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8. 前世の俺の一目惚れ

58枚目 母の本音と父の──

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 父の寝室を出ると、母を先頭に螺旋らせん階段を使って二階へ上がった。
 薫の後ろには、一定の距離を空けて遠野が付き従っている。
 そうして、母が寝起きする寝室へ薫は足を踏み入れた。

 パタンと静かな音がすると、決まって訪れるのは静寂だ。
 淡い色使いをした部屋は、いかにも侯爵夫人らしい。
 けれど、その周りにはひと目見れば豪奢ごうしゃだと言える家具が所々に置かれていた。

(ここにも久々に入ったな)

 幼少期の数年間を除き、薫が母の部屋に入ったのは二十年近くぶりだ。
 薫の真正面には母がおり、じっと薫を見ている。
 昔に比べて質素な洋装に身を包んでいるが、その瞳は父と同様に鋭利えいりなものだ。

(母さんは……きっと俺に怒ってるんだ)

 置き手紙をしていたとはいえ、一年の間なんの音沙汰もなく、かと思えばいきなり戻ってきたのだ。
 行動には示さずとも、母は言葉で薫に愛を教えてくれた人だった。しかし、今の母は怒りが湧き上がってくるのを堪えるような、そんな表情で薫を見つめていた。

 母は鷹司家の侯爵夫人であろう、と常から努めていたため、多くの事をあまり自分から話さない。
 薫が言葉に出さなければ、この沈黙も破られる事はないといえた。

(一か八か言ってみるか)

 母からけなされようと侮蔑ぶべつされようと、薫の思いをすべて言う方が良いだろう。
(結果がどうあれ、俺はこの家と縁を切るんだから)

 小さく息を吐き、薫は意を決して口を開く。

『母さん』

 ぴくりと母の形のいい眉が跳ねる。
 母が何かを言いたい時の癖だ。けれど、口を挟む余地を与えないというように薫は言葉を続けた。

『俺が戻ってきた事、怒っていらっしゃいますか……?』

 探り探りとだが、ゆっくりと思ったことを口にする。
 数秒の沈黙が、薫にとっては何時間にも感じた。

『そう、ね』
 
 その言葉を聞いた瞬間、やはりと思う。
 当たり前だ。手紙一つ寄越さず、遠野が呼びに来なければ戻って来なかったような息子など。

(そういえば……母さんに怒られる覚悟はしていなかったな)

 母が感情を露わにしない事は分かっているものの、今から言う言葉の数々はやがて父に伝わるだろう。
 縁を切る覚悟はあるが、母から叱責される心は持ち合わせていなかった。

 元からあまり母と話せず、寂しい幼少期を過ごしてきた。
 そんな薫が自分から何かを言うのは、これが最初で最後となるだろう。

『薫』

 そっと母が一歩踏み出し、薫に近付く。
 人ひとり分の距離はあろうかというところで、母と向かい合わせで対峙たいじした。
 父の部屋に居た時よりも、母の顔色がやつれているように見えた。

 目立たないながらもところどころに白髪が混じり、からすの濡れ羽色のように美しい母の黒髪が霞みつつあった。
 細く白いおもてには薔薇のような紅をさしており、表情がはっきりと分かる。
 けれど、白粉おしろいを塗りたくっているのか顔の白さが際立ち、ともすれば消えてしまいそうなほどはかない印象を与えた。

『私は……直接ではないにしろ、貴方に向けて酷いことを言いました』

 つっかえながらも紡がれる言葉は、母の本心だと分かった。
 怒りを──自分に対する怒りを押さえ込もうとするように、手の平を爪が食い込むほど握り締めている。

『母親失格だということはとうに分かっています。ごめんなさい、薫。ごめんなさい……』

 一瞬、薫は何をされたのか分からなかった。

(なんで、俺は)

 何故抱き締められているのだろう。
 母がもう一歩距離を詰めたかと思えば、ぎゅうと薫を自分の胸に抱き込んだのだ。
 正確には身長差があるため、薫のふところに母が入る形ではあるが。

(怒られて当然の事をしたはずだろう……?)

