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一章
美しい人 1
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「──さん、……ミハルドさん!」
「っ!」
不意に耳元で大きな声が響き、そこでミハルドの意識が浮上した。
声がした方を見れば、一人の男が心配そうに己を見つめている。
「あ、よかった。起きてくれて」
ばちりと目が合った──本当はあまり開いていないが──瞬間、にこりと優しい笑みを浮かべられた。
柔らかな金髪が窓から差し込む太陽によって輝き、さながら神々しさすら感じるほどだ。
深く青い瞳は澄んだ海を思わせ、同時に何も知らない純新無垢な人間のそれとよく似ていた。
「起こそうか迷ったんだけど、苦しそうだったから」
王太子、エルが愛しているただ一人の男──アルトが一瞬だけ眉根に皺を寄せて続ける。
リネスト国では、民や貴族という身分を問わず同性同士での婚姻が認められており、それは王族も例外ではない。
というのも、エルは幼い頃に一度出会ったきりのアルトを二十年間ずっと慕っていたという。
あまり褒められた事ではないが、国王に忠誠を誓う『影』という存在を使ってアルトの周囲を定期的に調べさせていたらしい。
その時のアルトは公爵位を継いでから五年が経とうとしており、ある令嬢との婚約話もあったようだ。
令嬢の家に王太子手ずから『婚約破棄をするように』という手紙を書いた、と聞かされた時は耳を疑った。
しかしもっと酷いのは、公爵邸へほとんど毎日のように『王宮に来て欲しい』という手紙と共に使用人を向かわせていた事だった。
いち王族が貴族とはいえ一人の男に懸想し、変質者じみた行為をしていると民に知られては事だ。
但しそこのところはエルもしっかりしているため、アルトが警察に通報でもしない限り──そもそも王族はよっぽどの事でない限り法律で裁けないが──表沙汰にはならない。
粘りに粘った甲斐もあってか、アルトが王宮に姿を見せた時には喜びを隠し切れなかったようで、その日は終始笑顔だったのを昨日の事のように思い出せる。
それ以降はアルトとエルの間を奔走しながら、自分の職務もこなしていた。
半年という最短の婚約期間を経て、アルトが公爵から王配という身分になってから実に一年が過ぎている。
アルトが日に日に愛されているのは、ミハルドや他の使用人の目から見ても明らかだった。
「大丈夫、か……?」
そして今は自分でも気付かぬうちにうたた寝をしてしまったようで、心配して起こしてくれたらしい。
仮にもミハルドとアルトが居る場所は孤児院で、今も周囲では幼い子供達の声がそこかしこで響いている。
アルトが公爵になった時から、ここレノシクス孤児院に個人的な出資をしていた──と院長であるフランツに教えてもらった。
それまでは満足に運営ができず、数多の子供達と共に一日生活するのにも困っていたようだ。
出資してもらうようになってからはある程度余裕が出来たが、アルトが王宮で過ごすようになってから街では子供の間で流行病が伝染していった。
次々に子供達が病気になり、突貫で造った離れでフランツ自身が看病する毎日だったという。
ただただ回復を祈るしかできない自分が嫌で、心身ともに疲れきっていた時、数ヶ月ぶりにアルトがやってきた。
その時はミハルドも一緒で、表向きはアルトの監視という役目だったが、子供たちの相手ばかりであまり意味を成さなかったのはいい思い出だ。
アルトを子供たちが臥せっている離れの小屋に案内し、それからすぐにアルト・ムーンバレイの名義で本格的な援助を始めたというのは後から知った。
『本当に有難い限りです。……あのままでは、私まで倒れてしまう状況でしたから』
