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Police! Police!(警備兵さん、こっちです!) 5
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「……ふん。やられたか」
振り返って豹の様子を見ていた犀は、つまらなそうに首を回してのそりと再び歩き始めた。
犀は豹と違ってパイラのことはどうでもいいらしい。
パイラがどれだけ仲間を呼び集めても自分には敵わないと思っているのか、それともそこまで考える頭がないだけなのかは分からない。
しかし、少なくとも今の時点で犀の歩みを止められる者は実際に誰もいなかった。
奴隷市場にいた買い手たちが、のそのそと近づいて来る犀から必死になって逃げようとしているが、騒ぎを聞きつけてたヤジ馬たちが大勢押しかけてきて逃げ道を塞いでいる。
興味本位で押しかけたヤジ馬たちは、いざ自分が最前列に押し出されると慌てて後ろ逃げようとする。
けれど後から後からやってくる別のヤジ馬に押されて逃げられなくなっていた。
パイラは際限なく集まってくるヤジ馬たちに「来るな! 死にたくなければ逃げろ!」と大声を張り上げながら犀とは一定の距離を保ちつつゆっくりと後を追った。
「さっさと捕まえろよ警備兵! それが仕事だろうが!」
群衆の中から無責任な野次が飛ぶ。
パイラだって早く犀を取り押さえたい。
けれどあの犀を一人で取り押さえられると考えるほど彼女は愚かでも無謀でもなかった。
どうしようもない状況が動いたのは、それから十秒も経たないうちだった。
「隊長!」
パイラの警笛を聞いた彼女の部下たちがヤジ馬を掻き分けてようやく到着した。
「来たか!」
パイラは安堵の笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに曇った。
到着したのはパイラが配下に持つ十二人の部下のうちの半数の六名だけ。
それでも足止めくらいはできると判断したパイラは、部下の顔ぶれを見て即座に指示を飛ばした。
「陣形二列縦隊! ロビン、アヘラズ! 二人は盾を構えて前衛! 他の四名は弓で射よ! ソイツのパワーは尋常なものじゃない。決して直接攻撃はするな! 一定の間隔を保て!」
「はっ!」
パイラの明瞭な指示を受けた部下たちの動きは機敏だった。
名指しされた二名が背負っていた大盾を地面に立てて屈み、その後ろで二名が膝立ちで弓を構え、残る二名がその後ろに直立姿勢で弓を構えた。
「射ぇい!」
パイラの号令で、四本の矢が一斉に放たれる。
鉄の鏃が銀光をひきながら犀へと収束する。
キキンッ!
四本の矢は音を重ねて無情な四重奏を奏でた。
矢は犀の体を覆う硬い皮膚に弾かれて、力尽きた蛾のようにぽとりと地に落ちる。
「矢が……弾かれた!? なんて硬さだ」
目前で起きた信じられない結果を見て部下たちが浮き足立ちはじめる。
パイラも同じように気持ちがグラついたが部隊の長たる自分が怯んでいては指揮が執れない。
パイラは自分自身をも鼓舞するように大声を張り上げた。
「怯むな! 距離を保ち、続けて射よ!」
第二射を躊躇っていた部下たちはパイラに叱咤されて、文字通り矢継ぎ早に弓を鳴らす。
キンッ! カンッ!
