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突進して間合いを詰めてくるラチアに対して、赤竜は巨体に似合わぬ素早さで前足を振り上げてラチアが欲している爪を煌めかせた。
ズンッ!
赤竜が振り下ろした前足をギリギリで躱す。
しかし、その衝撃で洞窟全体が揺れた。
「ちいっ!」
ラチアの体が僅かに浮いて足がもつれた。
ラチアの行動がワンテンポ遅れてその間に赤竜の顔が迫る。
ラチアの眼前でガパッと開かれた赤竜の頤。
唾液が糸をひく口中には鮫のように鋭い牙が二重に並んでいて喉の奥にチラチラと光る火種が見える。
赤竜がこの超至近距離から再びファイヤーブレスを放とうとしていた。
この距離だと炎の軌道がどうとかはもはや関係ない。
体の重心がまだ地についていないラチアは瞬時に足での回避移動を諦めて大胆な回避方法をとった。
渾身の力で目の前にある赤竜の牙を剣で打ち下ろしてそのまま全体重を乗せて剣を押し込む。
その反動でラチアの体が浮いた。
宙に浮いたラチアの体はファイヤーブレスを放つ寸前の赤竜の吸気に引っ張られそうになったが、ラチアは続けてもう片方の剣で赤竜の最も大きな牙を横に打った。
横向きの負荷が剣を伝ってラチアの体にかかる。
攻撃の負荷を利用して炎を回避しようとしたラチアだったが、そこで思わぬアクシデントが起こった。
赤竜の牙を打ったラチアの剣に大きな亀裂が走る。
このまま振り切れば剣が折れる。
そうなると分かっていたがラチアはあえて剣を振り切った。
チィン!
剣が折れる。反動でラチアの体が横へ弾けるように飛んだ。
赤竜の口から炎が放たれた。
ゴウッ!
ラチアの脇の横、拳一つ分も距離のないところを炎は通過。
炎は宙を舞っていた剣の破片に直撃して一瞬で真っ赤に焼けた鉄くずにして洞窟の隅にまで吹き飛ばした。
剣を一本犠牲にしてラチアは辛うじて赤竜のファイヤーブレスを躱したものの、まだ窮地を脱していない。
炎を躱すのが精一杯で着地のことまでは考えていられなかった。
横へと逃げ跳んだラチアは受け身をとることもできずに肩から地面に落ちて転がった。
肩に激痛が走る。
脳髄を突き刺すような痛みをラチアは歯を食いしばって耐えながら片膝立ちになって起き上がると頭上にはもう赤竜の前足が迫っていた。
鋭そうなカギ爪が生えている赤竜の前足。
避けなければ斬り裂かれるか踏みつぶされる。
しかし見方を変えればラチアが求めている爪がすぐそこに迫ってきている状況。
『逆にチャンスか!?』
ラチアは息を止めて下腹に力を込めた。
一本だけ残された剣を両手で握って頭上の一点に意識を集中して己が渇望している赤竜の爪に向かって下段から掬い上げるように刃をかち当てた。
『せめて、せめて欠片だけでも!』
赤竜を倒そうなんて思わない。
ただ一片の爪さえ手に入れる事ができたならそれでいい。
『それさえ、それさえ手に入れられるならば!』
膝立ちの無理な姿勢で爪を撃つ。
渾身の一撃。
悲願とも言える想いを込めた魂の一撃。
しかし、その一撃はあまりにも呆気なく《敗北》という結末をラチアにつきつけた。
チィン……。
赤竜の爪を打った剣が根元から折れた。
「そ、んな……」
空中で回転する剣身を見てラチアは顔を絶望で歪ませた。
剣撃を受けた爪はあくまでも無傷。
比類なき硬さを見せつけた爪が、赤竜の足が、勢いを落とすことなくラチアにのしかかってラチアを無慈悲にねじ伏せた。
「ぎっ!」
圧倒的な力で無理矢理地べたに圧し倒されたラチアが苦悶の呻き声を漏らした。
鎧がギシギシ軋んでいる。
樽状に作られている金属鎧の反発力が辛うじてラチアを圧死から守っているが、赤竜がこのまま足に体重をかけるだけで鎧は簡単に破壊されてラチアは潰される。
ラチアの敗北は確定した。
もう逃げられない。
もう死は避けられない。
ゆっくりと、じわじわと、赤竜が足に体重をかけてきた。
ビシッ!
