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朝からラチアの機嫌が大層悪い。
赤竜との戦いでラチアは身体的にもプライド的にもずたずたに傷つけられたからだ。
ラヴィに助けられたこともラチアの心を重くしていた。
目と引き替えで赤竜から解放されたラチアは洞窟を出てすぐ気まずそうに「すまなかったな……ありがとう」とラヴィに謝辞を述べた。
ラヴィは少し照れながら「気にしないでよマスター。ボクはマスターのお役にたてたことが嬉しいんだ」と健気に笑ったのだけれどラチアにはそんな気遣い余計に辛かった。
満身創痍だったラチアは火山の麓の宿屋で二日間寝込み、その後家に帰って来るなり赤竜の爪の加工に取りかかった。
赤竜の爪を加工するのはひどく苦労した。
爪に鑿を打ち込もうとしたらキンッと弾き返されて刃は欠けた。
どうやら強い衝撃は反射する性質を持っているらしい。
新しい鑿でゆっくりじわじわと爪を圧してゆくと、ようやく鑿の刃が爪に食い込んだ。
緩やかに力をかけたときだけ赤竜の爪は反発しないようだ。
他の材料では有り得ない特性を持つ赤竜の爪は靴のヒールにするには最適の材料だった。
歩くくらいの緩い衝撃ならその力を分散吸収してくれる。
その一方で、走った場合にかかる強い衝撃は反発して体をバネのように押し上げてくれる。
慣れが必要だろうが、この靴を履いて走ればきっと信じられないほどの早さで走ることが可能だろう。
こうして加工をしてみることでラチアはようやく理解した。
こんな特性を持つ爪に向かって思いっきり剣をぶつけたら衝撃がそのまま反射されて、どんな名刀でも容易く折れてしまう。
実際ラチアの剣は折られた。
おそらく牙も同じ性質を持っているのだろう。
「その存在だけでも無敵に近いのに、武装破壊の特性がある爪と牙か……剣士じゃどう足掻いても勝てない相手だったんじゃないか。くそっ! くそっ! くそっ!」
そんなふうに愚痴をこぼしながら作業を続けて、ようやく一対のヒールを作り上げたときには夕方になっていた。
一日中鑿を握っていたせいで手の痺れがなかなか抜けない。
椅子に体を預けてぐったりとしているラチアにラヴィが水で濡らしたタオルを手渡した。
「ずいぶん慎重に削ってたね」
「慎重にもなるだろ。もしこれで加工に失敗したら、またあの赤竜のところに行かなきゃならないんだぞ? 俺は二度とアイツと会いたくない。それこそいくら命があっても足りない」
「でも、よかったねマスター。これで残る部分は一つだけだよ」
「あぁ。でも、次の材料が《青竜の背びれ》とか、《黒竜の鼻毛》とかだったら、さすがに作るのを諦めてしまいそうだ」
「でも、作るんだよね? ……姫様のために」
受け取ったタオルを目の上に乗せて休んでいたラチアはしばらく何も応えはしなかったが、ゆるい溜息を吐いてから小さな声で言った。
「……まぁな」
ラチアのその答えに、ラヴィのちくりと胸が痛んだ。
きゅんきゅんした痛みではなく何かが刺さったような鋭い痛み。
たぶんこの痛みはいくらラチアになでなでされても和らがないって事をラヴィは理解できるようになっていた。
************
作業小屋を閉めてふたりが母屋に戻ると、いつの間にか扉の内側に見慣れた封筒が投げ込まれていた。
「来たか」
玄関マットの上に置かれている茶色い封筒はラヴィにも見覚えがあった。
解読メモが入れられている封筒だ。
ラチアは軽く緊張した顔で中に入っていたメモを読んだ。
「……よし。これが本当に最後の行程になるらしいな。全文の解読が終了したと書いてある」
「最後の材料って何なの?」
また赤竜クラスの怪物が相手だとさすがに厳しい。
そんな相手で無いことを祈りつつラチアに訊くと……、
「……? どうしたの、マスター。顔色悪いよ!?」
メモを読んでいたラチアの顔が真っ青になって強ばっていた。
