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誓いのキス
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神殿は荘厳な建物だった。繊細な彫刻がなされた石柱が並び、アーチ状の天井を支えている。壁には建国神話を描いたステンドグラスが嵌め込まれ、色とりどりの光を床に投げていた。この国で最も有名な、国祖による竜退治の逸話だ。
かつてこの地には邪竜がいたという。邪竜は天候を狂わせ、土地を汚染し、人々は大変苦しんでいた。そこに現れたのが勇気ある騎士であった国祖で、彼は仲間とともに剣を取り、死闘の末に邪竜を退けた。以降、邪竜は国祖のもとに下り、国祖はこの地に建国した、というものだ。
神殿の入り口をくぐると真っ赤な天鵞絨が敷かれており、祭壇の前で神官が待っていた。
イリーシャはユージンと腕を組み、神官の元までしずしずと歩いていった。そうして、聖なる衣装を纏った神官の前で、向かい合った。
目の前のユージンは少し緊張しているようだった。薄い唇を引き結び、一心にイリーシャを見つめている。天井の円窓から降り注いだ光を受けて、罪など一つも犯したことのない、どこにでもいる純真な青年のように輝いていた。神殿の窓を通ると、ただの日光も罪を洗い流す神聖さを帯びるのだろうか、とどこか遠くイリーシャは考えた。
「——イリーシャ=ド=クロッセル、誓いますか?」
神官の呼びかけに、イリーシャは現実に引き戻された。結婚の誓いの言葉だろう。病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、というやつだ。彼女とてクロッセル公爵家で淑女教育を受けているので、おおよそ何を言っていたかは察しがつく。
それに、どのみち拒絶は許されない。
ユージンの視線の圧を感じながら、イリーシャはいやいや頷いた。重い口をなんとかこじ開ける。喉が塞がり、舌が萎えていた。それでも、床に視線を落としながら、乾いた声で呟いた。
「誓います」
その途端、ユージンの手がさっと伸び、イリーシャの腕を掴んだ。神官が咎めるような目を向ける。だがユージンはそんなことには構わず、心底嬉しそうな顔をイリーシャに見せていた。
神官が咳払いをして、式を続ける。
「ユージン=ド=クロッセル、誓いますか?」
ユージンの反応は早かった。素早く頷き、神官には目もくれず、イリーシャだけをうっとりと見つめた。比類なき真摯さで、重々しく宣言する。
「——誓います。たとえ、死が二人を分かつとも」
イリーシャの背筋が粟立つ。死んだとて逃さないという意思表示か。左腕は、痕が残りそうなほどの強さで掴まれている。振り払いたくなるのをぐっと堪え、彼女は深く俯いた。顔にかかる薄絹のヴェールは、彼女の表情を隠してはくれなかった。
神官はもう、この様子のおかしい夫婦には頓着しないことに決めたらしい。淡々と指輪を取り出し、交換するように促した。
これもユージンが用意していたものだろう。細い指輪を手のひらに乗せ、イリーシャは無感情にそれを眺め、ユージンの薬指に嵌めた。彼は左手を掲げ、光に指輪を透かしてみせた。きらめくダイヤが三石ついた、シンプルなデザインだ。イリーシャにとっては、そのきらめきも美しさもどうでもよい。ただ、その小さな指輪が何か意志を持った生き物に思えて、ユージンに嵌められたとき、薬指に噛みつかれたような気分になった。
「それでは、誓いのキスを」
つつがなく指輪の交換が終わり、神官が式を進める。イリーシャは唇を強く噛んだ。耐えろ、と自分に言い聞かせる。目を閉じて、息を止めていればおしまいだ。別に自分からする必要はない。黙って、身動きするな。
ユージンの手がヴェールを取り払う。イリーシャは心持ち顎を上げ、固く目を閉じた。歯を食いしばり、腰が引けそうになるのを全身全霊でもって押しとどめる。
——やがて、口元に何かが触れた。
暖かなそれが手のひらだ、と気づいて、イリーシャはうっすら瞼を上げる。ユージンは困った子どもを見るように、けれど愛おしくてたまらないというように、微笑んでいた。
そっと顔が寄せられる。イリーシャが何かするまでもなく、ちゅ、と柔らかな音を立てて、ユージンは自分の手の甲に——おそらくは指輪に、キスを落とした。
「我が妻は、緊張しているようなので」
怪訝そうな神官に、苦笑しながら言う。イリーシャは言葉を失ってその場に立ち尽くした。
呆然と手を上げ、口元に触れる。汚されるものと決めつけていた唇は、清らかなままだった。
なぜこんなふうに? イリーシャは激しく瞬いた。私が嫌がったから? ロビンの命は奪えるくせに、私の唇は奪えないというの? 私が嫌がるという、ただそれだけで?
