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ラチアの家を飛び出したラヴィは巣の中で膝を抱えてずっと泣いていた。
泣いている間は何も考えることができなかった。
……だから頑張って泣いた。
考えるのが辛かったから。
それでも三日目の昼には涙が涸れ果てて泣けなくなった。
泣き疲れて放心状態になったラヴィは何もかもがどうでもよくなった。
空っぽな心。
虚ろな瞳。
投げ捨てられたヌイグルミのようにラヴィは全身の筋肉を弛緩させて横たわっている。
空白となった心に、虚空を見つめる瞳の奥に、ぽかりぽかりと浮かんでくる細切れの映像。
それらは全部ラチアと過ごした楽しい日々の思い出ばかりだった。
どうしてボク、急に嫌われたんだろう?
完全な虚脱状態になったことでラヴィはようやく冷静になって考えられるようになった。
楽しかった日々が心に浮かぶほど、いろんな疑問も浮かび上がってきた。
どうしてマスターはボクを嫌いになったの?
マスターはボクのことを緑眼兎だと言っていたっけ……。
ボクが緑眼兎だからマスターはボクを嫌うようになった?
でも、ボクが緑眼兎だってのはずっと前から知っているような口ぶりだった。
だから、ボクが嫌われたのは多分そこじゃない。
ボクが嫌われた理由って何?
マスターがボクを嫌いになったのはいつ?
ラヴィはラチアの様子が変になったタイミングを思い出した。
そうだ、靴の最後の材料を書いたあのメモを見てからマスターはおかしくなった。
きっとあれが原因だよ。
あれには何が書かれてたんだろう?
それがわかれば……それがもし、ボクの力で解決できるようなことだったら、
もう一度マスターがボクを受け入れてくれるんじゃないかな?
そんな希望、なんとかできるかもしれないって願望が頭に浮かぶ。
段々とラヴィの目に光が戻り始めた。
何もしないで全部諦めるなんてできないよ。
何も出来ないとしても、あのメモに何が書いてあったのかを知らなきゃ諦めきれない。
ラヴィは飛び跳ねるように起き上がって巣を出ると、この三日で降り積もった雪に小さな足跡をつけながら山を下り始めた。
************
ラチアの家に近づいた時にはもう夕方近くになっていた。
ラチアはあれから一歩も外に出ていないらしく、家の前に積もった雪には足跡一つない。
ラヴィは慎重に足音を忍ばせて家に近づいて扉の隙間から家の中の様子を窺った。
ラチアは…………いた。
ラチアはリビングのテーブルに突っ伏して眠っていた。
三日前よりもさらに憔悴した顔を横に向けて苦しそうなイビキをかいている。
テーブルには幾つもの空になった酒瓶が乱雑に置かれていてテーブルの下には空になった酒樽が転がっていた。
扉の隙間から酒気が漂ってきていてラヴィの敏感な鼻を刺激する。
『マスター……』
ラヴィは音をたてないように気をつけながらそっと扉を押して家の中に入った。
中に入ると濃厚な酒の臭いが充満していて、それだけで酔いそうになる。
家の中はたった三日でかなり荒れていた。
食器棚から木製の皿やボウルが落ちて転がっている。
暖炉の火はとうに消えていて室内なのに外と同じくらいに寒い。
『このまま寝てたら風邪ひいちゃうよ』
ラヴィは寝室に入ってラチアのベッドから毛布をとって、そっとラチアに被せた。
無精鬚の生えたラチアの寝顔を息がかかるくらいの近くから眺めて……ラヴィの胸はきゅんと疼いた。
三日の間会わなかっただけなのに、ずいぶん会っていなかったような気がする。
ラチアはあれから食事も摂らずにずっと酒ばかりを飲んでいたのだろう。
窶れた寝顔がひどく痛々しくて、そんなラチアを見ているだけでラヴィは泣きたくなってきた。
じわりと潤み始めた目を擦ってラヴィは床の上に目を向けた。
ラチアはあの時メモを握りつぶして壁に叩きつけていたから、今も……。
『あった。これだ……』
床に転がっている酒樽の側にくしゃくしゃになったメモが落ちていた。
人間のような指のないラヴィはメモを床に押しつけて丁寧に広げた。
メモにはまだラヴィの知らない単語がいくつかあったけれどメモの序文はどうやら加工手順のようで、文字が読めてもラヴィには何の事だか分からなかった。
でも、肝心な材料はちゃんと読むことができた。
【《履き口》 使用素材 緑眼兎の心臓のなめし革】
『…………え?』
メモの中で少しだけ大きな字で書かれている一行を読んでラヴィの思考が一瞬停止した。
もう一度、ゆっくり文字を目で追った。
『緑眼兎って……つまりボク? ボクの心臓が……最後の材料?』