「これが……」
動揺したラチアの手が小刻みに震えている。
「これが、最後の材料……だと?」
「え? もしかして、本当にまた竜が相手なの!?」
予想していた最悪の展開になったのかと驚いてラチアの太ももに手を置くとラチアはゆっくり視線を落としてラヴィを見つめた。
驚愕に見開かれたラチアの目がラヴィの顔に止まって動かない。
「え? なに? どうしたの?」
ラチアはそれに応えずに首を横に振った。
「……無理だ。そんなの……俺には、無理だ。できるわけがない」
ラチアが泣きそうな声で口を戦慄かせている。
「マ、マスター!? 本当にどうしたの? 大丈夫? なんて書いてあったの!?」
ラチアが赤竜と対戦した時よりも怯えた顔で首を横に振ってラヴィを見つめながら「無理だ」と繰り返す。その様子は明らかに尋常じゃない。
「マスターしっかり! 落ち着こう。ね?」
とにかく落ち着かせようとラヴィはラチアの背を押してテーブルに着かせて水を飲ませた。
それでもラチアは起きたまま悪夢に苛まされているかのように怯えた顔をして、度々ラヴィを見ては首を振っている。
「ね、マスター。何が書いてあったの? また竜なの? それとも見つけにくいもの?」
「見つけ……にくい? そうか! まだ、限定しなくてもいいんだ。他にも……」
「マスター?」
ラチアは幽鬼のようにふらりと外へ出ようとした。
見るからに危なっかしい足取り。
心配でラチアの前に回り込んだラヴィが両手を広げて止めた。
「今から外に出るの? よしたほうがいいよ。もうすぐ日が落ちるし、疲れているみたいだし、赤竜さんのときの怪我も治ってないし、ね、明日にしよう。ね、ね? 今日はもう休もう!?」
「大丈夫だ。大丈夫、俺がなんとかする」
微妙に噛み合わない返事をしてラチアはラヴィを横にどかして強引に外に出た。
「じゃ、ボクも行く!」
ラヴィがいつものポシェットを肩に掛けてついて行こうとしたが「来るな。王都に行って情報を集めてくるだけだ」とラヴィの同行を拒否した。
「別に材料探しの旅をするわけじゃない。王都で情報を集めてくるだけだ。だから来るな」
「そう……なの?」
「ああ」
「本当に……大丈夫? 明日にしたほうが……」
ふらふらと歩くラチアの精神状態が心配で後ろを離れられずにいるとラチアは振り返ってしゃがみ、ラヴィと目線の高さを合わせた。
「……オマエは本当に優しいな」
無理に平気なふうを装って笑顔を作っているラチア。
ラチアは何かを隠している。隠さなければならない《何か》が、さっき届けられたメモに書いてあったのは明白だ。
でも、それが何なのかなんて分からない。
「マスター……」
ラヴィはラチアのズボンのポケットに目をやった。
その中にはさっきのメモが入っている。
できるなら、そこからメモを奪って内容を知りたい。
でも、それをしたらラチアが本気で怒りそうな気がして手が伸ばせなかった。
「どうしても、今からじゃなきゃダメ……なの?」
「あぁ。明日の夜には帰ってくるから。な? だから心配しないで待っててくれ」
そう言ってラチアはラヴィの頭を撫でた。
ラヴィはそれ以上何も言えなくなって沈みかけた夕日の中に消えてゆくラチアを見送った。
もう二度とラチアに逢えなくなるような。
そんな予感がしたけれど引き止められなかった。
************
ラヴィは家に戻って棚のカゴからパンを一個だけ取りだしてテーブルに着いた。
ラチアのいない夜を過ごすには、どれくらいぶりだろう。
ひとりきりの夜を過ごすのは何時ぶりだろう。
久しく感じることの無かった胸の痛みがラヴィの胸をしめつける。
何も食べる気がおきなくてラヴィは籠の中にパンを戻し、寝床にしている箱の中に潜り込んで丸くなった。
『マスター早く帰ってこないかな……』
そんなことを考えているうちに段々と睡魔の息吹が近くに感じられるようになってラヴィは静かに寝息をたてはじめた。
