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Where am I?(ここどこ) 3

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 人間のオスはさっき自分が入ってきたほうとは違うドアを指差した。

 ラヴィは警戒心を解いたわけではなかったけれど、見逃してくれると言っているうちに、できるだけ遠くへ逃げようと考えて「んしょ、んしょ」と木箱から出ようとした。けれど――、

「はうっ!?」

 木箱の縁を跨いだら背中に激痛が走った。

「はうあうあぅ……」

 痛みで体が硬直したラヴィは再び箱の縁の上でバランスを崩して、今度は箱の外側に体が傾いた。
 硬い床に頭から落ちそうになったところを人間がさりげなく腕を伸ばして受け止めてくれた。

「ほらみろ、無理して動くから痛むんだ。……ったく。余計な手間をかけさせるな」

 人間は文句を言いながら軽々とラヴィを抱き上げて再び箱の中に戻した。

「か、帰ってもいいって言ったのに……」

「あぁ帰れ、帰れ。俺としてもオマエに長居されるのは面倒なんだ。そうしてくれるほうが助かる。ただし、ひとりで帰れるくらいに怪我が治ってからにしろ」

 人間はむっつりとした不機嫌顔でラヴィの頭に巻いてあった包帯を見事な手際で取り替えている。

「ひ、ひとりで帰れるよ。平気だよ……」

 ラヴィは言葉で反抗しながらも、思うように動けなくて結局されるがままになっている。

「さっきの自分がどうだったかもう忘れたのか? 自分の体が今どういう状態なのかも理解できてないのは野生動物として致命的だぞ」

「野生って何? って、それ臭いからヤダ」

 薬草をたっぷり塗り込んだガーゼを近づけられるのを嫌って、ラヴィは手を突っ張らせて抵抗したけれど、人間は軽くその手を弾いて「駄々をこねるな」問答無用でラヴィの頭の瘤にガーゼを乗せて包帯を巻いた。

「《野生》ってのは誰にも飼われてないで生きている動物、つまりオマエのことだ。首に木札を下げてなかったし、オマエを追ってきた里の奴らもそう言ってた」

「ボクを追ってきた……。あ、ああっ!」

 ラヴィの脳裏に、あの赤ら顔の男たちの顔が浮かんだ。

「ボク、やっぱり今すぐ帰る!」

 慌てて上体を起こすと、人間は素早く手を伸ばしてラヴィの脇下につつつ……と指先を滑らせた。

「あぅん♡」

 脇の下は怪我をしているところじゃなかったのに、なぜか腰から下の力が抜けて立てなくなった。

「な、何、今の!? 何したの? ぞわっとした!」

 ラヴィは初めて感じた奇妙な感覚に驚いてプルプルと震えながら訊いたけれど、人間はそれに答えないで淡々と事務的にラヴィを元に戻して寝かせた。

「いいから大人しく寝てろ。里の奴らは俺が追い返した。だから心配するな」

「追い返した? 全員?」

「そうだ。ここに来たときは『獲物を横取りする気か!』と、ずいぶんと興奮していたが、俺が冷静に、穏便に、丁重に、紳士的に説得したから、もう来ない」

「もう来ない? 絶対!?」

「あぁ。来たくても来られない」

「来られない?」

「オマエの怪我と釣り合いが取れるほどの『説得』をしておいたからな。ま、そういうことだ。だからオマエも奴らのことは許してやってくれないか?」

 人間のオスは『説得』と言いながら、なぜか拳を握りしめていた。

 ラヴィはそれが不思議だったけれど、そこは深く突っこんで聞かないほうが良さそうだと察して「うん……もう、いいよ」と、それ以上の追及はしないことにした。

 包帯を全部新しいものに取り替えられた後でもラヴィはまだこの人間のオスを警戒していた。 
 ラヴィの治療を終えた人間は少し離れた場所で石臼を使い、ごりごりと薬草を磨り潰している。
 ラヴィは怯えた目で、その横顔を見つめ、その一挙一動をじっと覗っていた。
 口では「もういいよ」と言ってみたものの昨晩人間にひどい目に遭わされたことはやっぱり忘れられない。

『でも、この人間……。他のオスとはちょっと違う?』

 ずっと見ている間に、このオスはラヴィに乱暴をした里の人間とは違う生き物のように思えてきた。

 このオスはなんだかキレイだ。
 どうキレイなのかなんて短く言えるほどラヴィは多くの言葉を知らない。
 うまく言えないけれど、とにかくこのオスはキレイだと思った。

 灰銀色の柔らかそうな髪。
 整った顔立ち。
 夏空のように澄んだ水色の瞳。
 髪や瞳の色は淡くてとても穏やかで、春前の最後の雪を連想してしまうくらいの儚さがある。

 けれど、ひ弱さは全然感じない。

 矢のように細く鋭い眉の形。
 切れ上がった目尻。
 そして引き締まった口元が、ちょっと怖いくらいの迫力を醸し出している。

 里のオスたちが撒き散らしていた見苦しい狂気の迫力なんかじゃなくて、ピンと張った湖面のような静かな緊張感。

 動物に喩えるなら、まるで狼の群れを統率しているリーダーのよう。
 ただそこにいるだけなのに周囲の狼たちが緊張して大人しくなっちゃうような、沈着クール利口クレバーな強さがじわりと滲み出ていて、なんだかカッコイイ。

『なんか……イイな……』

 最初は警戒のつもりで見ていたのに、いつの間にかラヴィはぽやぁとした顔でその横顔をずっと見続けていた。
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