何本も矢を浴びせかけられているのに犀は全く気にしていない。
のそりのそりと歩き続けている。
パイラの部下たちは最初の指示通りに犀との近接戦闘を避けて、犀が近づいた分だけ下がりながら矢を放ち続けた。
――だが、どれだけ矢を撃ち込んでもかすり傷一つつけられない。
現状に行き詰まったパイラは何か別の手段はないかと辺りを見回した。
そして、登記所の入口から顔だけ出して心配そうにこちらを見ているラヴィに気がついた。
「おチビちゃん、お願い! 先輩呼んで来て!」
「ラ、ラチアを?」
「早くっ!」
どうして? そんな疑問を挟む余地なんてなかった。
ラヴィはパイラの必死な声に弾かれて、この建物のどこかにいるはずのラチアを探しに登記所の奥へと走った。
その間にも犀はのそのそと歩き続けている。いくら歩みが鈍いからといっても、一歩一歩着実に歩き続けているので、すでに広場の出口にさしかかっていた。
パイラの部下たちが効果がないと分かっていながらも命令を墨守して射撃を続けていると、思いがけない効果が現れ始めた。
それは隊員たちにとって不運な変化だった。
いくらダメージにならないとはいえ、ずっと矢を射かけられていた犀は射手たちが鬱陶しく思えてきたらしい。
二足歩行で歩いていた犀はドスンと上体を下ろして手を地面につけると、四つ足で歩き始めた。
最初は二足歩行と同じくらいの速度だったのが徐々にスピードがついてくる。
「隊列を維持しつつ三時の方向へ移動! 逃がすな! 矢で牽制し続けろ!」
パイラは最初、犀が歩みを早めてこの場を脱出しようとしているのかと思った。
――が、それは見当違いだった。
犀は三時方向に移動した隊員たちへ照準を合わせるように向きを変えながら、さらにスピードを上げた。
「しまった! みんな逃げろ! 散開ぃー!」
パイラの叫びは間に合わなかった。
普通の人間の五倍は重量のありそうな犀の突進。
矢を番えていた四人は横っ飛びに跳んで辛うじて突進から身を躱したが、前で大盾を立てていた二人は逃げ遅れた。
犀の体当たりを喰らって大盾は羊皮紙のようにくにゃりと折れ曲がり、前衛の二人のうち一人ははね飛ばされ、一人は犀の下敷きになった。
「がはっ!」
犀の下敷きになった隊員が苦悶の呻き声を上げた。
左足が有り得ない方向に曲がっている。
「ロビン!」
「た……隊長……」
パイラに助けを求めて腕を伸ばす。
犀はその腕を掴んで高々と持ち上げた。
「がああああぁぁぁ!」
腕だけを持って犀に吊り上げられた隊員が、肩を押さえて悶絶している。
掴まれたときの角度が悪かったのだろう、体重が全て肩にかかっているのに体が斜めになっている。
関節に無茶な負荷がかかっているのは明白だった。
それから三秒もしないうちに、負荷に堪えかねた肩関節がゴクンとくぐもった音を鳴らして外れた。
「おっう! おおおおおおぉぉぉ!」
ロビンが脱臼した肩を押さえて絶叫する。
「ロビン! き……貴様ぁ!」
部下が苦しんでいるのを見て逆上したパイラは犀に向かって猛然と駆けた。
「離せ! ロビンを離せ!」
パイラが横なぎに剣を振るう。
見るからに鋭そうな剣の斬撃を警戒し、犀は大きく後退した。
犀はゴリラのように足を曲げて、左手を地面につける。
だが、隊員を吊り上げている右手は降ろさない。
「ロビンを離せ! 離せぇ!」
犀の半分も身長のないパイラが、必死になって遙か頭上にある犀の顔に向かって剣を突き上げた。
犀は上体を仰け反らせて悠然とそれを躱す。
歩く速度は極めて遅かった犀だが上体を動かすスウェーの動きだけはやたらと早かった。パイラが振るう剣を右に左に躱す。
犀からの攻撃を警戒して剣が届くギリギリの距離から斬撃を繰り出していたパイラは、このままではダメージを与えられないと判断して、さらに一歩踏み込んで剣を突き出した。
ヂンッ!
銅板を削ったような音をたててパイラが振るう剣の先が犀の腕をかすめた。糸のように細い傷口から血が滲み出す。
「……貴様」
犀は吊し上げていた隊員を壊れたオモチャを捨てるように手離した。
「ロビン!」
無傷の弓兵二人が犀から解放された同僚をかっ攫うように引っ張って後方へと下がる。
「隊長も早く逃げてください!」
隊員の一人がそう叫んだが、それはもう無理な話だった。
ロビンを助けるために無我夢中で犀の懐深くに飛び込んだパイラの頭上に彼女の肩幅より大きな犀の拳が振り上げられていた。
「――うっ!」
戦い慣れたパイラでも目前に迫った死には恐怖を覚え、足が竦んだ。
「隊長ぉー!」
隊員たちの悲鳴。犀は固く握った拳で杭を打ち込むようにパイラを打ち潰そうとした。
――その時、
カンッ!