日が変わり、その日の太陽が山間に沈む。
夕食を一緒に食べようと思ってラヴィは何も食べずにラチアの帰りを待っていた。
お腹が空きすぎてパンを一欠片だけつまみ食いしたけれど、それ以上は食べなかった。
『遅いな……。遅いな……』
何度も家の外に出て首を長くして耳を立てたけれどラチアは帰ってこなかった。
いつもなら寝ている時間になって、ようやくラチアは帰ってきた。……憔悴しきった青白い顔で。
「マスター!?」
覚束ない足取りでよろよろと家の中に入ってきたラチアは駆け寄ってきたラヴィを見て泣きそうな顔をした。
「え? どうしたの? ね、マスター! マスターってば!?」
ラチアは血の気が失せた顔でじっとラヴィを見続け、溢れ出そうになる嗚咽を外に漏らさないように歯を食いしばっている。
明らかにラチアの様子が昨日よりもひどくなっていた。
そんなラチアに『何かしてあげなきゃ』と思うけれど何をしてあげればいいのかラヴィには分からない。
ラヴィが対応に困っててちてちと耳の毛繕いを始めていたらラチアがラヴィの肩に両手を置いた。
痙攣するように震えるラチアの手がラヴィの小さな肩の上を滑り、ラヴィの首輪を包むように両手で輪を作った。
「マスター?」
ゆっくりと首を圧迫してくるラチアを不安そうに見上げている。
「……くっ!」
ラヴィの首に手をかけていたラチアは短い苦悶の声を出して手を離すと、崩れるように膝をついて項垂れた。
「……やめだ」
「え? なに?」
「靴を作るのは……やめだ」
蹲って床に額を擦りつけたラチアが肩幅の広い背中を振るわせながら言った。
ラヴィはその言葉が信じられなかった。
そんな言葉がラチアの口から出たこと自体が異常だ。
靴作りをやめる?
どうして?
なぜ?
姫様のためにこれまで頑張ってきたのに。
強い想いがあったから、殺されることも覚悟して赤竜さんのところにまで行ったのに。
命を懸けてでも叶えたいことだったんじゃないの?
「嘘……だよね。ね、マスター?」
「本当だ。《神代の遺物》の靴を作るのは……もう、諦める」
一度言葉にしたことで気持ちが固まったのかラチアはさっきよりもハッキリと答えた。
「どうして!? ここまで一緒に頑張ってきたのに!」
「うるさい! もうそれ以上言うな!」
ラチアが怒鳴ったのでラヴィは驚き飛び上がって後退った。
……けど、ラチアが蹲ったまま床に爪を立てて苦しそうに呻いているのを見ると、怖さよりも心配のほうが強くなってきて、おずおずと再びラチアの側に寄ってラチアの背に手を置いた。
「マスター。ねぇマスター。本当に変だよ、おかしいよ。どうしたの?」
ラヴィの言葉にラチアは自嘲するように口元を歪ませた。
「ふっ……ふふふ……あぁそうだな、俺は変に……いや、もう、狂っているのかもしれない」
「――っ!?」
頭を上げたラチアの顔を見てラヴィは息を呑んだ。
ラチアは泣き笑いの狂気の形相になっていた。
「ははっ! ははははっ! ……これが、これが、狂わずにいられるかぁー!」
ラチアはポケットに入れていたメモを取り出して握りつぶすと思いっきり壁に投げつけた。
ラチアの狂気があまりにも恐ろしくてラヴィの足が竦む。
ゆらりと立ち上がったラチアが怯えて耳を垂らしているラヴィを冷たい目で見下ろして命令した。
「……帰れ」
「え?」
「山へ帰れ。そして二度と俺の前に姿を現すな」
今のラチアは誰よりも怖かった。
里の人間よりも――あの赤竜よりも。
怖い。
怖い。
怖い。
本当なら、今すぐ逃げ出したい。
でも、言われた内容がラヴィには素直に受け入れられるようなものではなかった。
「ど、どうしたの? 急に」
「俺はオマエが嫌いなんだ。もう顔も見たくない……だから、山へ帰れ」
「う、嘘……だよね?」
「嘘じゃない」
「嘘だ! 嘘だよ! そんな言葉聞きたくないよ!」
信じられない。