ラチアの鎧に亀裂が走る。
鎧が大きく歪む。
「ぐはあっ!」
鎧に守られていたラチアの胴体に直接圧力がかかり始めて肋骨が軋む。
このまま一気に踏みつぶしてしまえばラチアは苦しまずに死ねるのに赤竜はそうしなかった。
赤竜は別にラチアを苦しめて愉しんでいるわけではない。
一気に踏みつぶしてしまえば血や内臓が周囲に飛び散る。
赤竜にとってはラチアの体内にある血も内臓も大切な食料。
それが飛び散って無駄にならないように慎重になっているだけで、ラチアを苦しめて愉しもうとするそんな感情すら赤竜にはなかった。
「やめろー!」
破裂しない程度に加減しながらラチアを圧死させようとしている赤竜に向かって幼い声が飛んだ。
「やめろー! マスターを苦しめるなぁー!」
他者を攻撃する爪も牙もないラヴィがブンブンと腕を振り回しながら半泣きの顔で駆け寄って来ている。
「ば、ばか……来る……な……」
胸を圧迫されて呼吸することすらできなくなっているラチアが肺に残っていた僅かな空気を吐き出してラヴィを止めたが、その制止の声はラヴィの長い耳を素通りしてラヴィは勢いを落とすことなく赤竜の前足に飛びついた。
「離せ! 離せ! マスターを離せってばぁー!」
ラチアを殺そうとする赤竜に憤激したラヴィが怖さも忘れて猛烈な勢いで赤竜の前足をてちてちと叩いている。
てちてち、てちてちと、必死になって叩いている。
ラチアの剣ですら傷をつけられたなっかた赤竜の体はラヴィがどんなに激しく叩いても痛むどころか痒くなることすらなかった。
《……》
赤竜はしばらく無言でその様子を眺めていた。
……やがて、もう片方の前足をそっと上げると爪の先をすぼめてラヴィの首の後ろを摘んで目の高さまで持ち上げた。
「ああっ!? なにするんだよ! 離せってば!」
持ち上げられて足をぷらぷらさせているラヴィが気丈に吠えている。
赤竜はそんなラヴィを見ながら、この小っこいのをどう扱うか悩んだ。
《戦い敗れた者は容赦なく喰らうことにしているが、これは『戦った』と判断してよいものだろうか? そもそも、今のてちてちは攻撃とみなしていいのか? これなら私の欠伸のほうがよほど攻撃力はあるぞ?》
ラヴィてちてちがあまりにも非力すぎて赤竜には判断しかねた。
だが、それも束の間のことで、赤竜は考えるのが面倒になってきたらしく、このまま前菜代わりにラヴィを飲み込むことにした。
舌を出してその上にラヴィを乗せようとすると今度は足下から声が上がった。
「待……て。待って……く、れ」
《ん? なんのつもりだ。今更になって命乞いか。見苦しい》
ラヴィの処遇に悩んでる間、赤竜が僅かに足を浮かせたのでラチアは少しだけ息を吹き返していた。
「お、俺の命など、どうでもいい。だがソイツは見逃してやってくれ。俺の我が儘に付き合って来ただけなんだ」
「マスター!?」
《ほぉ? つまり、自分の命を差し出すからこのウサギを見逃せと? その条件で取引したいと言うのか》
「取引ではない。これは願いだ。なにしろ今の俺には自分の命の他に差し出せるものは無い」
《ほおぅ……》
ラチアの言い様が赤竜の心をくすぐったらしい。
赤竜はラヴィを吊り上げたまま長い首を下ろして、押しつぶされる寸前のラチアを地面スレスレの位置から眺めて楽しそうに話しかけた。
《どうやら貴様は言葉の正しい使い方を理解しているようだ。確かに自分の命くらいしか差し出すものが無ければ取引とは言えぬ。その場の支配者に命を差し出し、哀れみを請い、ただ『Please(お願いします)』と言うしかない。確かにこれは《取引》ではなく《願い》だな》
「そうだ、お願いだ……そいつだけは、見逃してくれ……」
「ヤダよ! マスターが死ぬのなんてヤダよぉー!」
《……うるさい。黙らぬと今すぐコイツを踏み潰すぞ》
「――っ!?」
赤竜に睨まれてラヴィは慌てて口を押さえた。