涙ながらに己に零したフランツの言葉や表情は、今でも覚えている。
それから一ヶ月ほどしてエルと婚約すると、今度は王配として月に何度となく様子を見に来てくれているという。
時としてミハルドも護衛という名目で着いてきているが、今日ばかりはあまりにも迂闊だった。
うたた寝をするなど、普通ならば叱責されてもおかしくないのだ。
「申し訳ございません。……最近、あまり寝ていないもので」
ミハルドは軽く頭を下げて謝罪するが、すぐに慌てた声が後に続く。
「いや、そりゃ駄目だろ!? 俺が皆の相手するからさ、ミハルドさんはどっか……ベッド使ってもいいか聞いてくるから、休んでて」
な、と努めて冷静に言おうとしている姿が、なんともいじらしい。
睡眠時間が足りているとは言い難いが、身体に大きな支障はないため大丈夫だろうと思う。
但しそれをアルトに悟られたら最後、何がなんでも休ませようとしてくるのは目に見えている。
(エル様が離さないのも頷ける)
そもそもエルは新しい王妃を娶らず、かといって他の男に目移りする事もないのだ。
容姿端麗で頭脳明晰な、この上ないほど完璧な男がただの一人を愛するなど、普通ならば王宮に出入りする高官らはもちろん、年頃の令嬢や令息が黙っていない。
しかしエルはつい数日前、突如国王や自身を含めた高官らの前で言ったのだ。
『王家の血を引く者を王太子に選出したい。第一に次期リネスト辺境伯は長男、ジョシュア・リストニアを。第二に──』
最初こそ高官らの反発があったものの、皆が皆エルが本気で言っていると感じていた。
アルトは男で、もちろん子は望めない。
正式に婚約した時から王妃を娶る気はないと宣言していたため、高官の中には最初から諦めていた者も少なからず存在した。
しかしその中でも強い影響力を持つ一人の公爵が居たため、同調するしかなかった──こっそりとミハルドに教えてくれた者が複数居た。
(わざわざ教えてくれたのはありがたいが、それを言って何になるんだろうか)
たとえエルに進言したとしても、言い訳にしか聞こえないだろう。
場合によっては余計な仕事が増える一方になるため、自身の胸に秘めておくに限るというものだった。
「み、ミハルドさん……?」
黙ってしまったミハルドを不安に思ったのか、アルトが更に眉を寄せて名を呼んでくる。
その表情が小動物のようで、無性に庇護欲をそそられた。
感情が顔に出やすいのは初対面の頃から分かっていたが、最近ではエルが溺愛する気持ちも分かるほどになっていた。
(弟が増えたみたいだ)
そんな思いで喉の奥で小さく笑うと、ミハルドは緩く口角を上げる。
「お気遣いありがとうございます。しかし、ただの護衛が主の前で寝ていては殿下にこっぴどく叱責されますので──」
「黙ってたら分からないって」
最後まで言い終わる前に、アルトが呆れた声で言う。
「それに、エルはそんな小さいことで怒らないと思う」
だから大丈夫だよ、ととびきりの笑顔で続けた。
(怒らないのは貴方様にだけです)
そう言ってしまいたいのをぐっと堪え、ミハルドは思う。
王太子が王配を溺愛しているのは国内外問わず有名な話で、少しでも言葉で傷付けようものなら重罪が科される、という噂がまことしやかに囁かれている。
もっとも、エルならば本当に実現させそうなきらいがあるため、そうならないよう気を張っていなければならなくなったのは頭が痛かった。
加えて今日は『孤児院に行く』とアルトが前日に言っていたようで、終始『俺も行く』と言って聞かなかったのだ。
しかしエルには隣国へ向かう予定が前々からあったため、長期間王宮を留守にする。
建前は『離れるのが寂しい』という理由だったが、アルトがいない時にそれとなく本音を聞くと『悪い虫が付くから心配』らしかった。
