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第四幕 四 「淡い色のバラが好きなんです」

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     四

「これは、私が育てたものです。お近づきの印しに、宜しかったらどうぞ。」
 温室内は淡い色の花弁と葉の緑で満たされているため、ヒョウの差し出した原色の青の色彩は、浮き立って見えた。
 バラの花を見たことで、ヒョウに対しての警戒を幾分和らげた青年は、差し出された青いバラへと近づいてきた。
 青年が取りやすいように、黒い手袋をした手は花の方を軽く包むようにして握り、茎の方を青年に向けている。
 自分のために空けられている茎を握り、青年は恐る恐るといった調子でバラの花を受け取った。
 直接手を触れ合うわけではなかったが、青年にとっては握手をしたような親近感を与えたようだ。強張っていた表情は和らぎ、受け取ったバラをしげしげと見つめている。
「これは、プリザーブドフラワーですね?」
 入国審査の質問とは違い、警戒心からではなく好奇心から出た質問。
 ヒョウは微笑のまま頷いた。
「ええ。そうですよ。生花を、そのままコサージュにしていたのでは、すぐに萎れてしまいますから。」
「造花とは違って、生花のプリザーブド加工はいいですよね?生花の美しさを保てます。手触りは多少生花とは違うけど、飾るならプリザーブドフラワーの方がいいですよね?水をやる手間も省けるし、長持ちするし。」
 親しげにかけられる言葉。花という趣味についての連帯感と仲間意識。花について嬉しそうに語る青年の顔からは、警戒心が抜けて、青年本来の素直そうな表情が戻っていた。
「すみません。自己紹介してませんでしたよね?僕は、吉岡巧です。知ってるかもしれないですけど。」
 緊張も解けた青年・巧の顔には笑みも浮かぶ。自己紹介は、温室への入室許可を意味していた。
「凍神さんでしたっけ?」
「ええ。そうです。」
 巧はヒョウから受け取った青バラを、ヒョウの真似をするように、自分の着ている白いシャツの胸ポケットに挿した。
「このバラ、白いバラに青い着色料を使ったんですよね?こんなに青いバラって、自然界じゃ存在しないじゃないですか。開発された青バラも、すみれ色みたいな感じだし。」
「そうですね。」
 相槌を打つようなヒョウの言葉。
 気を許した様子で多弁になった巧は、バラにかけるような柔らかな表情でヒョウに向き合っていた。
「青い色素はバラには定着しにくいんですよね?最初の青バラのスミレ色は、確かチューリップか何かの色素を使ったって言ってましたよね?他にもあったかな……?」
「ええ、私もそう記憶しています。」
 花開くバラ談義。いつの間にか温室内で、巧とヒョウは打ち解けた雰囲気を漂わせていた。
「凍神さん、よかったら僕の育てたバラも見ていってください。四季咲きの香りの良いものを選んでいるんです。気に入ったものを色々取り寄せていたら、こんなに素敵な温室になったんです。」
 誇らしげな巧。彼にとって、バラの温室は精魂込めて作り上げた最高の自信作なのだろう。
「僕は奥で作業していますから、何かあったら声を掛けてくださいね。」
 笑顔を残して巧はバラの海に消えていく。ヒョウに入室許可だけでなく、自由行動の権利も与えていった。
 巧の背中が見えなくなったところで、リンがヒョウの腕にぶら下がった。
「先生、いろんな色のバラがあるね。」
 辺りを埋め尽くしているバラを見回して、リンが瞳を輝かせている。
「ええ、そうですね。」
「白、黄色、オレンジ、アプリコット、ピンク。」
 一つずつバラを指差しながら、リンは観賞を始める。
 淡い色だけを集めたような温室は、全体的に雰囲気が柔らかく穏やかだった。
「バラというのは、ボッティチェリの名画にあるように、ヴィナス誕生の伝説の花なのですよ。」
 温室内の道を二人並んでゆっくりと歩きながら、ヒョウは独り呟くように語り始める。
 リンはバラとヒョウの話を両方堪能していた。
「ヴィナスが海の泡から生まれた時に、飛沫が白バラになったといった話も伝えられています。ギリシアでは、バラはアフロディテに捧げられました。ですから、バラの花言葉は美や愛情といったものになったんです。」
「美、愛情?他には?」
 興味津々といった様子のリン。
 ヒョウは笑みを深くして、まず白バラを指し示した。
「私は貴方に相応しい。それに、純潔などといった意味もあります。」
 そこで、ヒョウの笑みが一層輝く。双眸に過ぎった光は、どこか禍々しい色彩を帯びていた。そんなヒョウが次に指し示したのは、黄色いバラ。
「黄色い花は、古来より不吉な意味を持つことが多いんです。このバラも、愛情の薄らぎや嫉妬。そんな花言葉を持っています。」
 リンは特に感慨もなく、黄色いバラを見つめる。
「キレイなのにね。」
「キレイだからこそなのでしょう。」
 意味深なヒョウの台詞で黄色いバラの解説は終わり、ヒョウはまた温室内を歩き始める。「紅いバラは、愛情や情熱を意味します。」
ヒョウの解説は続いたが、今度は何も指し示したりはしなかった。
 温室内を見渡し、リンは少し落胆したように呟いた。
「でも、ここ、紅いバラが一本もないね。」
「ええ、そうですね。何か理由でもおありなのかもしれませんね。」
 ヒョウの言葉通り、淡い色で統一された温室は、どこか作為的めいたような統制の取れ方だった。紅い色のバラは、バラの中でもかなりの種類があるだろう。しかし、この温室には、紅い色が存在していない。あまりに不自然なほど徹底した色の選択には、何か理由があるとしか思えなかった。
「あのー、凍神さん。そろそろ夕食の時間ですが、ご一緒しませんか?」
 奥に消えていた巧が、作業を追えた様子で二人の前に姿を現した。
 ヒョウは巧の申し出に微笑を返した。
「ええ、喜んで。」
「良かった。じゃあ、行きましょうか。そろそろ、夕食の用意も出来ていると思います。」
 そう言って、巧は腕時計を覗き込む。
「あっ、もうこんな時間だ。」
 時計の文字盤を覗いた途端、少し慌てた様子で巧は二人を伴って温室を出る。
 一行が温室から出た途端、温室内には雨を降らせたように水が撒かれ始めた。
「よかった、間に合った。」
 ほっとしたように胸を撫で下ろす巧。
「この温室の水遣りは、スプリンクラーに任せているんです。タイマーでセットできるので、水を遣り忘れたり遣り過ぎたりしなくて便利なんです。」
 笑顔で解説を終えて、二人を案内するように歩き始める巧。
 そんな巧の背中に、ヒョウはついでのことのように質問した。
「そういえば、何故あの温室には紅いバラが一本もないのですか?」
 ヒョウの質問に、巧の背中が一瞬強張ったように見え、振り返った巧の顔には笑顔が張り付くように浮かんでいた。
「特に理由はないんですよ。ただ、淡い色のバラが好きなんです。」
「そうですか。」
 それ以上追究する様子を見せず、ヒョウは再び歩き始めた巧の後ろについていった。
 しばらくして、屋敷内に戻ったところで、ヒョウはふと独りごちた。
「穏やかに見えるものの中にも、不吉な色は潜んでいるのですね。」
 それは、リンの耳にだけ届いて、すぐに霧散した。
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