赤竜はふんと炎の混じった鼻息を吹いて再びラチアの顔が見える低さにまで顔を下ろした。
《話は理解した。だが、貴様には私に哀れみを請える立場にいるとでも思っているのか? 勝手に我が領域に侵入し、戦い、あっけなく敗れ、どうせ殺されるのであれば……と、破れかぶれの願いを喚いているようにしか見えぬ。それでは私から憐憫の情を引き出すことはできぬなぁ》
赤竜は斬り捨てるように言った。
《オマエの命と引き替えでコイツを見逃せだと? まるで話にならん》
「お、俺の命では不満か!?」
《勘違いをするな人間。この状況で己の命がまだ己のものだとでも思っているのか》
赤竜はラチアに自分の立場を思い知らせるようにグッとラチアを圧した。
「ぐあぁ!」
《どうだ? 貴様の命なぞとっくに私のもの。生かすも殺すも私の意のまま。わかるか? 今のオマエには私に差し出す命すらない。ゆえに『お願いします』と懇願する資格もない》
「それでも……ソイツだけは……ソイツだけは、見逃してください。お願い……します」
ラチアは喘ぎながら地面に爪を立てて「お願いします」と何度も何度も嘆願を繰り返した。
《……下らぬ。もう少し気の効いた事を言うかと思えば……甚だ興冷めよ》
ずっと巣の中でひとり過ごしてきた退屈さを言葉の駆け引きを愉しむことで慰めようとしていた赤竜は「お願いします」としか言わなくなったラチアへ侮蔑に似た冷たい視線を投げつけて、もう用はないとばかりに頭を上げた。
「待って! マスターを殺さないで!」
ずっと口を閉ざしていたラヴィが目の前に上がってきた赤竜の耳元で叫んだ。
《なんだ、貴様も命乞いか? いい加減に話すのも飽いてきた》
「違うよ! 取引だよ!」
《取引? 取引だと? 願いではなく、か?》
その言葉に赤竜は興味を示した。死にかけの人間より愉しめそうだと思ったようだ。
「そうだよ。ボクが赤竜さんと取引だよ」
《ほほぉ? この状況で私に取引を望むとは……面白い。言ってみろ》
「まず、ボクの要求は、赤竜さんがボクたちのことを許して解放すること」
《まぁそうだろうな。それで私への対価は? まさか自分の命だと言うのではなかろうな?》
「違うよ、ボクは『ボクたちのことを許して解放すること』って条件を出したんだ。だからその条件の中にはボクの命も入っている。それに、まだ僕の要求は終わってないよ」
《まだあるのか》
「ボクの要求はもう一つ。赤竜さんの爪!」
《ほぅん……随分と欲深い。まぁいい、どうせまた生えてくる物だ。それで? 対価は何だ。これだけの要求に見合ったものでなければ、一吹きに焼き殺してくれるぞ》
脅しの言葉を添えて睨みつけてくる赤竜の迫力にラヴィの体がぶるりと震えたけれど、ラヴィはぐっと口を引き結んで恐怖を唾と一緒に飲み込んで耐えた。
「ボ、ボクから赤竜さんに渡す対価は……赤竜さんの目」
《なん……だと……?》
赤竜が片方しかない目を見開いた。
「赤竜さんを見たときに、とても懐かしい感じがしたんだ。でもボクは赤竜さんに会ったことなんてない。でも、なぜか見覚えがあったんだよ。『どうして?』って思った。で、今こうして近くで見てわかった。ボクが見たことのあるのは赤竜さんじゃなくて赤竜さんの目だったんだ。ボク、赤竜さんの目が今どこにあるか知ってるよ」
《本当か!?》
「うん。ボクと一緒に暮らしてた魔法使いのおばあちゃんが持っていた杖の先に、水晶みたいにキレイで大きな玉が嵌ってた。あれ、きっと赤竜さんの目だよ」
意外過ぎる告白が赤竜には信じられなかったらしく、猜疑心を露わにして訊いた。
《して、その魔法使いはどんな魔法を使う?》
「雷!」
迷うことなく簡潔に答えたラヴィ。
とても嘘を言っているようには見えない。