『束縛してる自覚はある。でも……困らせたくはないんだ。矛盾してるだろう』
エルは王太子として話す時、普段からあまり感情を表さない。
しかし今回ばかりは違うようで、アルトのことを思う瞳には寂しさと愛しさで満ちていた。
それは愛する者が居る時にするそれとよく似ていて、図らずも息を呑んでしまった。
(大きくなられたものだ……)
幼い頃、それこそ生まれた時から知っている存在が誰かを愛している姿を見るのは、これほど嬉しいものなのかと初めて知った。
それはレオンハルトに対しても同じで、常に無表情なところが玉に瑕だが、自慢でありただ一人の可愛らしい弟だ。
「じゃあ、フランツ先生にベッド使ってもいいか聞いてくるから。ミハルドさんは絶対そのまま、な?」
「あ、アルト様……!」
制止の声も虚しく、アルトはミハルドに微笑み掛けると急いでフランツの元へ向かっていく。
少し強引なところがある、とは出会った頃は分からなかった。
しかしこれも己を思ってくれてのものだと理解しているため、ここは言葉に甘える方が良さそうだ。
(……休まなければいけないのは事実だ)
ミハルドはあまり開いていない瞳を更に細め、小さく自嘲する。
王宮には連日のように貴族らが押し寄せ、ミハルドだけでなく門を護る衛兵も疲弊しきっていた。
エルが『王族の身内から王太子を決める』と宣言したというのもあり、我先にと直談判したいと言う者が増えているのだ。
エルはライアンに似て眉目秀麗で、産みの親であり今は亡き王妃──ミシェル以上に自分の芯を持っている。
それは誇るべき事だが、それ以上に一度決めると頑として動かない面があった。
時に他者を巻き込むのもいつもの事で、しかし今回ばかりは面倒極まりない。
(一人を愛するのは悪いことじゃない。ただ、ご自分の生まれを嘆くのもまた違う)
エルはアルトを本当の意味で愛しており、男女の取り入る隙すら無いに等しい。
むしろアルトを誘惑しようものならエルの方が怒り、その人間を徹底的なまでに痛め付けることだろう。
およそ王太子としてあってはならない、そうした感情が『アルトに関係する時だけ』エルにはあった。
「よっ、ミハルドさん! 寝てないんだって?」
「ルシエラ殿」
しばらくしてアルトと入れ替わるように、一人の男が入ってきた。
ややくすみのある銀髪に、耳の下で切り揃えられた横髪はくせっ毛なのか緩く跳ねている。
くりくりとした金色の瞳は長い睫毛に縁取られており、エルとはまた違うが遠目から見れば女性的な雰囲気を纏って見えるだろう。
その実お喋りで男らしい性格のため、初見で騙されて落胆する者が後を絶たない──と自分で言っていた。
「駄目だろ、ちゃんと横になってないと」
ルシエラが低く、しかしこちらを責める口調に反して落ち着いた声で言う。
「ルシエラにいちゃんだ!」
「ルシにぃ~!」
こちらに寄ってくる子供達の頭を撫で、また短く声を掛けるとややあってミハルドの座る向かいの椅子に腰掛けた。
その拍子に鎖骨ほどまである襟足が揺れ、ふわりと煙に似た臭いが鼻を掠めた。
(硝煙の臭い……)
顔には出さないながらも、ミハルドはかすかに片眉を跳ねさせる。
それもこれも己が常人より鼻が利くからでしかないが、ルシエラの出入りする場所はあまり良くない噂を聞くからか、警戒しているのも事実だ。
但し、ルシエラ個人に至ってはまったくの無害のため、最近では気を許しているところもある。
(影としては失敗だな)
誰にともなく自嘲する。
表向きは国王の側近で王太子の護衛兼騎士だが、自分とは違ってもう一つの顔を持つ弟──レオンハルトが聞けば、肯定しながらも人知れず嘆くことだろう。
レオンハルトは兄であるミハルドを敬愛している。