パイラの背後から一筋の銀光が飛来して犀の眉間を貫いた。
「ごっ!?」
犀は振り上げていた拳を開いて眉間を押さえてよろよろと後退。
いくら厚い皮膚で全身が包まれていたとしても、急所である眉間を攻撃されては怯まずにはいられなかったようだ。
パイラが体を硬直させたまま呆然としていると、背後からラチアの声がした。
「パイラ、無事か!」
「あ……」
パイラが蝶番の錆び付いた扉ようにぎこちない動きで振り向くと、不機嫌さを全開にして口をへの字にひん曲げているラチアが弓を片手に提げてやってくることろだった。
「ったく……相変わらず無茶をする」
「え、あの……」
危機一髪のところで助けてくれたラチアに礼を言いたかったが、そんな悠長な状況ではない。
目の前に凶暴な犀がいて、犀が一歩踏み出せばパイラに攻撃が届く間合い。
それなのにラチアはゆっくりとゆっくりと歩いてきている。
「市民を守ろうとする職業意識は立派だが、ちゃんと自分の命も大切にしないとダメだろう」
「す、すみません……」
体の硬直がまだとけていないパイラは犀とラチアを交互に見ながら謝った。
いつ殺されてもおかしくないこの状況に冷や汗が噴き出ている。
ラチアに比べるとまだ戦闘経験の浅いパイラは感じ取ることができずにいたが、犀はすでにパイラを標的から外して自分の眉間に矢を当てたラチアへ意識を集中させて憤怒の感情を滾らせていた。
場の空気、戦意の呼吸、その流れを熟知しているラチアが普段通りの不機嫌顔でようやくパイラの横に来ると、弓をパイラに押し付けて代わりにその手から剣をもぎ取った。
「借りるぞ、後は任せろ。オマエはラヴィの側に行ってアイツが飛び出してこないよう見張っててくれ」
ラチアはそう言って彼女を後方へ押した。足が竦んで動けなかったパイラがよろけて後ろに足を引くと、それが弾みとなって体の硬直が溶けてようやく歩けるようになった。
「りょ、了解です。先輩!」
パイラはその場にラチアを残してラヴィのいる登記所へと駆け込んだ。
慌てて戻ってきたパイラに、ラヴィが緑色の目をまん丸に見開いて問い詰めた。
「ラ、ラチア、ラチアが危ないよ! なんで、なんでラチアを置いてきたの!?」
「大丈夫、大丈夫だってば。先輩はすっごく強いんだから!」
「無茶だよ! 全然勝てそうにないよ!」
ラヴィの言う通り犀と向き合っているラチアは体格差が三倍ほどもあり、どんなに楽観してもラチアが勝てる未来が想像できない。
「いいから。おチビちゃんはあたしとここにいようね? ね?」
「なんで!? ラチア、あのままじゃ!」
ラチアをなんとか助けたいと考えているのかラヴィは眉尻を吊り上げて犀を睨んでいる。このままだと後先を考えずに単身でラチアのところへ駆け出して行きかねない。
パイラはラヴィを抱き寄せてがっちりと肩を掴んだ。
「大丈夫だから。ね、お願いだから言うこと聞いて。あたしは先輩におチビちゃんのことを任されたんだよ。おチビちゃんにもしものことがあったら、あたしが先輩に怒られちゃうよ」
「ラチアが? お、怒っちゃうの?」
ラチアに怒られると言われた途端、ラヴィのさっきまでの勢いが急速に萎んだ。
へんにゃりと耳が垂れる。
「うん。あたしも怒られるし、おチビちゃんもすっごく怒られると思うよ?」
「う……じゃあ、大人しくしてる……」
