時に振り向く。
レオニスはぎり、と奥歯を噛んで言った。
そして、父母が同時に振り向いたその刹那――靴音すら立てずに、石床へ膝をついた。
足の打撲だけでどうしてこんなことに……。
私は目眩がして倒れそうになった。
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