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5. いつも俺の日常は

29枚目 覚悟を決めた日

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 早希の小さな声が、その場に居る麗と将英の耳を打つ。

 「それでも女心って複雑でね……私はきっと、貴方に謝ってほしかったんだと思う」

 膝を突いた将英の傍に、早希も同じようにしゃがみ込む。将英の広い肩に両手を添え、語り掛けるようにゆっくりと唇を動かした。

 「でも結局、何も言わずに貴方は──まさくんは出ていってしまった。私も何も言えなかったし、言ったとしても言葉が足りなかった。出ていく貴方を止められなかった。空回りしたって言うのかな、あの時は」

 私もまだまだだったってことね、と微かな笑みを含んだ声で続ける。

 「──違う!」

 もう早希は怒っていない、そう麗が思ったと同時に将英がえる。

 「俺がおろかだっただけだ! お前は何も悪くない! ……あの時、ちゃんと話し合っていれば良かったんだ。でも俺が弱かったから、お前にもっと嫌われてしまうのが怖かったから──」

 段々と語尾が弱々しくなり、最後の言葉は聞こえないほど小さくか細い。
 早希はそんな将英を黙って見つめている。瞳にはうっすらとだが、涙が滲んでいた。

 麗は二人に気付かれないようにリビングの片隅へ移動し、座り直した。
 昼寝から起きて少し経った頃、将英が訪ねてきたのだ。その顔は蒼白だったが、確かな意思を持って戻ってきたのだと思った。

 (……まだ時間がかかりそうだな)

 もしも麗が普通の子供なら、とっくにリビングを出ているだろう。
 早希だって子供に聞かせる事ではないのは百も承知だろうが、何も言わなかった。だから麗はこの場に居て、二人がどういう決断を下すのか見守っている。

 「それは違うよ、まさくん」
 「なんでだ……? 俺は早希に酷い事を」

 やおら将英は顔を上げ、子供さながらにふるふると首を振る。その瞳には、罪悪感がはっきりと現れていた。

 「さっきも言ったでしょ。私の言葉が足りなかっただけで、貴方は何も悪くないの。なんならお相子だよ、私達は」

 早希は眉尻を下げ、苦笑を浮かべる。その笑みに将英はなんとも言えない表情で見つめ、やがて溜め息を吐いた。
 
 「俺は、俺達は……また、やり直せるか?」

 その声はか細く、はかない。さすれば消えてしまいそうなほどの、小さな小さな声だった。心なしか膝に置いた手も震えている。
 早希はそんな将英の両手を握り、額に持っていく。

 「──やり直すんじゃない、築いていくの。私と麗が……まさくんと過ごせなかった日々を、これから」

 そう言うとゆっくりと目を閉じ、やがて開いた。
 握っていた将英の両手を解放し、早希はさながら少女のように頬を染めてはにかむ。

 「そう、だな」

 なんとも言えない表情をしたかと思うと、将英は自由になった両手で早希の身体を掻き抱いた。

 麗は両親のやり取りを何も言わずに、文字通りじっと見つめていた。これで八坂の家には平和が訪れる、そんな希望を抱いて。
 

 ◆◆◆


 「はぁ~……」

 麗は部屋に入った途端、肺の中の空気が無くなるかと思うほど、限界まで息を吐き出した。

 「……疲れた」

 ぽつりと呟き、今日の入学式以降着替えていない服のままベッドにダイブする。
 ぎしりとスプリングがきしみ、麗の小さな身体を受け止めた。
 この部屋は「小学生になったから」と早希が与えてくれた、麗だけの部屋だ。唯一麗が一人になれる楽園と言っていいだろう。

 「本当に今日だけで色々と疲れた」

 天井の木目をぼんやりと見つめ、麗は静かに独りごちる。
 今日だけで何度となく嬉しかったり、うんざりしたり、忙しないほどの一日だった。
 美和──葵に出会えた事だけで充分すぎるほどなのに、今この時に将英が戻ってくるとは。

 戻ってきて多少嬉しい反面、早希以上にどう接すればいいか分からない相手だ。
 将英は毎日仕事三昧で、あまり家に帰ってこなかった。だからどう話し掛けたらいいものか分からないのだ。

 早希は明るい性格だが、思った事が顔に出てしまう節がある。麗はそれを見て何を言えば喜ぶのか、笑顔になるのか、この六年余りで理解していた。
 反対に将英は、どちらかと言うと寡黙な部類だろう。
 早希と和解した後、将英は麗に話し掛けようとしていた。けれど怒ったような、気難しい表情でこちらを凝視していたからか、反射的に目を逸らしてしまったのだった。

 (いや、あれはただどう接したらいいか迷ってた顔だな)

 落ち着いて考えてみると、一歳かそこらで離ればなれになってしまった親子だ。
 将英にとっても、麗はまだまだ可愛い一人息子。けれど、何を言えばいいか考えているうちにあの表情になってしまった、というのが関の山だろう。

 他人の感情の変化には、昔から聡い方だった。
 伊達に今世と合わせて三十余年生きていたほどではない、とつくづく思う。まして一度は人の親になった身だ。

 (仮にも父親なんだ、俺が逃げてちゃ何も始まらない)

 ひっそりと瞳に覚悟を宿し、麗は起き上がった。ベッドの傍の窓からは、空が茜色に染まろうとしていた。
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