それは両親の記憶が無いからだが、それを抜きにしてもレオンハルトは表情が分かりやすい。
傍に置いているエルですら時折『何を考えているのか分からない』と言うから、これは身内だけの特権なのだろうと思う。
「──ミハルドさんはさ」
ふと声が聞こえて顔を上げると、ルシエラは机に頬杖を突きながら口を開いた。
「いくらアルトのお守りでも、あいつだって大人なんだし……なんなら公爵の時から一人で来てたんだ、あんまり過保護ってのも」
「ルシエラ殿もそう思われますか!」
「うおっ!?」
ルシエラの言葉を半ば遮り、ミハルドはテーブルに手を突いて身を乗り出した。
事実、こうしてアルトと共に孤児院へ赴くのはひとえにエルの『命令』なのだ。
確かに公爵の時ですら頻繁に訪ねていたと聞いているが、ここ最近は特にエルの過保護さに拍車がかかっていた。
自分の命よりも大事な王配に悪い虫が付くかも、というのは分からなくもない。
ただ、何にしても限度があるのではないか、というのがミハルドの見解だった。
「……ま、まぁな。元々俺よりしっかりしてるし、王太子殿下が無理言ったんだろうけど」
はは、とミハルドの剣幕に若干目を逸らしながら、ルシエラが続ける。
「アンタみたいな騎士? 側近? は他にもやることが多いんだろ。だから倒れねぇか心配──」
「そう! そうなんですよ、あの我儘殿下ときたら……! アルト様が大切で可愛らしいのは同意しますが、如何せん度が過ぎるんです。お陰でライアン様との時間も取れ、なくて……」
「へぇ、あのお綺麗な国王陛下とねぇ」
己の体調を気遣ってくれる人間はそういない。
アルトだけでなく、ルシエラから『心配』という言葉を引き出してしまい、自分でも気付かないうちに気が緩んでいたらしい。
「あ、っ……」
さぁっと血の気が引く音がした。
同時に冷たい汗が額を一筋流れ、こめかみから顎へと伝っていく。
「──部屋の外まで聞こえてたけど」
すると不意に低い、けれど押し殺した声が聞こえた。
恐る恐るそちらに視線を向ければアルトが小さく震えており、しかしフランツから借りてきたのか柔らかそうな毛布を持っていた。
その後ろから幼い少女──メシアが自分のものらしいブランケットを持って、アルトの後ろから不思議そうにこちらを見つめている。
「ミハルドさんと陛下が、その……そういう仲だって知らなかった、な」
先程己が放った言葉を反芻しているのか、アルトがぶつぶつと独り言ちる。
その瞳はどこか戸惑っており、心做しか頬が赤い。
しかし弁明しようにも、即座に上手い言葉が見つからなかった。
(言える訳がない……! ほとんど俺の片想いで、なのにライアン様は手を出す手前で止めてしまうなんて)
身体中の水分が抜けてしまうのかと思うほど、額や背中のあらゆるところから冷や汗が滲む。
けれどルシエラはもちろん、アルトも『済ませている』と思っているようで、今更反論などしたくなかった。
出会った頃からゆっくりと育んだ恋情が、まさか三十年も実っていないとは口が裂けても言えない。
「そ、そういえば言っていませんでしたね。いえ、言う必要が無かったといいますか……」
しどろもどろながら口から出任せを言うと、ルシエラがきらきらとした瞳を隠さずに口を開いた。
「なぁ、国王とはいつ出会ったんだ? いつから好きになったのか、どんなとこが好きなのか聞きたいなぁ」
「こら、ルシエラっ」
すかさずアルトが止めようと割って入るも、ミハルドは緩く口角を上げた。
「……構いませんよ」
普段は特定の相手以外にほとんど見せていない、白さのある瞼を押し上げる。
「っ」
真正面に座る二人が息を呑むのは分かっているが、ミハルドはあえて無視してゆっくりと瞬いた。
血よりもずっと鮮やかな、ともすればどす黒い色が瞬く度に見え隠れする。