《くっ。くははは! なるほど、ならばその玉はおそらく私の目だろう。確かに私から目を抉り取っていったのは雷を使う若き人間のメスだった。……よかろう、その取引に応じよう。しかし、一つの値切り交渉も無くそのままの条件で応じるわけにはいかぬな。目と一緒にその魔法使いを私の前に連れて来い。今度こそ奴を真っ黒な灰にしててくれるわ》
赤竜は目を奪った憎き相手のことが忘れられないらしい。
屈折した笑顔の中に粘着質な怒りと残虐さを混ぜ合わせて赤竜はラヴィが提案した取引に条件を上乗せした。
「え? それは無理だよ。おばあちゃん、もう死んじゃったから」
《……なに? そうなのか?》
ラヴィがきょとんとした顔で答えたのを赤竜も同じようにきょとんな顔をして訊き返した。
「それに、赤竜さんから目を奪ったのはお婆ちゃんの師匠の師匠のそのまたずっと前の師匠だと思う。あの杖って雷を使う魔法使いで一番実力のある弟子に代々受け継がれている大切なものだっておばあちゃん言ってたから。……赤竜さんが眼を盗られたのっていつの話?」
《確か……六百年前だな》
「……あのね、人間の寿命って六十年くらいだよ?」
それを聞いて、赤竜のきょとん顔が苦悶に歪みはじめた。
《くっ、そうだった。人とはなんと短命な生き物よ。我が屈辱を晴らす機会もないまま勝手に死んでゆく》
「ね、赤竜さん。おばあちゃん連れてくるの無理だから目を持ってくるだけでいいよね?」
《ぬぅ……仕方あるまい。だが、その玉が本当に私の目かどうかは実際に見ないと真贋の区別ができぬ。だから取引は私の目を持ってきたときに応じよう。それまでは――》
押しつぶしていたラチアを掴んでラヴィと同じ高さにまで持ち上げた。
「マスター! マスター!?」
「……」
持ち上げられたラチアは力無く首を垂らしラヴィの呼びかけにも応えない。
《心配するな。意識を失っているだけでまだ生きている。だが、この人間は質にさせてもらおう。早く助けたくば早く私の目を持ってくるのだな》
「わかった、すぐ取ってくる。その間マスターにひどいことをしたら絶対許さないからね!」
頬を膨らませて威嚇してくるラヴィの仕草が面白かったのか赤竜が意地悪く笑った。
《ふふん? それはつまらないな。足の一本ぐらいなら食べていいだろう》
「絶対ダメ! ふざけてるの!? そんなことしたら目を割っちゃうよ?」
《……怒るな、冗談だ》
地上生物最強と言われている赤竜が、舌の上に乗るくらい小さなラヴィに叱られてシュンと首を垂らしている姿はなんだか滑稽だった。
ズンッ!
赤竜が振り下ろした前足をギリギリで躱す。
しかし、その衝撃で洞窟全体が揺れた。
「ちいっ!」
ラチアの体が僅かに浮いて足がもつれた。
ラチアの行動がワンテンポ遅れてその間に赤竜の顔が迫る。
ラチアの眼前でガパッと開かれた赤竜の頤。
唾液が糸をひく口中には鮫のように鋭い牙が二重に並んでいて喉の奥にチラチラと光る火種が見える。
赤竜がこの超至近距離から再びファイヤーブレスを放とうとしていた。
この距離だと炎の軌道がどうとかはもはや関係ない。
体の重心がまだ地についていないラチアは瞬時に足での回避移動を諦めて大胆な回避方法をとった。
渾身の力で目の前にある赤竜の牙を剣で打ち下ろしてそのまま全体重を乗せて剣を押し込む。
その反動でラチアの体が浮いた。
宙に浮いたラチアの体はファイヤーブレスを放つ寸前の赤竜の吸気に引っ張られそうになったが、ラチアは続けてもう片方の剣で赤竜の最も大きな牙を横に打った。
横向きの負荷が剣を伝ってラチアの体にかかる。
攻撃の負荷を利用して炎を回避しようとしたラチアだったが、そこで思わぬアクシデントが起こった。
赤竜の牙を打ったラチアの剣に大きな亀裂が走る。
このまま振り切れば剣が折れる。
そうなると分かっていたがラチアはあえて剣を振り切った。
チィン!
剣が折れる。反動でラチアの体が横へ弾けるように飛んだ。
赤竜の口から炎が放たれた。
ゴウッ!