信じたくなない言葉。
ラヴィは怖さも忘れてそれを全身で否定し、拒絶した。
「嘘じゃない! オマエなんか大嫌いだ! 早くここから出て行け!」
抜き身の刃物のような言葉を再びラヴィに突きつけてラチアは睨んだ。
「イヤだよ!」
ラヴィは涙目になりながら唇を噛んでその視線を睨み返した。
無言の睨み合いが続いて、やがてラチアは視線を緩めて項垂れた。
「これが緑眼兎の呪いか……ははっ、言い伝えは本当だった」
「何……言ってるの?」
「知らないのか。オマエは《緑眼兎》と呼ばれる特別なアニオンだ。緑眼兎は飼い主に絶望を与えて喜ぶ。……言い伝えでは、そうなっている」
「ボクが……その緑眼兎だっていうの?」
怪訝な顔で訊き返すラヴィにラチアは自虐的な笑みを浮かべてみせた。
「ラヴィ、俺は今絶望している。緑眼兎は飼い主の絶望を喜ぶらしいから今のオマエはさぞ嬉しいのだろう? ほら、喜べよ。俺はこんなにも絶望しているんだ。嬉しそうに笑うがいい!」
「全然意味わかんないよ! ボク、マスターが絶望したら嬉しくないよ! 悲しいよ!」
「そんなわけあるか!」
「悲しいよ! だって、ボクは、ボクは、マスターのことが……」
ラヴィの言葉を聞き終える前にラチアは掌を突き出してラヴィの告白を止めた。
「もういい……出て行け」
「マスター、聞いて。ボクは――」
「出て行けぇー!」
ラチアは口角が切れるほど険しい憤怒の形相で叫んだ。
それはとても怖かった。
でもそれ以上に、そんなこと名をぶつけられることが悲しかった。
これ以上こんな悲しい言葉をぶつけられたくなんてなかった。
だから……ラヴィは逃げた。
胸が張り裂けそうなくらいの悲しみを抱えてラヴィは泣きながら家を出た。
家の外は真っ暗で、
闇が凝縮したように黒くて、
星もなくて、
ラヴィの心を癒すものが何もなかった。
そんな無情な空から感情のない雪が降ってきた。
それはこの冬初めて雪だった。
赤竜との戦いでラチアは身体的にもプライド的にもずたずたに傷つけられたからだ。
ラヴィに助けられたこともラチアの心を重くしていた。
目と引き替えで赤竜から解放されたラチアは洞窟を出てすぐ気まずそうに「すまなかったな……ありがとう」とラヴィに謝辞を述べた。
ラヴィは少し照れながら「気にしないでよマスター。ボクはマスターのお役にたてたことが嬉しいんだ」と健気に笑ったのだけれどラチアにはそんな気遣い余計に辛かった。
満身創痍だったラチアは火山の麓の宿屋で二日間寝込み、その後家に帰って来るなり赤竜の爪の加工に取りかかった。
赤竜の爪を加工するのはひどく苦労した。
爪に鑿を打ち込もうとしたらキンッと弾き返されて刃は欠けた。
どうやら強い衝撃は反射する性質を持っているらしい。
新しい鑿でゆっくりじわじわと爪を圧してゆくと、ようやく鑿の刃が爪に食い込んだ。
緩やかに力をかけたときだけ赤竜の爪は反発しないようだ。
他の材料では有り得ない特性を持つ赤竜の爪は靴のヒールにするには最適の材料だった。
歩くくらいの緩い衝撃ならその力を分散吸収してくれる。
その一方で、走った場合にかかる強い衝撃は反発して体をバネのように押し上げてくれる。
慣れが必要だろうが、この靴を履いて走ればきっと信じられないほどの早さで走ることが可能だろう。
こうして加工をしてみることでラチアはようやく理解した。
こんな特性を持つ爪に向かって思いっきり剣をぶつけたら衝撃がそのまま反射されて、どんな名刀でも容易く折れてしまう。
実際ラチアの剣は折られた。
おそらく牙も同じ性質を持っているのだろう。
「その存在だけでも無敵に近いのに、武装破壊の特性がある爪と牙か……剣士じゃどう足掻いても勝てない相手だったんじゃないか。くそっ! くそっ! くそっ!」
そんなふうに愚痴をこぼしながら作業を続けて、ようやく一対のヒールを作り上げたときには夕方になっていた。
