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第九幕 四 「人間が恐怖を感じるのは、死と罪です」

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     四

 主のなくなった温室内で、バラたちは何も変わらずに咲き続けている。咲き誇るように、美しさを競い合うように。端麗な色彩は管理者が変わろうとも、管理さえ続けられていれば、文句一つ言わないだろう。虚しいまでに鮮やかな楽園は、主の不在にも喪に服したりはしない。
 主だけがぽっかりと開いた穴のようにいなくなった楽園内で、杏子はしがみつくように思い出に浸っていたのだろうか?それとも、受け入れがたい現実を否定していたのだろうか?力のない瞳が、厳しい現実を受け入れられないことを明確に物語っている。
 そういう意味では、皮肉にも、この温室というのは現実からの逃避場所として最適だった。
「杏子サン。一つお聞きしてもよろしいですか?」
 亡き主の場所だった作業スペースに、代理人のように収まっている杏子。生前、二人の密会の場所だったバラの中は、今はもう一人だけの場所となっている。孤独と辛い思い出、全ての根源でありながら、輝かしく柔らかな過去をも想起させる。
「はい。」
 ヒョウの質問に頷く杏子だが、瞳にヒョウを映してはいない。
 手近にある白いバラの花を黒い手袋で触りながら、ヒョウは続けた。
「何故、この温室には紅いバラの花がないのですか?バラの中で紅という色は、あまりにも一般的です。しかし、この膨大な数の花の中に、一つもないというのは、些か奇妙な感じがしまして。」
 淡々とした口調で、杏子に向けてというよりは白いバラに向けて尋ねるヒョウ。
 杏子も、ヒョウに視線は向けずにいた。
 二人は相手に話をしながらも、会話を成立させていないかのように互いに視線を合わせていない。
 大きなため息の後、杏子は故人を偲ぶような、夢のような幸せな過去を偲ぶような口調で口を開いた。口を開けば、故人への狂おしいまでの恋慕が溢れてしまいそうだった。
「巧様は、彼は、紅い色が苦手だったんです。紅い色が怖かったんです。」
「確かに、彼は何かに怯えているようでしたね。」
 故人を偲ぶような口調の杏子とは対照的に、ヒョウの口調は変わらない。涼しげで淡白で、感情など入り込む余地などない。それだというのに、透明で澄んだ声音。それは、酷く冷たく響く。温室の雰囲気とは不似合いなほど。
「人間が恐怖を感じるのは、死と罪です。彼の場合は後者でしたか?」
 杏子の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。それでも、杏子は声一つ上げずに泣き続けるだけで、嗚咽すら漏らさなかった。心のどこかが麻痺したような、そんな呆然とした顔で、ただ涙を流し続ける。
「紅という色で想起するのは血です。違いますか?」
 杏子は答えない。
「巧サンの自殺の原因は、何だと思いますか?」
 反応すら見せず、杏子は魂が抜けたように、動くことすら忘れていた。
 それ以上の質問の無意味さを感じ取り、ヒョウは肩を竦めて見せる。
「失礼しました。」
 バラから視線を外し、杏子へと向けた後、仰々しく一礼してみせるヒョウ。
「リン、行きますよ。」
 リンの鈴が肯定し、二人は歩き始める。
 二人が温室を出たところで、温室内には雨が降り始めた。
 亡き主へ向けられた涙のように、温室内に雨が降る。
 そんな温室の中で、雨と涙を同化させて、杏子は佇んでいた。立ち入り禁止の楽園の中で、現実を否定しながら過去に浸り続けていた。
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