ラチアの脇の横、拳一つ分も距離のないところを炎は通過。
炎は宙を舞っていた剣の破片に直撃して一瞬で真っ赤に焼けた鉄くずにして洞窟の隅にまで吹き飛ばした。
剣を一本犠牲にしてラチアは辛うじて赤竜のファイヤーブレスを躱したものの、まだ窮地を脱していない。
炎を躱すのが精一杯で着地のことまでは考えていられなかった。
横へと逃げ跳んだラチアは受け身をとることもできずに肩から地面に落ちて転がった。
肩に激痛が走る。
脳髄を突き刺すような痛みをラチアは歯を食いしばって耐えながら片膝立ちになって起き上がると頭上にはもう赤竜の前足が迫っていた。
鋭そうなカギ爪が生えている赤竜の前足。
避けなければ斬り裂かれるか踏みつぶされる。
しかし見方を変えればラチアが求めている爪がすぐそこに迫ってきている状況。
『逆にチャンスか!?』
ラチアは息を止めて下腹に力を込めた。
一本だけ残された剣を両手で握って頭上の一点に意識を集中して己が渇望している赤竜の爪に向かって下段から掬い上げるように刃をかち当てた。
『せめて、せめて欠片だけでも!』
赤竜を倒そうなんて思わない。
ただ一片の爪さえ手に入れる事ができたならそれでいい。
『それさえ、それさえ手に入れられるならば!』
膝立ちの無理な姿勢で爪を撃つ。
渾身の一撃。
悲願とも言える想いを込めた魂の一撃。
しかし、その一撃はあまりにも呆気なく《敗北》という結末をラチアにつきつけた。
チィン……。
赤竜の爪を打った剣が根元から折れた。
「そ、んな……」
空中で回転する剣身を見てラチアは顔を絶望で歪ませた。
剣撃を受けた爪はあくまでも無傷。
比類なき硬さを見せつけた爪が、赤竜の足が、勢いを落とすことなくラチアにのしかかってラチアを無慈悲にねじ伏せた。
「ぎっ!」
圧倒的な力で無理矢理地べたに圧し倒されたラチアが苦悶の呻き声を漏らした。
鎧がギシギシ軋んでいる。
樽状に作られている金属鎧の反発力が辛うじてラチアを圧死から守っているが、赤竜がこのまま足に体重をかけるだけで鎧は簡単に破壊されてラチアは潰される。
ラチアの敗北は確定した。
もう逃げられない。
もう死は避けられない。
ゆっくりと、じわじわと、赤竜が足に体重をかけてきた。
ビシッ!
ラチアの鎧に亀裂が走る。
鎧が大きく歪む。
「ぐはあっ!」
鎧に守られていたラチアの胴体に直接圧力がかかり始めて肋骨が軋む。
このまま一気に踏みつぶしてしまえばラチアは苦しまずに死ねるのに赤竜はそうしなかった。
赤竜は別にラチアを苦しめて愉しんでいるわけではない。
一気に踏みつぶしてしまえば血や内臓が周囲に飛び散る。
赤竜にとってはラチアの体内にある血も内臓も大切な食料。
それが飛び散って無駄にならないように慎重になっているだけで、ラチアを苦しめて愉しもうとするそんな感情すら赤竜にはなかった。
「やめろー!」
破裂しない程度に加減しながらラチアを圧死させようとしている赤竜に向かって幼い声が飛んだ。
「やめろー! マスターを苦しめるなぁー!」
他者を攻撃する爪も牙もないラヴィがブンブンと腕を振り回しながら半泣きの顔で駆け寄って来ている。
「ば、ばか……来る……な……」
胸を圧迫されて呼吸することすらできなくなっているラチアが肺に残っていた僅かな空気を吐き出してラヴィを止めたが、その制止の声はラヴィの長い耳を素通りしてラヴィは勢いを落とすことなく赤竜の前足に飛びついた。
「離せ! 離せ! マスターを離せってばぁー!」
ラチアを殺そうとする赤竜に憤激したラヴィが怖さも忘れて猛烈な勢いで赤竜の前足をてちてちと叩いている。
てちてち、てちてちと、必死になって叩いている。
ラチアの剣ですら傷をつけられたなっかた赤竜の体はラヴィがどんなに激しく叩いても痛むどころか痒くなることすらなかった。
《……》
赤竜はしばらく無言でその様子を眺めていた。
……やがて、もう片方の前足をそっと上げると爪の先をすぼめてラヴィの首の後ろを摘んで目の高さまで持ち上げた。
「ああっ!? なにするんだよ! 離せってば!」
持ち上げられて足をぷらぷらさせているラヴィが気丈に吠えている。
赤竜はそんなラヴィを見ながら、この小っこいのをどう扱うか悩んだ。