「──あの方が王太子となって間もなかった頃、死にかけていた俺とレオンハルトを助けて頂いたのです」
「っ!」
不意に耳元で大きな声が響き、そこでミハルドの意識が浮上した。
声がした方を見れば、一人の男が心配そうに己を見つめている。
「あ、よかった。起きてくれて」
ばちりと目が合った──本当はあまり開いていないが──瞬間、にこりと優しい笑みを浮かべられた。
柔らかな金髪が窓から差し込む太陽によって輝き、さながら神々しさすら感じるほどだ。
深く青い瞳は澄んだ海を思わせ、同時に何も知らない純新無垢な人間のそれとよく似ていた。
「起こそうか迷ったんだけど、苦しそうだったから」
王太子、エルが愛しているただ一人の男──アルトが一瞬だけ眉根に皺を寄せて続ける。
リネスト国では、民や貴族という身分を問わず同性同士での婚姻が認められており、それは王族も例外ではない。
というのも、エルは幼い頃に一度出会ったきりのアルトを二十年間ずっと慕っていたという。
あまり褒められた事ではないが、国王に忠誠を誓う『影』という存在を使ってアルトの周囲を定期的に調べさせていたらしい。
その時のアルトは公爵位を継いでから五年が経とうとしており、ある令嬢との婚約話もあったようだ。
令嬢の家に王太子手ずから『婚約破棄をするように』という手紙を書いた、と聞かされた時は耳を疑った。
しかしもっと酷いのは、公爵邸へほとんど毎日のように『王宮に来て欲しい』という手紙と共に使用人を向かわせていた事だった。
いち王族が貴族とはいえ一人の男に懸想し、変質者じみた行為をしていると民に知られては事だ。
但しそこのところはエルもしっかりしているため、アルトが警察に通報でもしない限り──そもそも王族はよっぽどの事でない限り法律で裁けないが──表沙汰にはならない。
粘りに粘った甲斐もあってか、アルトが王宮に姿を見せた時には喜びを隠し切れなかったようで、その日は終始笑顔だったのを昨日の事のように思い出せる。
それ以降はアルトとエルの間を奔走しながら、自分の職務もこなしていた。
半年という最短の婚約期間を経て、アルトが公爵から王配という身分になってから実に一年が過ぎている。
アルトが日に日に愛されているのは、ミハルドや他の使用人の目から見ても明らかだった。
「大丈夫、か……?」
そして今は自分でも気付かぬうちにうたた寝をしてしまったようで、心配して起こしてくれたらしい。
仮にもミハルドとアルトが居る場所は孤児院で、今も周囲では幼い子供達の声がそこかしこで響いている。
アルトが公爵になった時から、ここレノシクス孤児院に個人的な出資をしていた──と院長であるフランツに教えてもらった。
それまでは満足に運営ができず、数多の子供達と共に一日生活するのにも困っていたようだ。
出資してもらうようになってからはある程度余裕が出来たが、アルトが王宮で過ごすようになってから街では子供の間で流行病が伝染していった。
次々に子供達が病気になり、突貫で造った離れでフランツ自身が看病する毎日だったという。
ただただ回復を祈るしかできない自分が嫌で、心身ともに疲れきっていた時、数ヶ月ぶりにアルトがやってきた。
その時はミハルドも一緒で、表向きはアルトの監視という役目だったが、子供たちの相手ばかりであまり意味を成さなかったのはいい思い出だ。
アルトを子供たちが臥せっている離れの小屋に案内し、それからすぐにアルト・ムーンバレイの名義で本格的な援助を始めたというのは後から知った。
『本当に有難い限りです。……あのままでは、私まで倒れてしまう状況でしたから』
涙ながらに己に零したフランツの言葉や表情は、今でも覚えている。
それから一ヶ月ほどしてエルと婚約すると、今度は王配として月に何度となく様子を見に来てくれているという。
