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59話『甘い焦燥』
しおりを挟む日が落ちかけ、屋敷の廊下に橙の光が差し込んでいた。
被災地から戻ったばかりの屋敷は、通常よりも慌ただしい。
復興作業員からの追加注文だろうか、階下からは騒がしい声と金属音が絶え間なく聞こえてくる。
そんな中、俺は静かに眉を寄せた。
(……セレーネの姿が見えない)
屋敷に戻った時からずっと胸にひっかかっていたその違和感は、時間とともに小さく鋭い焦りへと変わっていた。
書庫にも、庭園にも、彼女の姿はない。
夕食前のこの時間にいないはずがないのに。
「セレーネは?」
「お嬢様なら——」
女中の言葉に、俺は瞬時に反応した。
「どこに?」
「ち、厨房に……! タルトの生産が追いつかず、手伝ってくださっているようで……!」
「厨房に?」
厨房は、火と刃物がひしめく最も危険な場所だ。
普通、貴族の娘が足を踏み入れる場ではない。
(……何をしているんだ)
焦りと、呆れと、どうしようもない愛しさが胸に渦巻いた。
俺は一気に階段を下り、厨房へ向かった。
*
厨房の扉を開けた瞬間——熱気と甘い香りがどっと押し寄せた。
「……すごいな」
大量のタルト生地が焼き台に並び、料理人たちが次々と作業を進めている。
その中心に——セレーネがいた。
袖を捲り、髪を束ね、頬をうっすら赤く染めながら、小さな型にタルト生地を詰めている。
周囲の職人たちが彼女を慕うように視線を向けながら、
「セレーネ様、こちらお願いできますか!」
「型、足りません!」
などと声を掛けるたび、
「はーいっ、待ってください!」
と元気よく返している。
貴族らしさのかけらもない。
なのに、どうしてだろう。とても輝いて見える。
(……よかった)
厨房のざわめきさえ遠のくほど、胸がじわりと温かくなる。
そこにいてくれたことに安堵している自分が滑稽に思えるほどに。
気づけば、足が勝手に向かっていた。
「セレーネ」
「——えっ? レ、レオニス!?」
振り向いた彼女が、驚きの顔を浮かべた。
頬に粉がついている。
指先は少し赤い。
「何を……しているんだ」
「えへへ……タルトが全然足りなくて」
「君も作っているのか……?」
「う、うん……みんな頑張ってくれてるから、私も手伝わないと!」
誇らしげに胸を張る彼女に、俺はため息を落とした。
怒りではない。
呆れでもない。
(……本当に、目が離せない)
気づけば、彼女の手首をそっと取っていた。
「熱いものだらけなんだ。危ない」
「あ、でも私——」
「だとしてもだ」
ほんのわずかに声が低くなった。
「……君がまた怪我でもしたらと思うと落ち着かない」
「っ……」
セレーネの肩がびくりと震える。
赤い夕陽が二人の影を長く伸ばし、厨房の喧騒の中にだけ、静かな空気が生まれた。
「そんな、お菓子作りごときで心配なんて」
ぽつりと落としたその一言に、セレーネは胸に手を当て、
小さく、小さく、息を吸った。
「……嬉しい……けど、過保護すぎよ」
目を逸らしながらのその言葉が、俺の胸をまた温かく締めつけた。
腕を伸ばし、タルトの甘い香りの中でそっと抱き寄せたくなる。
しかし。
厨房の職人たち約十名が、一斉にこっちを見ていた。
さすがにまずい。
俺は一拍置いて、そっと手を離した。
「……少し話したい事があるんだが」
「え?話……?」
セレーネが、こくんとうなずいた。
厨房を出た瞬間、熱気が嘘のように引き、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
だが、胸の内の熱は冷めない。
セレーネがタルト生地で頬を赤くしながら笑っていた姿が、ずっと脳裏に焼きついたままだ。
袖をまくった白い腕。
集中して結んだ口元。
自分の名前を呼んだときの、あの無防備な瞳。
誰にも見せずに閉じ込めてしまいたい。
数歩歩くごとに胸の奥の衝動が強くなる。
廊下には誰もいない。
夕刻の光だけが静かに伸びている。
「レオニス……?」
セレーネが黙り込む俺を、不安そうに覗き込んできた。
たかがその声ひとつで——理性の糸が切れた。
腕が動いていた。
セレーネの手首をそっと掴み、自分の方へ引き寄せる。
「きゃ——っ」
驚きの声ごと、胸の中に収めた。
抱きしめるというより、“抱き寄せずにはいられなかった”。
腕の中に収まった瞬間、張りつめていた息がゆっくりほどける。
「……っ、レオニス……?」
まだ厨房の香りが残る髪が触れて、体温の近さに胸が鳴る。
「……我慢できない」
低く、掠れた声で打ち明ける。
「どこにいても……ずっと君の姿が頭から離れない」
セレーネの肩がぴくりと震えた。
「ええ……」
抱きしめた腕に少しだけ力をこめる。
「俺は君がいないと落ち着かないのに……君は俺がいなくても平気なのか……」
情けない嫉妬を言葉にしたことに気がついて、言葉が詰まる。
しかし、セレーネはそっと胸に指を当てて囁いた。
「全く平気です」
「なっ……」
「お仕事中はきちんとお仕事のことを考えていてください」
セレーネの目が大きく開き、頬が真っ赤に染まった。
廊下に差す夕陽が、二人の影を重ねる。
「……顔が赤いが」
俺が囁くと、セレーネはぎゅっと視線を泳がせた。
「ち、厨房が……熱かったんです」
「そうか」
夕刻の光が二人の間に斜めに差し込み、彼女の横顔だけが淡い金に染まっていた。
美しい。
息が詰まるほどに。
俺は彼女の頬をそっと指先でなぞり、静かに問う。
「……口付けをしてもいいか?」
「っ——」
セレーネは弾かれたように顔を上げた。
「こ、こんなところで……!?」
「こんなところ、とは?」
わざと聞き返すと、彼女はますます顔を赤くして言葉を失った。
可愛い。
「ここは——」
彼女の顎に軽く手を添え、ゆっくりとその視線を捕まえる。
「俺の屋敷だ」
その一言で、セレーネの肩が小さく震えた。
抵抗しようとする気配が消え、代わりに胸の奥の熱が静かに溢れ出していく。
もう、理性で押しとどめる必要はなかった。
腰を引き寄せ、抱き締めた体の線がぴたりと重なる。
夕陽に透かされる髪が頬にかかり、甘い香りがくぐもって広がる。
「……セレーネ」
名前を呼んだ瞬間——彼女の吐息が震え、唇がかすかに開いた。
その隙を、俺の唇が静かに奪う。
最初の触れは羽のようにやわらかく。
だが触れた途端、胸の奥に溜め込んでいた熱が堰を切った。
もう浅く触れるだけでは足りない。
抱き寄せる腕に力が入り、彼女の背を引き寄せ、唇を重ねたまま深く溶かし込むように口付けた。
セレーネが小さく息を漏らし、胸に縋る指が震える。
その反応に、理性がゆっくりと焼き落ちていく。
唇を離すとき、ほんの細い糸のような息が二人の間で絡まった。
「……こんなところ、ではだめか?」
耳元で囁くと、セレーネが胸元を掴んだまま震える声で答えた。
「……っ……だめですけど……」
その“けど”が何なのかを聞く前に、もう一度、彼女の唇に口付けた。
今度は——先ほどよりも、深く、長く。
廊下に沈む夕刻の光が、ふたりの影を重ねたまま揺らしていた。
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