《戦い敗れた者は容赦なく喰らうことにしているが、これは『戦った』と判断してよいものだろうか? そもそも、今のてちてちは攻撃とみなしていいのか? これなら私の欠伸のほうがよほど攻撃力はあるぞ?》
ラヴィてちてちがあまりにも非力すぎて赤竜には判断しかねた。
だが、それも束の間のことで、赤竜は考えるのが面倒になってきたらしく、このまま前菜代わりにラヴィを飲み込むことにした。
舌を出してその上にラヴィを乗せようとすると今度は足下から声が上がった。
「待……て。待って……く、れ」
《ん? なんのつもりだ。今更になって命乞いか。見苦しい》
ラヴィの処遇に悩んでる間、赤竜が僅かに足を浮かせたのでラチアは少しだけ息を吹き返していた。
「お、俺の命など、どうでもいい。だがソイツは見逃してやってくれ。俺の我が儘に付き合って来ただけなんだ」
「マスター!?」
《ほぉ? つまり、自分の命を差し出すからこのウサギを見逃せと? その条件で取引したいと言うのか》
「取引ではない。これは願いだ。なにしろ今の俺には自分の命の他に差し出せるものは無い」
《ほおぅ……》
ラチアの言い様が赤竜の心をくすぐったらしい。
赤竜はラヴィを吊り上げたまま長い首を下ろして、押しつぶされる寸前のラチアを地面スレスレの位置から眺めて楽しそうに話しかけた。
《どうやら貴様は言葉の正しい使い方を理解しているようだ。確かに自分の命くらいしか差し出すものが無ければ取引とは言えぬ。その場の支配者に命を差し出し、哀れみを請い、ただ『Please(お願いします)』と言うしかない。確かにこれは《取引》ではなく《願い》だな》
「そうだ、お願いだ……そいつだけは、見逃してくれ……」
「ヤダよ! マスターが死ぬのなんてヤダよぉー!」
《……うるさい。黙らぬと今すぐコイツを踏み潰すぞ》
「――っ!?」
赤竜に睨まれてラヴィは慌てて口を押さえた。
赤竜はふんと炎の混じった鼻息を吹いて再びラチアの顔が見える低さにまで顔を下ろした。
《話は理解した。だが、貴様には私に哀れみを請える立場にいるとでも思っているのか? 勝手に我が領域に侵入し、戦い、あっけなく敗れ、どうせ殺されるのであれば……と、破れかぶれの願いを喚いているようにしか見えぬ。それでは私から憐憫の情を引き出すことはできぬなぁ》
赤竜は斬り捨てるように言った。
《オマエの命と引き替えでコイツを見逃せだと? まるで話にならん》
「お、俺の命では不満か!?」
《勘違いをするな人間。この状況で己の命がまだ己のものだとでも思っているのか》
赤竜はラチアに自分の立場を思い知らせるようにグッとラチアを圧した。
「ぐあぁ!」
《どうだ? 貴様の命なぞとっくに私のもの。生かすも殺すも私の意のまま。わかるか? 今のオマエには私に差し出す命すらない。ゆえに『お願いします』と懇願する資格もない》
「それでも……ソイツだけは……ソイツだけは、見逃してください。お願い……します」
ラチアは喘ぎながら地面に爪を立てて「お願いします」と何度も何度も嘆願を繰り返した。
《……下らぬ。もう少し気の効いた事を言うかと思えば……甚だ興冷めよ》
ずっと巣の中でひとり過ごしてきた退屈さを言葉の駆け引きを愉しむことで慰めようとしていた赤竜は「お願いします」としか言わなくなったラチアへ侮蔑に似た冷たい視線を投げつけて、もう用はないとばかりに頭を上げた。
「待って! マスターを殺さないで!」
ずっと口を閉ざしていたラヴィが目の前に上がってきた赤竜の耳元で叫んだ。
《なんだ、貴様も命乞いか? いい加減に話すのも飽いてきた》
「違うよ! 取引だよ!」
《取引? 取引だと? 願いではなく、か?》
その言葉に赤竜は興味を示した。死にかけの人間より愉しめそうだと思ったようだ。
「そうだよ。ボクが赤竜さんと取引だよ」
《ほほぉ? この状況で私に取引を望むとは……面白い。言ってみろ》
「まず、ボクの要求は、赤竜さんがボクたちのことを許して解放すること」
《まぁそうだろうな。それで私への対価は? まさか自分の命だと言うのではなかろうな?》