読んでいたメモから目を離したラヴィは全身の力が抜けてへたりと座り込んだ。
愕然とした顔でラヴィはラチアを見た。
ラチアは今も夢の中でも苦しんでいるようで眉間に深いシワを刻んで眠っている。
『そっか。それでマスターは…………だから、ボクを……』
ラチアがこのメモを読んで豹変した理由がようやくわかった。
命に代えてでも叶えたい願いがあるのに、もう少しでその願いが叶うのに、
その願いを叶える場合。
ラチアはラヴィを殺さなくちゃいけない。
その願いを諦めた場合。
ラチアは姫様が他国に売られるのを止められなくなる。
どちらを選んでもラチアの心には大きな傷が残る。
でも、ラチアはどちらかを選ばなくてはいけなかった。
王女か――、
ラヴィか――、
そして――……ラチアは選んだ。
「マスター……。マスターは姫様より、ボクを……ボクを選んでくれたんだ……」
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しいっ!
「命を懸けてまで護ろうとしていた姫様よりも、マスターはボクを選んでくれたんだ……」
それがたまらなく嬉しかった。
「ずるいよ……。ずるいよマスター。こんなにボクのことを想ってくれているのに一言も言葉にしてくれないなんて……。ボクを嫌いだって、嘘までついて……」
ラヴィの緑眼に熱い涙が溢れた。
嬉しさが胸の中に湧き上がり、
空っぽだった心は温かい優しさに埋め尽くされ、
痛みを感じるほどに、はちきれそうになるくらいに、ラヴィの心は満たされた。
ラヴィは立ち上がってラチアの側に来ると、無精ひげの生えた頬にそっと唇をあてた。
「ありがとうマスター。ボクの胸の中、マスターがくれたあったかい気持ちで溢れてるよ。とてもとても幸せだよ。ボク、マスターに出会えて本当によかった。マスターに会えたからボクはこんなに幸せになれた。もう充分だよ……だから今度はマスターが幸せになってね」
ラヴィは名残惜しそうにラチアから離れて、床に転がっていた木の皿を拾い上げるとコリコリと囓り始めた。
************
「……んぁ?」
ラチアはとろりとした酔眼を開いて目を左右に動かした。
いつも通りの家の中。
目の前にある酒瓶に映っているのは情けないほどやつれた自分の顔。
「誰か……居たような気がしたが……つっ!」
頭を上げたとたんに金型で締めつけられたような激しい頭痛を感じて息を詰まらせた。
「ひでぇ悪酒だ……。頭が割れる……」
眉間に指を押し当てて顔をしかめた。
二日酔いで頭が痛い。酒で焼けた喉が痛い。
でも、それ以上に胸の中が痛む。
ラチアは酒を探した。
酔わなければ気が狂ってしまいそうだったから。
あの時、解読メモを読んだ瞬間、ラチアは絶望の淵へと突き落とされた。
求められている材料は【緑眼兎の心臓のなめし革】。
それは自分の目の前にあるモノだった。
だからこそ手を伸ばせなかった。
『ラヴィの他に緑眼兎がいれば、俺は心を鬼にしてでもソイツを……』
そう思って王都の奴隷登記所へ行って他に緑眼兎の登記があるか探した。
……けれど他に緑眼兎はいなかった。
アルベルトが家に来たとき、奴は確かこう言っていた。
《あのタイプのウサギは非常に珍しい。一説によると、この世に存在するのは常に一個体のみで、その個体が死んだ後にようやく別の個体が現れると言われているくらいだ》
『そんなはずはない。そんなのは嘘だ』
ラチアはそう思い込もうとしていたのに登記所の所長は「いえ、そのとおりですよ。大陸のどこかで一匹緑眼兎を見かければ、その個体が死亡するまで次の個体が現れない言われています。根拠は定かではありませんが、それくらい緑眼兎は珍しい変種なんです」とあっさり認めた。
どうしてもそれを認めたくなかったラチアは登記所にあった登記リストを片っ端から調べてみた。
けれど所長の言う通り緑眼兎の登記があったのはたった三件で、一件は三十八年前に死亡届が出されていて、もう一件のほうも五年前に死亡届が出されていた。
リストの中にある緑眼兎で現在も存命中なのはラヴィだけだった。
絶望に打ちひしがれて帰路についたラチア。
それから先の事なんて、もう頭の中がぐるぐるしていて覚えていない。
……思い出したくもない。
段々と頭が覚醒して思考が動くようになるほどラチアは胸が苦しくなってきた。
酒を探すため顔を上げてテーブル上に目を這わせたが空き瓶しか見あたらない。
新しい酒瓶を戸棚から持ってこようとして痛みに堪えながら体を起こすと肩から毛布が落ちた。
ん? いつ俺は毛布を持ってきた?
