浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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※60話『湯気に紛れる想い』

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 唇を離した瞬間、胸の奥で何かが低く鳴った。

 名残惜しさではない。
 もっと深いところで、別の欲求が静かに目を覚ましたのを自分でもはっきり感じた。

 セレーネの呼吸が触れ合う距離、震えた声、頬の紅。
 その全てが、先ほどの口付けだけでは到底足りないと告げてくる。

 俺の腕は彼女を離そうとしない。

 胸元に触れる華奢な手が、温かくて、やわらかくて——その温度が、こちらの熱をあおる。

 俺は一度深く息を吐き、セレーネのこめかみにそっと触れた。

「……セレーネ」

「……な、なに……?」

 まだ赤い頬で、見上げてくる。
 この顔を前にして、平静でいろと言うほうが無理だ。

 声は抑えたつもりなのに、掠れて低く落ちる。



「夕食の前に——湯浴みへ」


 そう告げた瞬間、セレーネが大きく瞬きをした。

「え……?」


 その声音に、胸の奥が一瞬ぎゅっとつまる。

 気づけば身体が先に動いていた。

「……っ、レオニス?」

 驚く暇も与えず、俺はセレーネの腰へ腕を回し、軽やかに抱き上げた。

 ふわりと身体が浮いた瞬間、セレーネが小さな悲鳴を上げる。

「きゃっ……! ちょ、ちょっと……!」

「行こう」

 その声音は、静かで、低く、妙に決意めいていた。

 抱き上げた腕に力をこめると、セレーネの体温がじかに胸へ伝わり、さらに理性が危うく揺らぐ。

「レ、レオニス!? 歩けます、わたし……!」

「知っている」

 廊下の夕陽が長く揺れ、抱えられた彼女の金の髪が淡く光る。

 彼女を腕に抱いたまま歩くその瞬間、胸の内にはただひとつの想いだけが残っていた。

「……断られる前に連れて行くことにした」

「なっ……!」

 セレーネの顔が一気に真っ赤に染まる。

 その反応が可愛すぎて、思わず肩を抱く腕が強くなる。

「嫌か?」

 問いかける声は、落ち着いた低さのまま。

「い、嫌じゃ……ないけれど……っ」

「そうか」

 その答えだけで十分だった。

 彼女の胸元がこちらの鼓動に重なって震える。

 廊下の奥——湯浴み場へとつづく扉が近づいていく。

 彼女を抱いた腕の中では、小さな身体がかすかに震えていたが、その震えは拒絶ではなかった。

 むしろ、寄り添うように腕の中へ沈んでいく。





 湯殿の前は白い湯気がゆらめき、灯りが水面に揺れていた。

 腕に抱えていたセレーネを床に降ろしても、俺は手を放さなかった。
 離したら逃げる——そんな確信があったからだ。

 セレーネは胸元を押さえ、後ずさる。


「れ、レオニス……あ……」

 その言葉を遮るように、俺は彼女の手首をそっと捉えた。

 逃がさない、けれど脅すでもない。

「……セレーネ」

 低く落とした声に、彼女の肩がびくりと震える。
 そう震えられてしまうと、ますます理性が削れる。

 顔を寄せ、彼女の耳に唇が触れるか触れないかの距離で囁いた。

「脱ぐのを——手伝わせてくれ」

「っ……!」

 頬が一気に紅潮し、胸元をぎゅっと抱き寄せる。

「……そんなの……」

「湯に入るんだ。衣を解くのは当然だろう?」

「そ、そうだけど……!」

「だったら——」

 彼女の手をそっと引き下ろす。

 優しさと強引さの境目を丁寧に撫でて、逃げ道を塞いだ。

「どうして、駄目なんだ?」