「違うよ、ボクは『ボクたちのことを許して解放すること』って条件を出したんだ。だからその条件の中にはボクの命も入っている。それに、まだ僕の要求は終わってないよ」
《まだあるのか》
「ボクの要求はもう一つ。赤竜さんの爪!」
《ほぅん……随分と欲深い。まぁいい、どうせまた生えてくる物だ。それで? 対価は何だ。これだけの要求に見合ったものでなければ、一吹きに焼き殺してくれるぞ》
脅しの言葉を添えて睨みつけてくる赤竜の迫力にラヴィの体がぶるりと震えたけれど、ラヴィはぐっと口を引き結んで恐怖を唾と一緒に飲み込んで耐えた。
「ボ、ボクから赤竜さんに渡す対価は……赤竜さんの目」
《なん……だと……?》
赤竜が片方しかない目を見開いた。
「赤竜さんを見たときに、とても懐かしい感じがしたんだ。でもボクは赤竜さんに会ったことなんてない。でも、なぜか見覚えがあったんだよ。『どうして?』って思った。で、今こうして近くで見てわかった。ボクが見たことのあるのは赤竜さんじゃなくて赤竜さんの目だったんだ。ボク、赤竜さんの目が今どこにあるか知ってるよ」
《本当か!?》
「うん。ボクと一緒に暮らしてた魔法使いのおばあちゃんが持っていた杖の先に、水晶みたいにキレイで大きな玉が嵌ってた。あれ、きっと赤竜さんの目だよ」
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《して、その魔法使いはどんな魔法を使う?》
「雷!」
迷うことなく簡潔に答えたラヴィ。
とても嘘を言っているようには見えない。
《くっ。くははは! なるほど、ならばその玉はおそらく私の目だろう。確かに私から目を抉り取っていったのは雷を使う若き人間のメスだった。……よかろう、その取引に応じよう。しかし、一つの値切り交渉も無くそのままの条件で応じるわけにはいかぬな。目と一緒にその魔法使いを私の前に連れて来い。今度こそ奴を真っ黒な灰にしててくれるわ》
赤竜は目を奪った憎き相手のことが忘れられないらしい。
屈折した笑顔の中に粘着質な怒りと残虐さを混ぜ合わせて赤竜はラヴィが提案した取引に条件を上乗せした。
「え? それは無理だよ。おばあちゃん、もう死んじゃったから」
《……なに? そうなのか?》
ラヴィがきょとんとした顔で答えたのを赤竜も同じようにきょとんな顔をして訊き返した。
「それに、赤竜さんから目を奪ったのはお婆ちゃんの師匠の師匠のそのまたずっと前の師匠だと思う。あの杖って雷を使う魔法使いで一番実力のある弟子に代々受け継がれている大切なものだっておばあちゃん言ってたから。……赤竜さんが眼を盗られたのっていつの話?」
《確か……六百年前だな》
「……あのね、人間の寿命って六十年くらいだよ?」
それを聞いて、赤竜のきょとん顔が苦悶に歪みはじめた。
《くっ、そうだった。人とはなんと短命な生き物よ。我が屈辱を晴らす機会もないまま勝手に死んでゆく》
「ね、赤竜さん。おばあちゃん連れてくるの無理だから目を持ってくるだけでいいよね?」
《ぬぅ……仕方あるまい。だが、その玉が本当に私の目かどうかは実際に見ないと真贋の区別ができぬ。だから取引は私の目を持ってきたときに応じよう。それまでは――》
押しつぶしていたラチアを掴んでラヴィと同じ高さにまで持ち上げた。
「マスター! マスター!?」
「……」
持ち上げられたラチアは力無く首を垂らしラヴィの呼びかけにも応えない。
《心配するな。意識を失っているだけでまだ生きている。だが、この人間は質にさせてもらおう。早く助けたくば早く私の目を持ってくるのだな》
「わかった、すぐ取ってくる。その間マスターにひどいことをしたら絶対許さないからね!」
頬を膨らませて威嚇してくるラヴィの仕草が面白かったのか赤竜が意地悪く笑った。
《ふふん? それはつまらないな。足の一本ぐらいなら食べていいだろう》
「絶対ダメ! ふざけてるの!? そんなことしたら目を割っちゃうよ?」
《……怒るな、冗談だ》
地上生物最強と言われている赤竜が、舌の上に乗るくらい小さなラヴィに叱られてシュンと首を垂らしている姿はなんだか滑稽だった。
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