そう思いながら緩慢な動きで毛布を拾おうとしたとき、テーブルにラヴィがいつも使っていた木皿が乗っているのに気がついた。
なぜ……ここに?
頭痛を堪えながら木皿に手を伸ばすと木皿にはあの解読メモが乗っていた。
嫌な予感がした。
メモを取り上げると皿には囓られた跡があった。
それは手が人間のとは違ってペンが持てないラヴィがコリコリと歯形で綴った短いメッセージ。
《 マスター いままで ありがとう 》
「――っ!?」
それはまるで遺言のようだった。
嫌な予感が言いようのない不安へと変わった。
ラヴィがここに来てこのメモを読んだ。
そして、このメッセージを残して消えた……。
椅子を倒して急に立ち上がったラチアは二日酔いの激しい痛みで一瞬意識が遠のきかけた。
歯を食いしばって気力で意識を繋ぎ止めると、ラチアは転びそうになりながら家の扉を開けた。
家の前には雪が降り積もっていて、その上に小さな足跡がY字を描いていた。
枝分かれしているY字の一方は山側の茂みを抜けてこちらに向かっていて、もう一方はこちらから里へと下りる方向へと向かっている。
ラヴィはいったい何をしようとしているのか……。
段々と明瞭になってきたラチアの思考が最悪の予想を弾き出した。
「ま、まさか……!?」
ラチアは外套も羽織らずに家を出て小さな足跡を追いかけた。
泣いている間は何も考えることができなかった。
……だから頑張って泣いた。
考えるのが辛かったから。
それでも三日目の昼には涙が涸れ果てて泣けなくなった。
泣き疲れて放心状態になったラヴィは何もかもがどうでもよくなった。
空っぽな心。
虚ろな瞳。
投げ捨てられたヌイグルミのようにラヴィは全身の筋肉を弛緩させて横たわっている。
空白となった心に、虚空を見つめる瞳の奥に、ぽかりぽかりと浮かんでくる細切れの映像。
それらは全部ラチアと過ごした楽しい日々の思い出ばかりだった。
どうしてボク、急に嫌われたんだろう?
完全な虚脱状態になったことでラヴィはようやく冷静になって考えられるようになった。
楽しかった日々が心に浮かぶほど、いろんな疑問も浮かび上がってきた。
どうしてマスターはボクを嫌いになったの?
マスターはボクのことを緑眼兎だと言っていたっけ……。
ボクが緑眼兎だからマスターはボクを嫌うようになった?
でも、ボクが緑眼兎だってのはずっと前から知っているような口ぶりだった。
だから、ボクが嫌われたのは多分そこじゃない。
ボクが嫌われた理由って何?
マスターがボクを嫌いになったのはいつ?
ラヴィはラチアの様子が変になったタイミングを思い出した。
そうだ、靴の最後の材料を書いたあのメモを見てからマスターはおかしくなった。
きっとあれが原因だよ。
あれには何が書かれてたんだろう?
それがわかれば……それがもし、ボクの力で解決できるようなことだったら、
もう一度マスターがボクを受け入れてくれるんじゃないかな?