「……っ、だって……」

 言葉に詰まったセレーネの視線が揺れる。

 その仕草さえ可愛くて、胸の奥の欲がまた静かに目を覚ます。

 俺はセレーネの襟元に指先を添えた。
 触れただけで、彼女の息が震える。

「セレーネ」

 名を呼ぶと、彼女は堪えきれず俺を見上げた。


「……ひとりでは、脱ぎにくいだろう?」

「う……」



 迷い、恥じらい、戸惑い——その全部が俺に向けられる。


 俺の胸の奥で、煩悩という名の獣が静かに笑う。


「……俺が先に脱ごうか?」

 そう告げると、彼女は胸の前で握っていた手を少しだけ緩めた。

 声が、湯気よりも低く落ちた。

 
「しょ、食事前なんですから……変なことをしないでくださいよ?」

 セレーネは胸元を押さえたまま、必死に言い聞かせてくる。

「……善処しよう」

 我ながら誠意のない返事だと思う。
 だが止められるほど理性は強くなかった。
 湯気よりも熱い衝動が、さっきの口付けの続きだけを静かに求めていた。

 俺は一歩近づき、彼女の前に立つ。


 襟元に指を添えると、セレーネの喉が小さく震えた。
 指先に触れた布越しの体温が、妙に高い。

 ひとつ目の留め具を外した瞬間——淡く香る花の匂いがふわりと零れ、胸の奥で何かが弾けた。

 俺が外したのは布だというのに、セレーネのほうが先に息を呑む。

「っ……あの……ホントにほんとに変なことを……」

「しない」

 囁く声が、自分でも驚くほど低い。
 湯殿に満ちる湿った空気と混ざり、彼女の耳の奥へ沈み込む。

 二つ目の留め具を外すと、鎖骨が白くあらわになった。
 かすかな汗が光り、そこへ灯りが落ちて金色に縁取られる。

 美しい。

 ただの感想が、欲望に変わるまでに一瞬もいらなかった。

 布地を指で滑らせ、肩から落としていく。
 ほんの少し触れただけで、セレーネの体がびくりと跳ねる。

 その反応がまた可愛くて、俺は息を吐いて笑ってしまった。

「恥ずかしいなら背をむけるといい」

「っ……!」

 彼女は悔しそうに唇を噛み、ゆっくりと背を向けた。

 細い肩が夕灯の下で震えている。
 そこへ俺は両手を伸ばし、布の結び目へ触れた。

 小さな結び目は、指先のわずかな力でほどけた。
 ほどいた瞬間、セレーネの肩がすうっと下がる。



「……セレーネ」

「……な、なに……?」

「美しい背中だ」

「……っ」

 ほんの冗談のように言ったのに、セレーネの耳まで真っ赤に染まる。

 湯殿の湯気が白く立ちのぼり、その中で彼女の肌が静かに露わになっていく。

 浴をするための準備——それだけのはずなのに、胸の奥の獣はもう満足しない。

 彼女が俺の目の前で、こんなにも無防備になるのだから。

 最後のひもへ指を掛け、俺は低く囁いた。

「……続き、ほどいてもいいか?」

 

 声が、もはや理性の色を保っていなかった。



 セレーネの衣をすべてほどき終えた頃には、湯殿の空気よりも俺のほうが熱を帯びていた。

 彼女は腕で胸元をかばい、濡れた瞳でこちらを見上げている。
 その姿があまりにも無防備で、残酷なほど愛らしい。

 俺はゆっくりと息を吐き、彼女の前に立った。

「……セレーネ」

「……な、なに……?」

 視線を絡めたまま、囁く。

「次は……俺も、脱がせてくれるか?」

「…………っ」

 その言葉に彼女は耳の先まで赤く染まり、戸惑いと羞恥が混ざった声が零れる。

「わ、わたしが……ですか……?」

「ああ。君の手で」

 そう告げると、セレーネは息を飲み、ためらいながらも手を伸ばしてきた。
 震える指先が俺の衣の端に触れた瞬間——胸の奥に沈んでいた熱が、静かに、しかし確実に形を持ちはじめる。