時としてミハルドも護衛という名目で着いてきているが、今日ばかりはあまりにも迂闊だった。
うたた寝をするなど、普通ならば叱責されてもおかしくないのだ。
「申し訳ございません。……最近、あまり寝ていないもので」
ミハルドは軽く頭を下げて謝罪するが、すぐに慌てた声が後に続く。
「いや、そりゃ駄目だろ!? 俺が皆の相手するからさ、ミハルドさんはどっか……ベッド使ってもいいか聞いてくるから、休んでて」
な、と努めて冷静に言おうとしている姿が、なんともいじらしい。
睡眠時間が足りているとは言い難いが、身体に大きな支障はないため大丈夫だろうと思う。
但しそれをアルトに悟られたら最後、何がなんでも休ませようとしてくるのは目に見えている。
(エル様が離さないのも頷ける)
そもそもエルは新しい王妃を娶らず、かといって他の男に目移りする事もないのだ。
容姿端麗で頭脳明晰な、この上ないほど完璧な男がただの一人を愛するなど、普通ならば王宮に出入りする高官らはもちろん、年頃の令嬢や令息が黙っていない。
しかしエルはつい数日前、突如国王や自身を含めた高官らの前で言ったのだ。
『王家の血を引く者を王太子に選出したい。第一に次期リネスト辺境伯は長男、ジョシュア・リストニアを。第二に──』
最初こそ高官らの反発があったものの、皆が皆エルが本気で言っていると感じていた。
アルトは男で、もちろん子は望めない。
正式に婚約した時から王妃を娶る気はないと宣言していたため、高官の中には最初から諦めていた者も少なからず存在した。
しかしその中でも強い影響力を持つ一人の公爵が居たため、同調するしかなかった──こっそりとミハルドに教えてくれた者が複数居た。
(わざわざ教えてくれたのはありがたいが、それを言って何になるんだろうか)
たとえエルに進言したとしても、言い訳にしか聞こえないだろう。
場合によっては余計な仕事が増える一方になるため、自身の胸に秘めておくに限るというものだった。
「み、ミハルドさん……?」
黙ってしまったミハルドを不安に思ったのか、アルトが更に眉を寄せて名を呼んでくる。
その表情が小動物のようで、無性に庇護欲をそそられた。
感情が顔に出やすいのは初対面の頃から分かっていたが、最近ではエルが溺愛する気持ちも分かるほどになっていた。
(弟が増えたみたいだ)
そんな思いで喉の奥で小さく笑うと、ミハルドは緩く口角を上げる。
「お気遣いありがとうございます。しかし、ただの護衛が主の前で寝ていては殿下にこっぴどく叱責されますので──」
「黙ってたら分からないって」
最後まで言い終わる前に、アルトが呆れた声で言う。
「それに、エルはそんな小さいことで怒らないと思う」
だから大丈夫だよ、ととびきりの笑顔で続けた。
(怒らないのは貴方様にだけです)
そう言ってしまいたいのをぐっと堪え、ミハルドは思う。
王太子が王配を溺愛しているのは国内外問わず有名な話で、少しでも言葉で傷付けようものなら重罪が科される、という噂がまことしやかに囁かれている。
もっとも、エルならば本当に実現させそうなきらいがあるため、そうならないよう気を張っていなければならなくなったのは頭が痛かった。
加えて今日は『孤児院に行く』とアルトが前日に言っていたようで、終始『俺も行く』と言って聞かなかったのだ。
しかしエルには隣国へ向かう予定が前々からあったため、長期間王宮を留守にする。
建前は『離れるのが寂しい』という理由だったが、アルトがいない時にそれとなく本音を聞くと『悪い虫が付くから心配』らしかった。
『束縛してる自覚はある。でも……困らせたくはないんだ。矛盾してるだろう』
エルは王太子として話す時、普段からあまり感情を表さない。