ラヴィの体から力が抜けたのを感じてパイラはラヴィを掴んでいる手の力を緩めた。
ちょうどそのタイミングで、
ずぅん……。
建物が横揺れするほどの衝撃が地を伝ってきて、ふたりは足をもつれさせた。
「何!? 何が、ラチア!?」
「あ、こら! 待ちなさい!」
ラチアの身に何かあったのだと思って血相を変えたラヴィは、力の緩んだパイラの手を撥ね除けて登記所の入口へと駆け戻った。
振り返って豹の様子を見ていた犀は、つまらなそうに首を回してのそりと再び歩き始めた。
犀は豹と違ってパイラのことはどうでもいいらしい。
パイラがどれだけ仲間を呼び集めても自分には敵わないと思っているのか、それともそこまで考える頭がないだけなのかは分からない。
しかし、少なくとも今の時点で犀の歩みを止められる者は実際に誰もいなかった。
奴隷市場にいた買い手たちが、のそのそと近づいて来る犀から必死になって逃げようとしているが、騒ぎを聞きつけてたヤジ馬たちが大勢押しかけてきて逃げ道を塞いでいる。
興味本位で押しかけたヤジ馬たちは、いざ自分が最前列に押し出されると慌てて後ろ逃げようとする。
けれど後から後からやってくる別のヤジ馬に押されて逃げられなくなっていた。
パイラは際限なく集まってくるヤジ馬たちに「来るな! 死にたくなければ逃げろ!」と大声を張り上げながら犀とは一定の距離を保ちつつゆっくりと後を追った。
「さっさと捕まえろよ警備兵! それが仕事だろうが!」
群衆の中から無責任な野次が飛ぶ。
パイラだって早く犀を取り押さえたい。
けれどあの犀を一人で取り押さえられると考えるほど彼女は愚かでも無謀でもなかった。
どうしようもない状況が動いたのは、それから十秒も経たないうちだった。
「隊長!」
パイラの警笛を聞いた彼女の部下たちがヤジ馬を掻き分けてようやく到着した。
「来たか!」
パイラは安堵の笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに曇った。
到着したのはパイラが配下に持つ十二人の部下のうちの半数の六名だけ。
それでも足止めくらいはできると判断したパイラは、部下の顔ぶれを見て即座に指示を飛ばした。
「陣形二列縦隊! ロビン、アヘラズ! 二人は盾を構えて前衛! 他の四名は弓で射よ! ソイツのパワーは尋常なものじゃない。決して直接攻撃はするな! 一定の間隔を保て!」
「はっ!」
パイラの明瞭な指示を受けた部下たちの動きは機敏だった。
名指しされた二名が背負っていた大盾を地面に立てて屈み、その後ろで二名が膝立ちで弓を構え、残る二名がその後ろに直立姿勢で弓を構えた。
「射ぇい!」
パイラの号令で、四本の矢が一斉に放たれる。
鉄の鏃が銀光をひきながら犀へと収束する。
キキンッ!
四本の矢は音を重ねて無情な四重奏を奏でた。
矢は犀の体を覆う硬い皮膚に弾かれて、力尽きた蛾のようにぽとりと地に落ちる。
「矢が……弾かれた!? なんて硬さだ」
目前で起きた信じられない結果を見て部下たちが浮き足立ちはじめる。
パイラも同じように気持ちがグラついたが部隊の長たる自分が怯んでいては指揮が執れない。
パイラは自分自身をも鼓舞するように大声を張り上げた。
「怯むな! 距離を保ち、続けて射よ!」
第二射を躊躇っていた部下たちはパイラに叱咤されて、文字通り矢継ぎ早に弓を鳴らす。
キンッ! カンッ!