一日中鑿を握っていたせいで手の痺れがなかなか抜けない。
椅子に体を預けてぐったりとしているラチアにラヴィが水で濡らしたタオルを手渡した。
「ずいぶん慎重に削ってたね」
「慎重にもなるだろ。もしこれで加工に失敗したら、またあの赤竜のところに行かなきゃならないんだぞ? 俺は二度とアイツと会いたくない。それこそいくら命があっても足りない」
「でも、よかったねマスター。これで残る部分は一つだけだよ」
「あぁ。でも、次の材料が《青竜の背びれ》とか、《黒竜の鼻毛》とかだったら、さすがに作るのを諦めてしまいそうだ」
「でも、作るんだよね? ……姫様のために」
受け取ったタオルを目の上に乗せて休んでいたラチアはしばらく何も応えはしなかったが、ゆるい溜息を吐いてから小さな声で言った。
「……まぁな」
ラチアのその答えに、ラヴィのちくりと胸が痛んだ。
きゅんきゅんした痛みではなく何かが刺さったような鋭い痛み。
たぶんこの痛みはいくらラチアになでなでされても和らがないって事をラヴィは理解できるようになっていた。
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作業小屋を閉めてふたりが母屋に戻ると、いつの間にか扉の内側に見慣れた封筒が投げ込まれていた。
「来たか」
玄関マットの上に置かれている茶色い封筒はラヴィにも見覚えがあった。
解読メモが入れられている封筒だ。
ラチアは軽く緊張した顔で中に入っていたメモを読んだ。
「……よし。これが本当に最後の行程になるらしいな。全文の解読が終了したと書いてある」
「最後の材料って何なの?」
また赤竜クラスの怪物が相手だとさすがに厳しい。
そんな相手で無いことを祈りつつラチアに訊くと……、
「……? どうしたの、マスター。顔色悪いよ!?」
メモを読んでいたラチアの顔が真っ青になって強ばっていた。
「これが……」
動揺したラチアの手が小刻みに震えている。
「これが、最後の材料……だと?」
「え? もしかして、本当にまた竜が相手なの!?」
予想していた最悪の展開になったのかと驚いてラチアの太ももに手を置くとラチアはゆっくり視線を落としてラヴィを見つめた。
驚愕に見開かれたラチアの目がラヴィの顔に止まって動かない。
「え? なに? どうしたの?」
ラチアはそれに応えずに首を横に振った。
「……無理だ。そんなの……俺には、無理だ。できるわけがない」
ラチアが泣きそうな声で口を戦慄かせている。
「マ、マスター!? 本当にどうしたの? 大丈夫? なんて書いてあったの!?」
ラチアが赤竜と対戦した時よりも怯えた顔で首を横に振ってラヴィを見つめながら「無理だ」と繰り返す。その様子は明らかに尋常じゃない。
「マスターしっかり! 落ち着こう。ね?」
とにかく落ち着かせようとラヴィはラチアの背を押してテーブルに着かせて水を飲ませた。
それでもラチアは起きたまま悪夢に苛まされているかのように怯えた顔をして、度々ラヴィを見ては首を振っている。
「ね、マスター。何が書いてあったの? また竜なの? それとも見つけにくいもの?」
「見つけ……にくい? そうか! まだ、限定しなくてもいいんだ。他にも……」
「マスター?」
ラチアは幽鬼のようにふらりと外へ出ようとした。
見るからに危なっかしい足取り。
心配でラチアの前に回り込んだラヴィが両手を広げて止めた。
「今から外に出るの? よしたほうがいいよ。もうすぐ日が落ちるし、疲れているみたいだし、赤竜さんのときの怪我も治ってないし、ね、明日にしよう。ね、ね? 今日はもう休もう!?」
「大丈夫だ。大丈夫、俺がなんとかする」
微妙に噛み合わない返事をしてラチアはラヴィを横にどかして強引に外に出た。
「じゃ、ボクも行く!」
ラヴィがいつものポシェットを肩に掛けてついて行こうとしたが「来るな。王都に行って情報を集めてくるだけだ」とラヴィの同行を拒否した。