 彼女はゆっくりと留め具を外した。
 一つ外すごとに、覗き込むような視線を上げてくる。

「……レオニス……その、なんだか……」

「続けてくれ」

「で、でも……その……っ」

 セレーネの目が僅かに揺れ、俺の体の前で動きを止めた。
 見てしまったのだ。
 彼女の細い指が示すように、俺の反応は隠しきれないほど明確だったのだろう。

 恥じらいと驚きが混ざったその表情に、逆に息が詰まる。

「……恥ずかしいのか?」

「……っ」

「——君の反応が可愛くて、困っている」

「か、可愛くなんて……!」

 セレーネは胸元を抱えるように身を縮めた。
 しかしその姿そのものが、俺の理性を確かに削っていく。

 彼女の手がまた俺の衣へ伸びる。
 震えながらも、逃げずに触れてくる。

 小さな手が俺の胸元の布を滑り落とすたび、呼吸が深くなる。

 セレーネに最後の留め具を外され、衣が足元へ静かに落ちたとき——湯殿の蒸気よりも熱い息が、胸の奥でひそかに渦を巻いた。

 彼女は視線をさまよわせたまま、まだ胸の前で手をぎゅっと握っている。


「さっき、『食事前なんですから変な事しないで』と言っただろう?」


 疑心暗鬼の顔をするセレーネが可愛くて、笑みが漏れる。

「安心しろ。湯浴みをするだけだ」

「……その言い方が怪しいんです……」

 言葉とは裏腹に、俺が手を差し出すと、彼女は迷いながらもそっと指を重ねてきた。

 その瞬間、全身の熱が静かにひとところへ集まる。

 彼女に気づかれぬように息を整え、手を引いた。

 湯殿の扉を開けた瞬間、ふわりと白い湯気が溢れ出す。

 灯りは控えめで、ゆらめく炎が岩肌に柔らかい影を落としていた。

 湯面から昇る蒸気が空気を満たし、肌に触れただけで温度が上がる。

 セレーネが立ち止まり、息をのんだ。

 彼女の肩に手を添え、そっと引き寄せる。

 指先に触れた彼女の肌が、湯気よりも熱い。

 湯殿の静けさが二人の気配を際立たせ、水音と呼吸の音しか聞こえなかった。


 湯殿の奥——
 
岩肌に沿ってしつらえられた湯前の腰掛けに、セレーネはおそるおそる座った。

 白い湯気の中で、背中だけがしっとりと露わになる。

 肩甲の曲線、細い腰のくびれ。
 濡れた髪が滴をつくりながら肌をつたう。

 湯ではなく、胸の奥が先に熱くなった。

「背を流そう」

 言いながら、心の中では別の獣がゆっくり目を覚ましていた。

 湯桶に手を入れ、温めの湯をすくう。

「かけるぞ」

「……はい」

 湯をそっと背へ流すと、彼女の肩がふるりと震えた。

 その反応だけで、指先の温度があがる。

 布を手に取り、柔く泡立ててから腰を下ろした。

 布を彼女の肩口にそっと当てた瞬間——

「っ……」

 かすかに漏れたセレーネの吐息が、俺の胸をかき乱す。

 泡を滑らせるたび、白い背中が淡く色づく。

「痛くはないか?」

「だ、大丈夫……です。すこし、くすぐったいだけで……」

「そうか」

 言葉は静かなのに、手は正直だ。

 そっと、なぞるように。
 軽く押すように。
 彼女の背骨のラインをたどるたび、逃げ場のない熱がじわじわとこみ上げてくる。

 彼女は前に指を組んで、肩をぎゅっと寄せた。

 布越しでもわかるほど、肌が繊細に震えている。

 その震えが、俺の理性を静かに締め上げていく。

「セレーネ」

「……な、なんですか」

 呼ぶだけで、反応が可愛い。

 布を置き、指先をそっと背に触れた。

 直接触れた瞬間——彼女の息がひゅっと細く吸われる。

「や……っ」

 わずかな悲鳴。
 その音だけで、手のひらから胸の奥まで熱が一気に燃え上がった。

