プルートーの胤裔

くぼう無学

文字の大きさ
上 下
37 / 131

天元

しおりを挟む
 わたくしの目の前に今、あずさのキス待ち顔があった。静かに目を閉じて、顔を少し上向きにしていた。その顔をまともに見たわたくしは、おろおろと食堂に誰もいない事を確認した。
「こら。そんな事、できるわけないだろう」
 小声を使った。
「犯人の名前、知りたくないんですか?」
 あずさは目を閉じたまま口を動かした。化粧っ気のない生娘の素顔は、おじさんにとって毒でしかなった。
「キスをしてくれれば、教えてあげますから」
 わたくしは顔を横に向けて、横目であずさの唇を見た。この娘は天道葵と一緒に働いていたと告白した。そして、天道は心中をしたのではなく、誰かに殺されたのだとも言ってきた。これはかなり信憑性の高い話ではないだろうか。
「宗村さん、あたしとキスをするのがそんなに嫌なんですか?」
 気が付くとあずさは片目を開けていた。
「そんな。嫌というわけではないが、俺は美咲と付き合っているわけだし、こんな非常識な真似ができるはずは」
 あずさの両目が大きく開いた。
「えっ! 宗村さんと美咲さんって、お付き合いしているんですか?」
「見て分からなかった?」
 わたくしは両手で髪を掻き上げた。
「ぜんッぜん。ただの友人か仕事仲間かと」
「友人? そうか、俺たちはそんな風に見えるのか」
 あずさは人差し指を顎に当てて、やや斜め下の方向を見た。
「でも、キスくらいなら、良いじゃないですか? 別に」
「キスくらいって、こらこら」
 あれ? 待てよ? キスくらいなら、別に良いんじゃないか? 美咲との恋人役なんて、SТGの都合であって仮の姿なのだし。
 あずさは背中で手を組んで、上目使いでこちらを見ていた。わたくしは生唾を飲み込んだ。
 ちょうどその時、食堂の重いガラス戸の開く音がした。二人して顔を動かすと、ガラス戸の間から美咲が顔を出した。
『しかし綺麗だなあ。コソコソしてないでちゃんと紹介しろよ』
 岸本は彼女の容姿を絶賛していた。わたくしも、そう思う一人に違いなかった。美咲は携帯電話を見せて、敷島から電話だと言った。
「ああ、すまんすまん、いま行く」
 わたくしは急いであずさの元を離れた。美咲から携帯電話を受け取る時、彼女はわたくしには見向きもせず、ただ黙ってあずさを見詰めていた。
『どうだ、江口の件で何か進展はあったか?』
 わたくしが自室のベッドに横たわると、美咲は無言でデスクに向かった。
「あったあった。大ありだ」
『ほう。江口の携帯電話でも見つかったか』
 わたくしは二秒黙った。
「なんで、知っているんだ?」
『テレビの情報は馬鹿にできない。江口の携帯電話がいまだ発見されていない事くらい、平気で報道する』
「おおそうか。テレビか。敷島の言うとおり、今しがた江口の携帯電話が見つかった。警察による江口の部屋の調べが終わって、遺留品が運び出された後になって、ついさっき岸本が発見した。宿泊者名簿から江口の番号にかけたら、間違いなくその携帯電話に着信があった」
 わたくしは体を起こして、背後のベッドに左手を突いた。
『なるほどな。おもしろい。警察には連絡したか?』
「ああ、いま彼らが来ていて、江口の携帯電話に見覚えがないかどうか、宿泊者全員を対象に聞いて回っている」
 電話の向こうがやけに静かだった。
『まあ、誰も見覚えがあるとは言わないだろう。わざと置いたとするならばな』
「わざと置いたか。しかし、江口を自殺として発表した警察は、決してそうは言わんだろう」
『まあな。江口の宿泊した部屋を調べた時に、捜査員の見落としがあったとこう発表するだろう。そして、携帯電話の中身を見て、特に異常な点、容疑者の存在を証明するような記録はなく、江口サダユキの自殺の線は変えない』
 わたくしは携帯電話を耳にしながら、手触りの良い掛布団の表面を手で撫でた。美咲が少し振り返った。
「なあ敷島、君は最初からこの事件についてある程度の事を知っていたのだろう? なんで俺にそれを話してくれなかったんだ?」
 敷島は三秒黙った。
『どうした急に』