「別に材料探しの旅をするわけじゃない。王都で情報を集めてくるだけだ。だから来るな」
「そう……なの?」
「ああ」
「本当に……大丈夫? 明日にしたほうが……」
ふらふらと歩くラチアの精神状態が心配で後ろを離れられずにいるとラチアは振り返ってしゃがみ、ラヴィと目線の高さを合わせた。
「……オマエは本当に優しいな」
無理に平気なふうを装って笑顔を作っているラチア。
ラチアは何かを隠している。隠さなければならない《何か》が、さっき届けられたメモに書いてあったのは明白だ。
でも、それが何なのかなんて分からない。
「マスター……」
ラヴィはラチアのズボンのポケットに目をやった。
その中にはさっきのメモが入っている。
できるなら、そこからメモを奪って内容を知りたい。
でも、それをしたらラチアが本気で怒りそうな気がして手が伸ばせなかった。
「どうしても、今からじゃなきゃダメ……なの?」
「あぁ。明日の夜には帰ってくるから。な? だから心配しないで待っててくれ」
そう言ってラチアはラヴィの頭を撫でた。
ラヴィはそれ以上何も言えなくなって沈みかけた夕日の中に消えてゆくラチアを見送った。
もう二度とラチアに逢えなくなるような。
そんな予感がしたけれど引き止められなかった。
************
ラヴィは家に戻って棚のカゴからパンを一個だけ取りだしてテーブルに着いた。
ラチアのいない夜を過ごすには、どれくらいぶりだろう。
ひとりきりの夜を過ごすのは何時ぶりだろう。
久しく感じることの無かった胸の痛みがラヴィの胸をしめつける。
何も食べる気がおきなくてラヴィは籠の中にパンを戻し、寝床にしている箱の中に潜り込んで丸くなった。
『マスター早く帰ってこないかな……』
そんなことを考えているうちに段々と睡魔の息吹が近くに感じられるようになってラヴィは静かに寝息をたてはじめた。
日が変わり、その日の太陽が山間に沈む。
夕食を一緒に食べようと思ってラヴィは何も食べずにラチアの帰りを待っていた。
お腹が空きすぎてパンを一欠片だけつまみ食いしたけれど、それ以上は食べなかった。
『遅いな……。遅いな……』
何度も家の外に出て首を長くして耳を立てたけれどラチアは帰ってこなかった。
いつもなら寝ている時間になって、ようやくラチアは帰ってきた。……憔悴しきった青白い顔で。
「マスター!?」
覚束ない足取りでよろよろと家の中に入ってきたラチアは駆け寄ってきたラヴィを見て泣きそうな顔をした。
「え? どうしたの? ね、マスター! マスターってば!?」
ラチアは血の気が失せた顔でじっとラヴィを見続け、溢れ出そうになる嗚咽を外に漏らさないように歯を食いしばっている。
明らかにラチアの様子が昨日よりもひどくなっていた。
そんなラチアに『何かしてあげなきゃ』と思うけれど何をしてあげればいいのかラヴィには分からない。
ラヴィが対応に困っててちてちと耳の毛繕いを始めていたらラチアがラヴィの肩に両手を置いた。
痙攣するように震えるラチアの手がラヴィの小さな肩の上を滑り、ラヴィの首輪を包むように両手で輪を作った。
「マスター?」
ゆっくりと首を圧迫してくるラチアを不安そうに見上げている。
「……くっ!」
ラヴィの首に手をかけていたラチアは短い苦悶の声を出して手を離すと、崩れるように膝をついて項垂れた。
「……やめだ」
「え? なに?」
「靴を作るのは……やめだ」
蹲って床に額を擦りつけたラチアが肩幅の広い背中を振るわせながら言った。
ラヴィはその言葉が信じられなかった。
そんな言葉がラチアの口から出たこと自体が異常だ。
靴作りをやめる?
どうして?
なぜ?
姫様のためにこれまで頑張ってきたのに。
強い想いがあったから、殺されることも覚悟して赤竜さんのところにまで行ったのに。
命を懸けてでも叶えたいことだったんじゃないの?