「……すまない。泡を流すにはこうしたほうが早い」

「い、いいですけど……っ、くすぐった……」


 そう言い聞かせながらも、指先が背の曲線をゆっくりなぞるたびに、湯殿の空気がじっとり甘く濃くなっていく。

 肩、肩甲、腰へと落ちる滴。

 湯気よりも熱いのは——どちらなのか。

「セレーネ」

「……はい……?」

「綺麗だな」


「もうっ!!」

 湯気を震わせるように跳ねたその抗議が、なぜか胸の奥を愉しく刺した。

 俺は布を静かに絞り、滴る湯を指で払う。

「……洗うだけでは、どうにも満足できそうにない」

「や、約束したじゃないですか!」

「“善処する”とは言った。従うとは——言っていない」

「レ、レオニス!」

 振り返れない背中が、湯気の中で真っ赤に染まっているのがわかる。

 その可憐な震えに、胸の底で何かがゆっくりとうなった。

 俺は一歩だけ近づき、低く囁く。

「……では、次は——君が俺の背を流してくれ」

 その一言が湯殿の空気を変える。

 湯気がゆらりと揺れ、セレーネの肩がびくりと跳ねた。

 拒む理由などどこにもないのに、触れたら壊れそうなほど繊細な沈黙が落ちる。

 湯の滴る音だけが、二人の距離を測るように響いた。

 俺が湯椅子に腰を下ろすと、背後で小さな息がひとつ震えた。

「……じゃ、じゃあ……失礼しますね」

 セレーネの声は、“決意表明”に近いものだった。

 その気丈な響きがどこか愛おしく、思わず肩越しに振り返りそうになる。

 俺は湯に濡れた髪を払い、静かに背を向けた。

 少しの間を置いて、布を湯に浸す音がした。

 湯殿に響く、水音と彼女の浅い呼吸だけが、場を満たしていく。

「……っ、あの……こ、これで……本当にいいんですよね?」

「ああ。構わない。君の好きなように」

「す、好きな……ようにって……!」

 小さな悲鳴のような声。
 どうやら自覚のないところで俺は、彼女をいじめてしまっているらしい。

 そして次の瞬間——

 濡れた布が、俺の肩にそっと触れた。

「……っ」

 触れたのは布のはずだ。
 だが、彼女の指先が震えながら布越しに伝わるせいで、妙に熱い。

「もっと強くてもいい」

「む、無理ですそんな……!」

 その過剰な反応すら可笑しくて、湯殿の空気が柔らかく揺れる。

 セレーネは意を決したように、もう一度布を滑らせた。

 肩。
 肩甲骨の縁。
 背中の中心をそっと辿り——指先が触れないよう必死に距離を保っているのがわかる。

 ぎこちないが、懸命で、丁寧で。

 湯気の中で、背中越しに伝わるその不器用な優しさに、思わず目を閉じた。

「セレーネ」

「は、はいっ!」

「……ここも」

「っ——」

 布がぴたりと止まり、彼女の呼吸が跳ねた。

 湯気の向こうで真っ赤に染まっているであろう頬を想像しただけで、胸に熱が溜まっていく。

 だが——しばらくして、彼女のか細い指先が脇をすり抜けて前に伸びてきた。

 震える手で。
 逃げずに。
 俺のために。

 それがどうしようもなく胸を打った。

「……セレーネ」

「は、はい……!」

 俺はゆっくりと振り返る。

 固まるセレーネと、真正面で目が合った。

 セレーネは耳まで真っ赤に染まっている。

 可愛い。
 本当に。

 
(……この顔を、他の誰にも見せたくない)

 そう思った瞬間、体が自然に動いていた。

 俺はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
 濡れた指先に、すべらかな肌の温度が吸い込まれる。