「数十年前から都内で不審な自殺者が後を絶たない。彼らはみな晦冥会の元信者で、天道も木原も江口も晦冥会の関係者だった。彼らはバイフーと呼ばれる晦冥会の暗殺者によって殺された可能性がある」
 美咲は振り返った顔に瞬きを見せた。
『うむ、なるほど。どこでその話を聞いた』
「石動刑事だ。晦冥会から逃げ出した元信者たちが、次々に不審な自殺を遂げている事に彼は疑念を抱き、今回の天道の心中事件にも目をつけた。それを彼は、晦冥会の殺し屋『バイフー』の仕業だと目星をつけている」
 敷島はたっぷりと間を置いて、
『そうか。石動の奴め、君にそこまで話してしまったか。口止めをしておくべきだった』
 美咲は椅子を回してこちらへ体を向けた。
「なぜだ。なぜその事を俺に黙っていたんだ。ただ天道葵の自殺について調べろだなんて、どういうつもりだ」
 電話の向こうで、窓を解錠して引いて開ける音が聞こえた。そして風によるノイズ。
『宗村、別に俺は意地悪をして黙っていたわけではない。君には古い友人の岸本から相談を受けた一般人の視点から、今回の事件を見て触れて感じて欲しかったのだ。何も知らない状態から調べれば、今回の事件のまた新しい側面が見えてくるかもしれない。俺はそう期待をよせていた』
「新しい側面? 晦冥会のバイフーによる暗殺事件、それ以外にまだ分かっていない側面があるのか」
 恐らくは那覇上空だろう、夜間飛行の音が聞こえた。
『ある。特に天道葵については、俺もまだ掴み切れていない部分がある。妙な話だが、今回の一件を囲碁で例えるならば、バイフーの打った碁石の手の内がいまだ読み切れていない』
「囲碁だって?」
 わたくしは思わずベッドから起き上がった。
「今回の事件はそんな戦略的な話なのか?」
『極めて戦略的だ。俺たちは今、闇の向こうの見えない棋士と戦っている。そして君と美咲は今回、碁盤において天元という四方に睨みを利かせる位置に置かれた石なのだ』
 左手で頭を掻いた。
「何だか、ピンとこない話だな。結局のところ、俺という石はまだ何の役目も果たしていないじゃないか。天元だっけ? 俺はぽつんと置かれた碁石だ」
『何を言う。君はその存在によって相手の石の動きを鈍らせている』
「ほう! それは豪儀な話だ。で、その棋士は色仕掛けが得意な美人の殺し屋、晦冥会のバイフーに違いないのだな」
 敷島は声のトーンを低くした。
『宗村、あまり物事を安直に考えるな。闇の向こうにいる棋士はバイフーとは限らない。また、一人の棋士とも限らない。闇の向こうからスッと手が現れて、碁盤に石を置く。その一手一手を読みながら、自分たちの弱い石を意識して、相手の模様に打ち込んで生きるしかない』
「囲碁の、話だよな?」
『とにかく宗村、俺も石動も、なんとしてでもこの手で犯人を捕まえなければならないのだ。この手で彼女の仇を打たなければならない』
「彼女の仇?」
 電話の向こうで窓を閉める音が聞こえた。
『いずれ分かるさ。君はもう犯人と接触しているのだから』
「なんだって?」
しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

時計の形をした心臓(旧)

ホラー / 連載中 24h.ポイント:85pt お気に入り:15

こわくて、怖くて、ごめんなさい話

ホラー / 連載中 24h.ポイント:468pt お気に入り:8

時計の形をした心臓

ホラー / 連載中 24h.ポイント:839pt お気に入り:3

不死王はスローライフを希望します

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:30,327pt お気に入り:17,429

アイドルと七人の子羊たち

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

京都に住んで和風ファンタジー(時には中華風)の取材などする日記

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:0

処理中です...