しかし今回ばかりは違うようで、アルトのことを思う瞳には寂しさと愛しさで満ちていた。
それは愛する者が居る時にするそれとよく似ていて、図らずも息を呑んでしまった。
(大きくなられたものだ……)
幼い頃、それこそ生まれた時から知っている存在が誰かを愛している姿を見るのは、これほど嬉しいものなのかと初めて知った。
それはレオンハルトに対しても同じで、常に無表情なところが玉に瑕だが、自慢でありただ一人の可愛らしい弟だ。
「じゃあ、フランツ先生にベッド使ってもいいか聞いてくるから。ミハルドさんは絶対そのまま、な?」
「あ、アルト様……!」
制止の声も虚しく、アルトはミハルドに微笑み掛けると急いでフランツの元へ向かっていく。
少し強引なところがある、とは出会った頃は分からなかった。
しかしこれも己を思ってくれてのものだと理解しているため、ここは言葉に甘える方が良さそうだ。
(……休まなければいけないのは事実だ)
ミハルドはあまり開いていない瞳を更に細め、小さく自嘲する。
王宮には連日のように貴族らが押し寄せ、ミハルドだけでなく門を護る衛兵も疲弊しきっていた。
エルが『王族の身内から王太子を決める』と宣言したというのもあり、我先にと直談判したいと言う者が増えているのだ。
エルはライアンに似て眉目秀麗で、産みの親であり今は亡き王妃──ミシェル以上に自分の芯を持っている。
それは誇るべき事だが、それ以上に一度決めると頑として動かない面があった。
時に他者を巻き込むのもいつもの事で、しかし今回ばかりは面倒極まりない。
(一人を愛するのは悪いことじゃない。ただ、ご自分の生まれを嘆くのもまた違う)
エルはアルトを本当の意味で愛しており、男女の取り入る隙すら無いに等しい。
むしろアルトを誘惑しようものならエルの方が怒り、その人間を徹底的なまでに痛め付けることだろう。
およそ王太子としてあってはならない、そうした感情が『アルトに関係する時だけ』エルにはあった。
「よっ、ミハルドさん! 寝てないんだって?」
「ルシエラ殿」
しばらくしてアルトと入れ替わるように、一人の男が入ってきた。
ややくすみのある銀髪に、耳の下で切り揃えられた横髪はくせっ毛なのか緩く跳ねている。
くりくりとした金色の瞳は長い睫毛に縁取られており、エルとはまた違うが遠目から見れば女性的な雰囲気を纏って見えるだろう。
その実お喋りで男らしい性格のため、初見で騙されて落胆する者が後を絶たない──と自分で言っていた。
「駄目だろ、ちゃんと横になってないと」
ルシエラが低く、しかしこちらを責める口調に反して落ち着いた声で言う。
「ルシエラにいちゃんだ!」
「ルシにぃ~!」
こちらに寄ってくる子供達の頭を撫で、また短く声を掛けるとややあってミハルドの座る向かいの椅子に腰掛けた。
その拍子に鎖骨ほどまである襟足が揺れ、ふわりと煙に似た臭いが鼻を掠めた。
(硝煙の臭い……)
顔には出さないながらも、ミハルドはかすかに片眉を跳ねさせる。
それもこれも己が常人より鼻が利くからでしかないが、ルシエラの出入りする場所はあまり良くない噂を聞くからか、警戒しているのも事実だ。
但し、ルシエラ個人に至ってはまったくの無害のため、最近では気を許しているところもある。
(影としては失敗だな)
誰にともなく自嘲する。
表向きは国王の側近で王太子の護衛兼騎士だが、自分とは違ってもう一つの顔を持つ弟──レオンハルトが聞けば、肯定しながらも人知れず嘆くことだろう。
レオンハルトは兄であるミハルドを敬愛している。
それは両親の記憶が無いからだが、それを抜きにしてもレオンハルトは表情が分かりやすい。
傍に置いているエルですら時折『何を考えているのか分からない』と言うから、これは身内だけの特権なのだろうと思う。
「──ミハルドさんはさ」