「……っ」

 セレーネの肩が小さく震える。

 その震えが可愛くて、愛しくて、胸の奥にじわりと熱が広がった。

 親指で、頬こ水滴をひとつ払う。

 湯気が絡む空気の中、指先でそっと顎を持ち上げる。

 抵抗はない。
 ないどころか、むしろ——触れられるのを待っているように思えた。

「……セレーネ」

 名前を呼んだだけで、彼女の睫毛が震えた。

 その震えごと抱き込みたくなる。

 間を置かず、唇を落とした。

 触れるだけの浅い口付け。
 けれど触れた瞬間、彼女の息がふっと漏れ、細い指が俺の腕を掴んだ。

 その反応があまりにも可憐で。

 もうひとつ、深く口付ける。

 湿った唇が柔らかく溶け合い、湯殿の静寂に二人の呼吸だけがふわりと響いた。

 唇を離すと、セレーネは息を呑み、濡れた睫毛の向こうで瞳が潤んでいた。

 口付けを離したあとも、胸の奥の熱はまったく収まらなかった。

「……セレーネ」

「……な、なんですか……?」

 濡れた睫毛が震え、俺を見上げる。

 その視線だけで、喉がひりつくほど熱が走った。

「……おさまりそうにない」

「っ……!」

 セレーネは一瞬目を見開き、湯殿の静寂がそのまま時を止めたようになった。

 どうすべきか迷っているのがわかる。
 頬は湯で赤いのか、それとも羞恥なのか——判断できないほど美しい。

 しばらく沈黙が続いた。

 そして。

 セレーネは、小さく息を吸い……おそるおそる、俺の方へ手を伸ばした。

「……す、少しだけ……なら……」

 その指先は、湯の泡を掬ったまま震えている。

 触れようとして、泡がふわりとすべり落ちた。

 空を切ったその手が、気まずさに揺れる。

 その仕草が、湯よりも柔らかく下腹部の奥に落ちる。

 俺はそっとその手を受け止めた。

「セレーネ……」

 泡が残る指先を包むと、ぬるりとした感触が互いの距離を曖昧にする。

 彼女は俯きながら、小さく呟いた。

「……その……」

 湯気の向こうで震える肩。

 ——胸を締めつけるほど愛しい。

 湯気が二人の間を揺らし、まるで触れれば崩れる薄い膜一枚で隔てられているようだ。

 彼女の視線が、ちらりと、すぐそらされるほどの一瞬だけ俺の体をかすめた。

 そのたった一瞬に——胸の奥の熱が、形を持ち始める。

 込み上げる衝動が、湯殿の熱と混ざりあい、息づかいまでも濃くなる。

 触れたい。
 湯気に紛れたその震えを、この腕の中で確かめたい。


「セレーネ」

「……は、はい……」

「君が恥じらうほど……俺は興奮してしまう」

 その言葉に、彼女はか細い声で息を漏らした。

 その瞬間——湯気よりも熱いものが、静かに、確実に、俺の内に満ちていく。


「君のここもまだ洗っていなかっただろう?」

 俺はセレーネの身体を持ち上げると、膝の上に乗せた。

 泡立つ局部を擦り合わせ、逃げようとするセレーネの腰を引き寄せた。


「変な事しないって!」

「洗いあっているだけだ」


  泡で摩擦が軽減され、つるりと勢いで滑るたびにセレーネの身体が跳ねる。

 甘い吐息が肌にかかり、思わずその口をまた塞ぐ。


「もう、しないって……っ」

 縋るように絞り出された声は、湯気に溶けて震えていた。

「確かに。このままでは夕餉に遅れてしまうな」

 そう言いながらも、自分の身体がまったく言うことを聞かない。
 セレーネの細い腰が、怯えたように、しかし拒んでいない震えを帯びて揺れるたび——抑えていた熱が、また奥から押し上がってくる。

 自分でも笑ってしまうほど、我慢が効かなくなっていた。

(……まずいな。これは本当に終わりが見えない)

 ふと、アーヴィング侯の渋い顔が脳裏をよぎる。



「……我慢しよう」

 自分に言い聞かせるように呟くと、セレーネが潤んだ瞳で不安そうに見上げた。

「レオニス……?」

 その呼び方ひとつで、また胸の奥に火がつく。
 だが、本当に時間がない。

「湯に浸かれば、少しは落ち着くかもしれない」

 強引に理由をつけ、俺は彼女の細い身体をそっと腕にすくい上げた。

「きゃっ——」

 腕の中のセレーネが顔を赤くして首をすくめる仕草は、理性にわずかな冷静さを与える。

 彼女の小さな手が俺の肩を掴んだ。

 腕に力を込め、そのまま湯縁まで一気に歩き、足を止めた。ためらいなく足を湯へ入れ、そのまま彼女ごと抱いたままゆっくり沈んでいく。

 湯面が揺れ、ふたりの身体をまとわりつくように温めた。

 肩まで湯に沈んだセレーネが、濡れた睫毛を震わせながら俺の胸に額を預ける。

 腕の中の彼女が湯に溶けるように柔らかくなる。

 それだけで、さっきまで荒れ狂っていた衝動が少しずつ和らいでいくのを感じた。


 湯気の向こうで、しんと静まった空気が胸の奥に沁みていく。
 温かい湯に包まれたセレーネの吐息が、薄く震えながら俺の胸に触れた。

 その温度が、落ち着かせるどころか逆に深いところを刺激する。

 けれど——彼女が安心して寄り添っている今だけは、熱よりも言葉を優先したかった。

 そっと、湯に濡れた彼女の髪を指先で梳く。

「……セレーネ」

「ん……?」

 湯気の中で顔を上げた彼女は、頬を赤くしながらも素直にこちらを見つめている。

 その眼差しに、胸がわずかに痛んだ。



「アーヴィング侯のことだが」

「えっ!? 急に……お父様!?」

 驚きに湯が波立つ。
 その反応に、俺は小さく息を吐いた。

「……俺は君に嫌われることには慣れているが」

 セレーネが瞬きをした。
 その沈黙は、否定ではなく、ただ受け止めようとする静けさだった。


「食事までに、どうか赦(ゆる)してあげてはくれないか?」

 湯気がゆらりと揺れ、彼女の視線が、俺の胸もとへそっと落ちる。

「……それで、我慢……したの?」

 少し照れたように、けれど意地悪な笑みを隠しもせずに尋ねてくる。

 その笑みに、力が抜けるほど愛しさがこみあげた。

「うむ」

 正直に答えると、セレーネは小さく肩を震わせて笑った。

「すごい……」

「君を可愛がる時間は食事の後にいくらでもある」

 囁くように告げると、セレーネの呼吸がふっと止まった。

 今度は俺の胸に額を預け、小さな声で「……もう……」とこぼす。

 湯気はゆらゆらとふたりを包み込み、
 甘さと、まだ消え切らない熱をやわらかく溶かしていった。


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