 分からなかった。
 この行為は、薫がずっと望んでいた幻が見せたものなのか。
 分かりたくなかった。
 母が自分に向けて謝罪の言葉を述べるなど、夢でないと有り得なかった。

 裏で何を言おうと薫にとって母は母であり、この先も変わることのない事実だ。
 父に遠慮して普段はつつましくしているが、その実誰よりも強いと言う事を薫は知っていた。

 ──そんな母が、泣いているのだ。
 薫の胸の中で息を殺し、すすり泣いている。

『私を許してくれとは言いません。けれど、鷹司家を──この家から出ていく事など、私が許しません』

 はらはらと涙を零し、それでもはっきりと紡ぎ出された言葉の数々は、まぎれもない母の本音だといえた。
 しかし、鷹司家の血筋を絶やしてはならないという、ひいては鷹司侯爵夫人としての、強い矜恃きょうじが垣間見えた。

(やっぱり……俺が居るべき場所はここなんだ)

 この家に居たい、と思った。

(でも)

 それと同時に「緋ノ龍」へ帰らなければ、と思う。

(俺が戻らなければ、清さんや幸さんを心配させてしまう)

 緋ノ龍は薫が一から立ち上げた店で、店と同じほど大切な榊夫妻がいるのだ。
 二人とは血縁関係でなかろうと、もう薫の中では血の繋がった「家族」だと言えた。

 母の想いに応えたいが、店も大事だった。

(俺は、どうすれば……)

 二つの相反する思いが薫の心の内を渦巻いていく。

 この際、薫は侯爵家を継いで店には後継者を作り、緋ノ龍の援助をしようというところまで考えた。
 そうすれば緋ノ龍を守る事ができるし、榊夫妻に迷惑を掛けずに済む。
 けれど、その考えは呆気なく叶えられる事になった。


 ◆◆◆


 弟妹を抜きにしても、こうして温かい食事を家族で食べるのはいつぶりだろう。
 薫の目の前には遠野手ずから作ったという、白身魚のソテーや季節の野菜を余すことなく使ったポトフ、一から発酵させたというライ麦パンがあった。

『は……? 父さん、今なんて』

 実に一年ぶりの豪華な夕食に舌鼓したつづみを打っていると、父が言った言葉に薫は我が耳を疑った。
 持っていたフォークを取り落としそうになったのは、言うまでもない。

『だから言っているだろう。お前に爵位を継がせると』

 父は呆れたような声音で、何とはなしにもう一度同じ言葉を繰り返す。

(おかしいだろ、俺は確かに「爵位を継がない」と言ったはずなのに)

 ちらりと真正面に座る父の方を盗み見る。
 身体が衰えているとはいっても、しっかりと自分の手で食事をし、自分の足で歩けているのだ。
 ほんの数時間前の事なのに、まるで父は薫との出来事をなかった事にしているような、そんな口振りだ。

 薫から見て右側──父の隣りには、母が座っている。
 母は何事もなかったふうに、白身魚のソテーを口に運んでは、ゆっくりと赤いワインに口を付けていた。

『……薫、返事はどうした』
『っ』

 低く威厳のある声に、図らずもびくりと背中が跳ねる。
 食事の手を止めた父の鋭い視線は、じっと薫にだけ注がれている。
 しかし、父が言う「爵位を継げ」という言葉は、薫が数時間前に断った。
 答えは否だったが、自分たちが出ていった後で何かがあったのだろうか。

 この感覚を、薫はどこかで知っている。
 だから、考えもしない事が頭の中を駆け巡っていくのも無理はない。

(もしかして、父さんは)

 有り得ない。そんな事は考えられない。
 何度否定しようにも心のどこかでは、いずれそうなるのではないか、と信じきっていた。

痴呆ちほうになったのか……?)

 何十年と鷹司家をその手腕で守り、盛り立ててきた当主──鷹司誠の末路なのか。
 数時間前の出来事を忘れ、そう遠くない未来では家族の存在までも忘れるようになるとは。
 この時の薫は想像しきれていなかった。
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