何本も矢を浴びせかけられているのに犀は全く気にしていない。
のそりのそりと歩き続けている。
パイラの部下たちは最初の指示通りに犀との近接戦闘を避けて、犀が近づいた分だけ下がりながら矢を放ち続けた。
――だが、どれだけ矢を撃ち込んでもかすり傷一つつけられない。
現状に行き詰まったパイラは何か別の手段はないかと辺りを見回した。
そして、登記所の入口から顔だけ出して心配そうにこちらを見ているラヴィに気がついた。
「おチビちゃん、お願い! 先輩呼んで来て!」
「ラ、ラチアを?」
「早くっ!」
どうして? そんな疑問を挟む余地なんてなかった。
ラヴィはパイラの必死な声に弾かれて、この建物のどこかにいるはずのラチアを探しに登記所の奥へと走った。
その間にも犀はのそのそと歩き続けている。いくら歩みが鈍いからといっても、一歩一歩着実に歩き続けているので、すでに広場の出口にさしかかっていた。
パイラの部下たちが効果がないと分かっていながらも命令を墨守して射撃を続けていると、思いがけない効果が現れ始めた。
それは隊員たちにとって不運な変化だった。
いくらダメージにならないとはいえ、ずっと矢を射かけられていた犀は射手たちが鬱陶しく思えてきたらしい。
二足歩行で歩いていた犀はドスンと上体を下ろして手を地面につけると、四つ足で歩き始めた。
最初は二足歩行と同じくらいの速度だったのが徐々にスピードがついてくる。
「隊列を維持しつつ三時の方向へ移動! 逃がすな! 矢で牽制し続けろ!」
パイラは最初、犀が歩みを早めてこの場を脱出しようとしているのかと思った。
――が、それは見当違いだった。
犀は三時方向に移動した隊員たちへ照準を合わせるように向きを変えながら、さらにスピードを上げた。
「しまった! みんな逃げろ! 散開ぃー!」
パイラの叫びは間に合わなかった。
普通の人間の五倍は重量のありそうな犀の突進。
矢を番えていた四人は横っ飛びに跳んで辛うじて突進から身を躱したが、前で大盾を立てていた二人は逃げ遅れた。
犀の体当たりを喰らって大盾は羊皮紙のようにくにゃりと折れ曲がり、前衛の二人のうち一人ははね飛ばされ、一人は犀の下敷きになった。
「がはっ!」
犀の下敷きになった隊員が苦悶の呻き声を上げた。
左足が有り得ない方向に曲がっている。
「ロビン!」
「た……隊長……」
パイラに助けを求めて腕を伸ばす。
犀はその腕を掴んで高々と持ち上げた。
「がああああぁぁぁ!」
腕だけを持って犀に吊り上げられた隊員が、肩を押さえて悶絶している。
掴まれたときの角度が悪かったのだろう、体重が全て肩にかかっているのに体が斜めになっている。
関節に無茶な負荷がかかっているのは明白だった。
それから三秒もしないうちに、負荷に堪えかねた肩関節がゴクンとくぐもった音を鳴らして外れた。
「おっう! おおおおおおぉぉぉ!」
ロビンが脱臼した肩を押さえて絶叫する。
「ロビン! き……貴様ぁ!」
部下が苦しんでいるのを見て逆上したパイラは犀に向かって猛然と駆けた。
「離せ! ロビンを離せ!」
パイラが横なぎに剣を振るう。
見るからに鋭そうな剣の斬撃を警戒し、犀は大きく後退した。
犀はゴリラのように足を曲げて、左手を地面につける。
だが、隊員を吊り上げている右手は降ろさない。
「ロビンを離せ! 離せぇ!」
犀の半分も身長のないパイラが、必死になって遙か頭上にある犀の顔に向かって剣を突き上げた。
犀は上体を仰け反らせて悠然とそれを躱す。
歩く速度は極めて遅かった犀だが上体を動かすスウェーの動きだけはやたらと早かった。パイラが振るう剣を右に左に躱す。
犀からの攻撃を警戒して剣が届くギリギリの距離から斬撃を繰り出していたパイラは、このままではダメージを与えられないと判断して、さらに一歩踏み込んで剣を突き出した。
ヂンッ!
銅板を削ったような音をたててパイラが振るう剣の先が犀の腕をかすめた。糸のように細い傷口から血が滲み出す。
「……貴様」
犀は吊し上げていた隊員を壊れたオモチャを捨てるように手離した。
「ロビン!」
無傷の弓兵二人が犀から解放された同僚をかっ攫うように引っ張って後方へと下がる。
「隊長も早く逃げてください!」
隊員の一人がそう叫んだが、それはもう無理な話だった。
ロビンを助けるために無我夢中で犀の懐深くに飛び込んだパイラの頭上に彼女の肩幅より大きな犀の拳が振り上げられていた。
「――うっ!」
戦い慣れたパイラでも目前に迫った死には恐怖を覚え、足が竦んだ。
「隊長ぉー!」
隊員たちの悲鳴。犀は固く握った拳で杭を打ち込むようにパイラを打ち潰そうとした。
――その時、
カンッ!
