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9. 今世の私の日常は

63枚目 本当の気持ち

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 どれほど時間が経っただろう。
 数分も経っていなかったと思うが、我慢できず千秋の背中を渾身の力で叩くと、すぐさま解放してくれた。

「すまん、やり過ぎた」

 そうして素早く土下座した千秋は、謝罪の言葉を述べた。
 部屋へ入って一時間足らずの間に、二度も千秋の後頭部を見る羽目になるとは思わなかったが、このさまを見ていると心に余裕が持ててくる。

 どう足掻こうが、千秋は今世を謳歌おうかする大学生なのだ。
 前世の憎むべき鷹司たかつかさかおるではなく、ただの烏丸からすま千秋という一人の兄だった。

「けほ、落ち着いた?」

 少し咳き込みつつ、訊ねる。

「あぁ、ごめんな。……ありがとう」

 頼りなく笑うその表情は、千秋らしくない。けれど、憑き物が取れたかのように晴れやかな笑顔だった。

「ならいいの。でね、兄さんに……早速相談なんだけど」
「うん?」

 千秋がこてりと小さく首を傾げるのは、葵の話を聞いてくれる合図だ。
 前世では分からなかったが、今世で兄妹をやっているとお互いの些細な変化にまで、目敏めざとく反応するようになった。

 それを悪いことだとは思わない。
 ただ、前世の事を知った今では千秋が年齢よりも大人びて見えて、心臓が高鳴るのも事実だった。

「……お前、本当に俺の顔が好きだよな」
「え!?」

 図らずも葵は素っ頓狂な声をあげた。

(ま、まさか声に出てた!? もしかして今までのことも兄さんは聞いていて)

 ぐるぐると脳内で考える。独り言は言わないと思っていたが、全て声に出していたのだろうか。

(そしたらめちゃくちゃ恥ずかしい……!)

 知らず知らずのうちに頬に熱が集まっていく。

「ふ、そんな顔して……」
「え」

 小さな笑い声が聞こえたことで、葵は抱えていた頭を上げる。

「言っただろ、分かりやすいって」

 はは、と小さく笑う千秋はどこか妖艶な色香が漂っている。
 まるで今世でも緋龍ひりゅうを見ているようだと思った。

(いや、緋龍は兄さんの前世だから当たり前だけど!)

 千秋の前世を知る前でも、ただでさえ顔がいいと思っていた。
 そして緋龍だと知った途端、千秋の一挙手一投足が葵の目にあやしく映るのは、きっと気のせいではないだろう。

「で、何?」

 話を再開しようというふうに、千秋はフローリングから立ち上がった。
 そして後ろにある自分の椅子に座り直す。

「……和則かずのりさまも転生してるの」

 葵は何か悪い気がして、未だフローリングに座ったままだ。

「うん」
「でね、兄さん」

 心地よい相槌は、葵に勇気をくれた。
 けれど、この「相談」に乗ってくれるか否か、すべては千秋次第と言えるだろう。

(それでも私は言わないと。和さまに言われた事もあるけれど、まずは)

 ゆっくりと深呼吸をし、葵は口を開く。

「和則さまと会ってほしい」

 凛とした声音は、しんと静まり返った部屋に反響して消えた。

「会う? 俺が、あいつに?」

 なぜか慌てたように千秋が言った。

「駄目なの……?」

 何もおかしな事は言っていないはずだ。
 それに、二人は前世で会話をしていなかったように思う。
 前世の葵と麗はただの一般市民で、千秋は簪屋を営む店主というだけだったのだから。

「いや、駄目ってわけじゃないけど。あー……なんて言うかなぁ」

 珍しく歯切れの悪い口調で千秋は頭を搔く。
 葵が知る限り、前世での二人に接点すら無いと記憶している。
 もしも二人の間にあったとしたら、その時の和則がやんわりと言ってれたはずだ。

 包み隠さず本音で話してくれた千秋でさえ、葵に言えない何かがある。
 ここまで言い渋るという事は、そうだとしか思えなかった。

「なぁに」

 今度は葵が首を傾げる番だった。
 ここは黙って、千秋が言ってくれるのを待つに限るだろう。
 しばらくお互いにじっと見つめ合う。

「よし、この話はまた今度にしよう」
「なんでよ!?」

 が、ものの数秒で千秋の方から視線を逸らした事で、そして「今度」という言葉で、強制的に葵の相談は終了した。

「これには海よりも深い事情がありまして」

 にっこりと笑いながら、千秋は葵の手を取って立ち上がらせた。
 そうして早く出ていけというように、ぐいぐいと部屋の入り口に押し出そうとしてくる。

「ちょ、ちょっと! まだ話は──」

 終わっていない。
 そう抗議しようとするが、普段とは比べ物にならない力で背中を押されてしまう。

 当たり前ながら同性ならまだしも、男女の力量差に葵が勝てるはずもない。
 半ば飛び出すように、葵は千秋の部屋から締め出された。

「はいはい、じゃあ後でなー」

 いつも通りの千秋のほがらかな声だけが、扉一枚へだてた向こう側から聞こえた。

「はぁ……? 何、それ」

 ぎゅうと握り拳を作り、気持ちを抑えようとする。
 けれど、それでも耐え切れないものはあるというものだ。

「後で後でって……次に回しすぎでしょ!」

 葵のむなしい心からの叫びが、誰もいない廊下に反響した。
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