「嘘……だよね。ね、マスター?」
「本当だ。《神代の遺物》の靴を作るのは……もう、諦める」
一度言葉にしたことで気持ちが固まったのかラチアはさっきよりもハッキリと答えた。
「どうして!? ここまで一緒に頑張ってきたのに!」
「うるさい! もうそれ以上言うな!」
ラチアが怒鳴ったのでラヴィは驚き飛び上がって後退った。
……けど、ラチアが蹲ったまま床に爪を立てて苦しそうに呻いているのを見ると、怖さよりも心配のほうが強くなってきて、おずおずと再びラチアの側に寄ってラチアの背に手を置いた。
「マスター。ねぇマスター。本当に変だよ、おかしいよ。どうしたの?」
ラヴィの言葉にラチアは自嘲するように口元を歪ませた。
「ふっ……ふふふ……あぁそうだな、俺は変に……いや、もう、狂っているのかもしれない」
「――っ!?」
頭を上げたラチアの顔を見てラヴィは息を呑んだ。
ラチアは泣き笑いの狂気の形相になっていた。
「ははっ! ははははっ! ……これが、これが、狂わずにいられるかぁー!」
ラチアはポケットに入れていたメモを取り出して握りつぶすと思いっきり壁に投げつけた。
ラチアの狂気があまりにも恐ろしくてラヴィの足が竦む。
ゆらりと立ち上がったラチアが怯えて耳を垂らしているラヴィを冷たい目で見下ろして命令した。
「……帰れ」
「え?」
「山へ帰れ。そして二度と俺の前に姿を現すな」
今のラチアは誰よりも怖かった。
里の人間よりも――あの赤竜よりも。
怖い。
怖い。
怖い。
本当なら、今すぐ逃げ出したい。
でも、言われた内容がラヴィには素直に受け入れられるようなものではなかった。
「ど、どうしたの? 急に」
「俺はオマエが嫌いなんだ。もう顔も見たくない……だから、山へ帰れ」
「う、嘘……だよね?」
「嘘じゃない」
「嘘だ! 嘘だよ! そんな言葉聞きたくないよ!」
信じられない。
信じたくなない言葉。
ラヴィは怖さも忘れてそれを全身で否定し、拒絶した。
「嘘じゃない! オマエなんか大嫌いだ! 早くここから出て行け!」
抜き身の刃物のような言葉を再びラヴィに突きつけてラチアは睨んだ。
「イヤだよ!」
ラヴィは涙目になりながら唇を噛んでその視線を睨み返した。
無言の睨み合いが続いて、やがてラチアは視線を緩めて項垂れた。
「これが緑眼兎の呪いか……ははっ、言い伝えは本当だった」
「何……言ってるの?」
「知らないのか。オマエは《緑眼兎》と呼ばれる特別なアニオンだ。緑眼兎は飼い主に絶望を与えて喜ぶ。……言い伝えでは、そうなっている」
「ボクが……その緑眼兎だっていうの?」
怪訝な顔で訊き返すラヴィにラチアは自虐的な笑みを浮かべてみせた。
「ラヴィ、俺は今絶望している。緑眼兎は飼い主の絶望を喜ぶらしいから今のオマエはさぞ嬉しいのだろう? ほら、喜べよ。俺はこんなにも絶望しているんだ。嬉しそうに笑うがいい!」
「全然意味わかんないよ! ボク、マスターが絶望したら嬉しくないよ! 悲しいよ!」
「そんなわけあるか!」
「悲しいよ! だって、ボクは、ボクは、マスターのことが……」
ラヴィの言葉を聞き終える前にラチアは掌を突き出してラヴィの告白を止めた。
「もういい……出て行け」
「マスター、聞いて。ボクは――」
「出て行けぇー!」
ラチアは口角が切れるほど険しい憤怒の形相で叫んだ。
それはとても怖かった。
でもそれ以上に、そんなこと名をぶつけられることが悲しかった。
これ以上こんな悲しい言葉をぶつけられたくなんてなかった。
だから……ラヴィは逃げた。
胸が張り裂けそうなくらいの悲しみを抱えてラヴィは泣きながら家を出た。
家の外は真っ暗で、
闇が凝縮したように黒くて、
星もなくて、
ラヴィの心を癒すものが何もなかった。
そんな無情な空から感情のない雪が降ってきた。
それはこの冬初めて雪だった。
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当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
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