そんな希望、なんとかできるかもしれないって願望が頭に浮かぶ。
段々とラヴィの目に光が戻り始めた。
何もしないで全部諦めるなんてできないよ。
何も出来ないとしても、あのメモに何が書いてあったのかを知らなきゃ諦めきれない。
ラヴィは飛び跳ねるように起き上がって巣を出ると、この三日で降り積もった雪に小さな足跡をつけながら山を下り始めた。
************
ラチアの家に近づいた時にはもう夕方近くになっていた。
ラチアはあれから一歩も外に出ていないらしく、家の前に積もった雪には足跡一つない。
ラヴィは慎重に足音を忍ばせて家に近づいて扉の隙間から家の中の様子を窺った。
ラチアは…………いた。
ラチアはリビングのテーブルに突っ伏して眠っていた。
三日前よりもさらに憔悴した顔を横に向けて苦しそうなイビキをかいている。
テーブルには幾つもの空になった酒瓶が乱雑に置かれていてテーブルの下には空になった酒樽が転がっていた。
扉の隙間から酒気が漂ってきていてラヴィの敏感な鼻を刺激する。
『マスター……』
ラヴィは音をたてないように気をつけながらそっと扉を押して家の中に入った。
中に入ると濃厚な酒の臭いが充満していて、それだけで酔いそうになる。
家の中はたった三日でかなり荒れていた。
食器棚から木製の皿やボウルが落ちて転がっている。
暖炉の火はとうに消えていて室内なのに外と同じくらいに寒い。
『このまま寝てたら風邪ひいちゃうよ』
ラヴィは寝室に入ってラチアのベッドから毛布をとって、そっとラチアに被せた。
無精鬚の生えたラチアの寝顔を息がかかるくらいの近くから眺めて……ラヴィの胸はきゅんと疼いた。
三日の間会わなかっただけなのに、ずいぶん会っていなかったような気がする。
ラチアはあれから食事も摂らずにずっと酒ばかりを飲んでいたのだろう。
窶れた寝顔がひどく痛々しくて、そんなラチアを見ているだけでラヴィは泣きたくなってきた。
じわりと潤み始めた目を擦ってラヴィは床の上に目を向けた。
ラチアはあの時メモを握りつぶして壁に叩きつけていたから、今も……。
『あった。これだ……』
床に転がっている酒樽の側にくしゃくしゃになったメモが落ちていた。
人間のような指のないラヴィはメモを床に押しつけて丁寧に広げた。
メモにはまだラヴィの知らない単語がいくつかあったけれどメモの序文はどうやら加工手順のようで、文字が読めてもラヴィには何の事だか分からなかった。
でも、肝心な材料はちゃんと読むことができた。
【《履き口》 使用素材 緑眼兎の心臓のなめし革】
『…………え?』
メモの中で少しだけ大きな字で書かれている一行を読んでラヴィの思考が一瞬停止した。
もう一度、ゆっくり文字を目で追った。
『緑眼兎って……つまりボク? ボクの心臓が……最後の材料?』
読んでいたメモから目を離したラヴィは全身の力が抜けてへたりと座り込んだ。
愕然とした顔でラヴィはラチアを見た。
ラチアは今も夢の中でも苦しんでいるようで眉間に深いシワを刻んで眠っている。
『そっか。それでマスターは…………だから、ボクを……』
ラチアがこのメモを読んで豹変した理由がようやくわかった。
命に代えてでも叶えたい願いがあるのに、もう少しでその願いが叶うのに、
その願いを叶える場合。
ラチアはラヴィを殺さなくちゃいけない。
その願いを諦めた場合。
ラチアは姫様が他国に売られるのを止められなくなる。
どちらを選んでもラチアの心には大きな傷が残る。
でも、ラチアはどちらかを選ばなくてはいけなかった。
王女か――、
ラヴィか――、
そして――……ラチアは選んだ。
「マスター……。マスターは姫様より、ボクを……ボクを選んでくれたんだ……」
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しいっ!