パイラの背後から一筋の銀光が飛来して犀の眉間を貫いた。
「ごっ!?」
犀は振り上げていた拳を開いて眉間を押さえてよろよろと後退。
いくら厚い皮膚で全身が包まれていたとしても、急所である眉間を攻撃されては怯まずにはいられなかったようだ。
パイラが体を硬直させたまま呆然としていると、背後からラチアの声がした。
「パイラ、無事か!」
「あ……」
パイラが蝶番の錆び付いた扉ようにぎこちない動きで振り向くと、不機嫌さを全開にして口をへの字にひん曲げているラチアが弓を片手に提げてやってくることろだった。
「ったく……相変わらず無茶をする」
「え、あの……」
危機一髪のところで助けてくれたラチアに礼を言いたかったが、そんな悠長な状況ではない。
目の前に凶暴な犀がいて、犀が一歩踏み出せばパイラに攻撃が届く間合い。
それなのにラチアはゆっくりとゆっくりと歩いてきている。
「市民を守ろうとする職業意識は立派だが、ちゃんと自分の命も大切にしないとダメだろう」
「す、すみません……」
体の硬直がまだとけていないパイラは犀とラチアを交互に見ながら謝った。
いつ殺されてもおかしくないこの状況に冷や汗が噴き出ている。
ラチアに比べるとまだ戦闘経験の浅いパイラは感じ取ることができずにいたが、犀はすでにパイラを標的から外して自分の眉間に矢を当てたラチアへ意識を集中させて憤怒の感情を滾らせていた。
場の空気、戦意の呼吸、その流れを熟知しているラチアが普段通りの不機嫌顔でようやくパイラの横に来ると、弓をパイラに押し付けて代わりにその手から剣をもぎ取った。
「借りるぞ、後は任せろ。オマエはラヴィの側に行ってアイツが飛び出してこないよう見張っててくれ」
ラチアはそう言って彼女を後方へ押した。足が竦んで動けなかったパイラがよろけて後ろに足を引くと、それが弾みとなって体の硬直が溶けてようやく歩けるようになった。
「りょ、了解です。先輩!」
パイラはその場にラチアを残してラヴィのいる登記所へと駆け込んだ。
慌てて戻ってきたパイラに、ラヴィが緑色の目をまん丸に見開いて問い詰めた。
「ラ、ラチア、ラチアが危ないよ! なんで、なんでラチアを置いてきたの!?」
「大丈夫、大丈夫だってば。先輩はすっごく強いんだから!」
「無茶だよ! 全然勝てそうにないよ!」
ラヴィの言う通り犀と向き合っているラチアは体格差が三倍ほどもあり、どんなに楽観してもラチアが勝てる未来が想像できない。
「いいから。おチビちゃんはあたしとここにいようね? ね?」
「なんで!? ラチア、あのままじゃ!」
ラチアをなんとか助けたいと考えているのかラヴィは眉尻を吊り上げて犀を睨んでいる。このままだと後先を考えずに単身でラチアのところへ駆け出して行きかねない。
パイラはラヴィを抱き寄せてがっちりと肩を掴んだ。
「大丈夫だから。ね、お願いだから言うこと聞いて。あたしは先輩におチビちゃんのことを任されたんだよ。おチビちゃんにもしものことがあったら、あたしが先輩に怒られちゃうよ」
「ラチアが? お、怒っちゃうの?」
ラチアに怒られると言われた途端、ラヴィのさっきまでの勢いが急速に萎んだ。
へんにゃりと耳が垂れる。
「うん。あたしも怒られるし、おチビちゃんもすっごく怒られると思うよ?」
「う……じゃあ、大人しくしてる……」
ラヴィの体から力が抜けたのを感じてパイラはラヴィを掴んでいる手の力を緩めた。
ちょうどそのタイミングで、
ずぅん……。
建物が横揺れするほどの衝撃が地を伝ってきて、ふたりは足をもつれさせた。
「何!? 何が、ラチア!?」
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