目の前のユージンは、気分を害したふうでもなく、穏やかな眼差しをイリーシャに向けていた。放心した彼女に、羽ペンを手渡してくる。
「イル、サインを」
「は、はい……」
促されるまま、イリーシャは羊皮紙にペン先を滑らせる。それは結婚契約書だった。一度サインすれば、夫の許しなく離縁することは許されない。この国ではそのように取り決められている。たった一枚の羊皮紙に名前を書くだけで、イリーシャの運命は決まる。
(どのみち、もう逃げられないわ)
イリーシャは眦を決し、最後まで名前を書き終えた。インクの滲みはひどいし、文字が歪に震えている。教育を受けた公爵令嬢とは思えない筆跡だ。しかし、契約の有効性に問題はないだろう。
イリーシャの名前の横に、ユージンが優美な筆致で自身の名を記す。神官が契約書を検め、問題ないというように頷いた。神官の手で羊皮紙がくるくると丸められ、封蝋がなされる。これは神殿で厳重に保管され、しかるべきときにのみ表に出てくるのだ。
「それではご両人、よき旅路を」
神官が厳かに告げ、結婚式は終わった。
かつてこの地には邪竜がいたという。邪竜は天候を狂わせ、土地を汚染し、人々は大変苦しんでいた。そこに現れたのが勇気ある騎士であった国祖で、彼は仲間とともに剣を取り、死闘の末に邪竜を退けた。以降、邪竜は国祖のもとに下り、国祖はこの地に建国した、というものだ。
神殿の入り口をくぐると真っ赤な天鵞絨が敷かれており、祭壇の前で神官が待っていた。
イリーシャはユージンと腕を組み、神官の元までしずしずと歩いていった。そうして、聖なる衣装を纏った神官の前で、向かい合った。
目の前のユージンは少し緊張しているようだった。薄い唇を引き結び、一心にイリーシャを見つめている。天井の円窓から降り注いだ光を受けて、罪など一つも犯したことのない、どこにでもいる純真な青年のように輝いていた。神殿の窓を通ると、ただの日光も罪を洗い流す神聖さを帯びるのだろうか、とどこか遠くイリーシャは考えた。
「——イリーシャ=ド=クロッセル、誓いますか?」
神官の呼びかけに、イリーシャは現実に引き戻された。結婚の誓いの言葉だろう。病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、というやつだ。彼女とてクロッセル公爵家で淑女教育を受けているので、おおよそ何を言っていたかは察しがつく。
それに、どのみち拒絶は許されない。
ユージンの視線の圧を感じながら、イリーシャはいやいや頷いた。重い口をなんとかこじ開ける。喉が塞がり、舌が萎えていた。それでも、床に視線を落としながら、乾いた声で呟いた。
「誓います」
その途端、ユージンの手がさっと伸び、イリーシャの腕を掴んだ。神官が咎めるような目を向ける。だがユージンはそんなことには構わず、心底嬉しそうな顔をイリーシャに見せていた。
神官が咳払いをして、式を続ける。
「ユージン=ド=クロッセル、誓いますか?」
ユージンの反応は早かった。素早く頷き、神官には目もくれず、イリーシャだけをうっとりと見つめた。比類なき真摯さで、重々しく宣言する。
「——誓います。たとえ、死が二人を分かつとも」
イリーシャの背筋が粟立つ。死んだとて逃さないという意思表示か。左腕は、痕が残りそうなほどの強さで掴まれている。振り払いたくなるのをぐっと堪え、彼女は深く俯いた。顔にかかる薄絹のヴェールは、彼女の表情を隠してはくれなかった。
神官はもう、この様子のおかしい夫婦には頓着しないことに決めたらしい。淡々と指輪を取り出し、交換するように促した。
これもユージンが用意していたものだろう。細い指輪を手のひらに乗せ、イリーシャは無感情にそれを眺め、ユージンの薬指に嵌めた。彼は左手を掲げ、光に指輪を透かしてみせた。きらめくダイヤが三石ついた、シンプルなデザインだ。イリーシャにとっては、そのきらめきも美しさもどうでもよい。ただ、その小さな指輪が何か意志を持った生き物に思えて、ユージンに嵌められたとき、薬指に噛みつかれたような気分になった。
「それでは、誓いのキスを」
つつがなく指輪の交換が終わり、神官が式を進める。イリーシャは唇を強く噛んだ。耐えろ、と自分に言い聞かせる。目を閉じて、息を止めていればおしまいだ。別に自分からする必要はない。黙って、身動きするな。
ユージンの手がヴェールを取り払う。イリーシャは心持ち顎を上げ、固く目を閉じた。歯を食いしばり、腰が引けそうになるのを全身全霊でもって押しとどめる。
——やがて、口元に何かが触れた。
暖かなそれが手のひらだ、と気づいて、イリーシャはうっすら瞼を上げる。ユージンは困った子どもを見るように、けれど愛おしくてたまらないというように、微笑んでいた。
そっと顔が寄せられる。イリーシャが何かするまでもなく、ちゅ、と柔らかな音を立てて、ユージンは自分の手の甲に——おそらくは指輪に、キスを落とした。
「我が妻は、緊張しているようなので」
怪訝そうな神官に、苦笑しながら言う。イリーシャは言葉を失ってその場に立ち尽くした。
呆然と手を上げ、口元に触れる。汚されるものと決めつけていた唇は、清らかなままだった。
なぜこんなふうに? イリーシャは激しく瞬いた。私が嫌がったから? ロビンの命は奪えるくせに、私の唇は奪えないというの? 私が嫌がるという、ただそれだけで?
目の前のユージンは、気分を害したふうでもなく、穏やかな眼差しをイリーシャに向けていた。放心した彼女に、羽ペンを手渡してくる。
「イル、サインを」
「は、はい……」
促されるまま、イリーシャは羊皮紙にペン先を滑らせる。それは結婚契約書だった。一度サインすれば、夫の許しなく離縁することは許されない。この国ではそのように取り決められている。たった一枚の羊皮紙に名前を書くだけで、イリーシャの運命は決まる。
(どのみち、もう逃げられないわ)
イリーシャは眦を決し、最後まで名前を書き終えた。インクの滲みはひどいし、文字が歪に震えている。教育を受けた公爵令嬢とは思えない筆跡だ。しかし、契約の有効性に問題はないだろう。
イリーシャの名前の横に、ユージンが優美な筆致で自身の名を記す。神官が契約書を検め、問題ないというように頷いた。神官の手で羊皮紙がくるくると丸められ、封蝋がなされる。これは神殿で厳重に保管され、しかるべきときにのみ表に出てくるのだ。
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