「命を懸けてまで護ろうとしていた姫様よりも、マスターはボクを選んでくれたんだ……」
それがたまらなく嬉しかった。
「ずるいよ……。ずるいよマスター。こんなにボクのことを想ってくれているのに一言も言葉にしてくれないなんて……。ボクを嫌いだって、嘘までついて……」
ラヴィの緑眼に熱い涙が溢れた。
嬉しさが胸の中に湧き上がり、
空っぽだった心は温かい優しさに埋め尽くされ、
痛みを感じるほどに、はちきれそうになるくらいに、ラヴィの心は満たされた。
ラヴィは立ち上がってラチアの側に来ると、無精ひげの生えた頬にそっと唇をあてた。
「ありがとうマスター。ボクの胸の中、マスターがくれたあったかい気持ちで溢れてるよ。とてもとても幸せだよ。ボク、マスターに出会えて本当によかった。マスターに会えたからボクはこんなに幸せになれた。もう充分だよ……だから今度はマスターが幸せになってね」
ラヴィは名残惜しそうにラチアから離れて、床に転がっていた木の皿を拾い上げるとコリコリと囓り始めた。
************
「……んぁ?」
ラチアはとろりとした酔眼を開いて目を左右に動かした。
いつも通りの家の中。
目の前にある酒瓶に映っているのは情けないほどやつれた自分の顔。
「誰か……居たような気がしたが……つっ!」
頭を上げたとたんに金型で締めつけられたような激しい頭痛を感じて息を詰まらせた。
「ひでぇ悪酒だ……。頭が割れる……」
眉間に指を押し当てて顔をしかめた。
二日酔いで頭が痛い。酒で焼けた喉が痛い。
でも、それ以上に胸の中が痛む。
ラチアは酒を探した。
酔わなければ気が狂ってしまいそうだったから。
あの時、解読メモを読んだ瞬間、ラチアは絶望の淵へと突き落とされた。
求められている材料は【緑眼兎の心臓のなめし革】。
それは自分の目の前にあるモノだった。
だからこそ手を伸ばせなかった。
『ラヴィの他に緑眼兎がいれば、俺は心を鬼にしてでもソイツを……』
そう思って王都の奴隷登記所へ行って他に緑眼兎の登記があるか探した。
……けれど他に緑眼兎はいなかった。
アルベルトが家に来たとき、奴は確かこう言っていた。
《あのタイプのウサギは非常に珍しい。一説によると、この世に存在するのは常に一個体のみで、その個体が死んだ後にようやく別の個体が現れると言われているくらいだ》
『そんなはずはない。そんなのは嘘だ』
ラチアはそう思い込もうとしていたのに登記所の所長は「いえ、そのとおりですよ。大陸のどこかで一匹緑眼兎を見かければ、その個体が死亡するまで次の個体が現れない言われています。根拠は定かではありませんが、それくらい緑眼兎は珍しい変種なんです」とあっさり認めた。
どうしてもそれを認めたくなかったラチアは登記所にあった登記リストを片っ端から調べてみた。
けれど所長の言う通り緑眼兎の登記があったのはたった三件で、一件は三十八年前に死亡届が出されていて、もう一件のほうも五年前に死亡届が出されていた。
リストの中にある緑眼兎で現在も存命中なのはラヴィだけだった。
絶望に打ちひしがれて帰路についたラチア。
それから先の事なんて、もう頭の中がぐるぐるしていて覚えていない。
……思い出したくもない。
段々と頭が覚醒して思考が動くようになるほどラチアは胸が苦しくなってきた。
酒を探すため顔を上げてテーブル上に目を這わせたが空き瓶しか見あたらない。
新しい酒瓶を戸棚から持ってこようとして痛みに堪えながら体を起こすと肩から毛布が落ちた。
ん? いつ俺は毛布を持ってきた?
そう思いながら緩慢な動きで毛布を拾おうとしたとき、テーブルにラヴィがいつも使っていた木皿が乗っているのに気がついた。
なぜ……ここに?
頭痛を堪えながら木皿に手を伸ばすと木皿にはあの解読メモが乗っていた。
嫌な予感がした。
メモを取り上げると皿には囓られた跡があった。
それは手が人間のとは違ってペンが持てないラヴィがコリコリと歯形で綴った短いメッセージ。
《 マスター いままで ありがとう 》
「――っ!?」
それはまるで遺言のようだった。
嫌な予感が言いようのない不安へと変わった。
ラヴィがここに来てこのメモを読んだ。
そして、このメッセージを残して消えた……。
椅子を倒して急に立ち上がったラチアは二日酔いの激しい痛みで一瞬意識が遠のきかけた。
歯を食いしばって気力で意識を繋ぎ止めると、ラチアは転びそうになりながら家の扉を開けた。
家の前には雪が降り積もっていて、その上に小さな足跡がY字を描いていた。
枝分かれしているY字の一方は山側の茂みを抜けてこちらに向かっていて、もう一方はこちらから里へと下りる方向へと向かっている。
ラヴィはいったい何をしようとしているのか……。
段々と明瞭になってきたラチアの思考が最悪の予想を弾き出した。
「ま、まさか……!?」
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