ふと声が聞こえて顔を上げると、ルシエラは机に頬杖を突きながら口を開いた。
「いくらアルトのお守りでも、あいつだって大人なんだし……なんなら公爵の時から一人で来てたんだ、あんまり過保護ってのも」
「ルシエラ殿もそう思われますか!」
「うおっ!?」
ルシエラの言葉を半ば遮り、ミハルドはテーブルに手を突いて身を乗り出した。
事実、こうしてアルトと共に孤児院へ赴くのはひとえにエルの『命令』なのだ。
確かに公爵の時ですら頻繁に訪ねていたと聞いているが、ここ最近は特にエルの過保護さに拍車がかかっていた。
自分の命よりも大事な王配に悪い虫が付くかも、というのは分からなくもない。
ただ、何にしても限度があるのではないか、というのがミハルドの見解だった。
「……ま、まぁな。元々俺よりしっかりしてるし、王太子殿下が無理言ったんだろうけど」
はは、とミハルドの剣幕に若干目を逸らしながら、ルシエラが続ける。
「アンタみたいな騎士? 側近? は他にもやることが多いんだろ。だから倒れねぇか心配──」
「そう! そうなんですよ、あの我儘殿下ときたら……! アルト様が大切で可愛らしいのは同意しますが、如何せん度が過ぎるんです。お陰でライアン様との時間も取れ、なくて……」
「へぇ、あのお綺麗な国王陛下とねぇ」
己の体調を気遣ってくれる人間はそういない。
アルトだけでなく、ルシエラから『心配』という言葉を引き出してしまい、自分でも気付かないうちに気が緩んでいたらしい。
「あ、っ……」
さぁっと血の気が引く音がした。
同時に冷たい汗が額を一筋流れ、こめかみから顎へと伝っていく。
「──部屋の外まで聞こえてたけど」
すると不意に低い、けれど押し殺した声が聞こえた。
恐る恐るそちらに視線を向ければアルトが小さく震えており、しかしフランツから借りてきたのか柔らかそうな毛布を持っていた。
その後ろから幼い少女──メシアが自分のものらしいブランケットを持って、アルトの後ろから不思議そうにこちらを見つめている。
「ミハルドさんと陛下が、その……そういう仲だって知らなかった、な」
先程己が放った言葉を反芻しているのか、アルトがぶつぶつと独り言ちる。
その瞳はどこか戸惑っており、心做しか頬が赤い。
しかし弁明しようにも、即座に上手い言葉が見つからなかった。
(言える訳がない……! ほとんど俺の片想いで、なのにライアン様は手を出す手前で止めてしまうなんて)
身体中の水分が抜けてしまうのかと思うほど、額や背中のあらゆるところから冷や汗が滲む。
けれどルシエラはもちろん、アルトも『済ませている』と思っているようで、今更反論などしたくなかった。
出会った頃からゆっくりと育んだ恋情が、まさか三十年も実っていないとは口が裂けても言えない。
「そ、そういえば言っていませんでしたね。いえ、言う必要が無かったといいますか……」
しどろもどろながら口から出任せを言うと、ルシエラがきらきらとした瞳を隠さずに口を開いた。
「なぁ、国王とはいつ出会ったんだ? いつから好きになったのか、どんなとこが好きなのか聞きたいなぁ」
「こら、ルシエラっ」
すかさずアルトが止めようと割って入るも、ミハルドは緩く口角を上げた。
「……構いませんよ」
普段は特定の相手以外にほとんど見せていない、白さのある瞼を押し上げる。
「っ」
真正面に座る二人が息を呑むのは分かっているが、ミハルドはあえて無視してゆっくりと瞬いた。
血よりもずっと鮮やかな、ともすればどす黒い色が瞬く度に見え隠れする。
「──あの方が王太子となって間もなかった頃、死にかけていた俺とレオンハルトを助けて頂いたのです」
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