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第2話 帝国騎士の救いの手
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――あたたかい。
ぽたり、と額に落ちた水滴の感触で意識が浮上した。
まぶたを開けると、見慣れない天井が揺れていた。
「……ここ……どこ?」
喉が乾ききって、声が掠れている。
身体を起こそうとした瞬間、鋭い痛みが走って息が止まった。
「無理に動くな」
低くてよく響く声が、耳元で落ちてきた。
振り向くと、赤い髪の青年がいた。
炎みたいな髪色。
深紅の瞳。
鋭いのに、どこか寂しげな眼差し。
――あ。この人だ。
落ちるわたしを抱きとめてくれた、あの腕。
「君は、二日間眠っていた。意識を取り戻してくれて安心した」
青年は、わたしの額に乗ったタオルをそっと絞り直し、また置いた。
手つきがやたら丁寧で、不器用なくせに優しい。
「わたし……あなたを……知って……」
「覚えていないか?」
彼は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「俺はジョイア・バルバロッサ。エレジア帝国自由騎士だ。ジョイと呼んでくれて構わない」
ジョイ。
名前を繰り返すと、不思議と胸の奥が温かくなる。
けれど、同時に強烈な不安が押し寄せてきた。
「……わたし……どうして、ここに?」
「夜会のバルコニーから、君は落とされた。俺が受け止めなければ、命はなかった」
「お、落とされた……?」
言葉が喉でつかえる。
必死に思い出そうとしても、黒い靄がかかったみたいに記憶がぼやけている。
夜会の光、誰かの笑い、冷たい指――
そこまではある。でも、その先がどうしても繋がらない。
「君の身体には、落下の衝撃の痕が残ってる。記憶も、そのせいで混乱してるんだろう」
「……わたし、名前は……ルイン。ルイン・オルテンシア。それだけは……覚えてる」
それだけ。
本当に、それ以外が霞んでしまったようだった。
ジョイは静かに頷いた。
「ルイン。君は危険な状態だった。まずは休むことだ。記憶のことは俺が必ず助ける」
助ける――その言葉が胸に沁みた。
知らない場所で、知らない人のはずなのに、どうしてこんなに安心できるのか。
彼の瞳を見ていると、不思議と呼吸が落ち着いた。
「……ごめん。迷惑、かけてる……?」
「迷惑じゃない。むしろ……助けられてよかったと思ってる」
ジョイはわずかに目をそらし、照れたように息を吐いた。
その仕草が妙にかわいくて、胸がくすぐったくなる。
――そのとき。
部屋の扉を、ドンドンと乱暴に叩く音が響いた。
「ディーヴァ辺境伯! 開けていただきたい! ルイン様の件でお話があります!」
知らない男の声。
けれど、その人が口にした名前に、心臓が跳ねた。
ルイン“様”。
やっぱり、わたし……ただの女じゃない。
ジョイの表情が一瞬で険しくなる。
「……あいつらか」
「あいつら……?」
「ディアベル・コルサの使者だ。君を“捜している”らしい」
ディアベル――その名を聞いた瞬間、胸がざわついた。
怖い、冷たい、嫌悪、なにかが混ざった感情が一気に溢れる。
でも理由は思い出せない。
ただ、直感だけが叫んでいた。
――会いたくない。
「ジョイ……追い返して……お願い」
彼はわたしの手をそっと握り、短く頷いた。
「安心しろ。俺が絶対に守る」
その声は低く、鋼みたいに固い決意が宿っていた。
彼が扉の前まで歩き、冷たく言い放つ。
「ルインの所在は知らない。帰れ」
「ディーヴァ辺境伯……いや、ジョイア・バルバロッサ帝国自由騎士殿。
あの晩、あなたの目撃情報があり……侯爵令嬢ルイン様を匿っているとウワサになっているのです。コルサ議員が大変心配なさって――」
「黙れ」
ジョイの声が部屋に響いた。
普段の優しさとはまったく違う、騎士の顔。
「もし我が家に迎えていたとしても“あの男”に接触させる気はない。これ以上の越権行為は帝国自由騎士の特権により、そなたを誅罰に処す」
「くっ……処刑だと!? ふざけるな! 元老院に楯突くとは……議員が黙っていないぞ! 特権階級の自由騎士だろうが、元老院には逆らえないぞ! 覚えていろ!」
荒々しい足音が遠ざかっていく。
扉が静かになった瞬間、張り詰めていた息を吐いた。
ジョイが戻ってくる。
わたしの手をまた握り直してくれた。
「怖かったな。でも、大丈夫だ。俺がいる」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
どうしてなのか、自分でも分からない。
でも――この人になら、すべてを預けてもいいと思えた。
「ジョイ……わたし……」
言いかけたそのとき。
脳の奥に、鋭い閃光が走った。
「っ……あ……!」
「ルイン!?」
頭を抱える。
視界が白く弾け、誰かの声が脳裏をかすめた。
――“邪魔なんだよ、お前は”
――“落ちろ”
誰の声?
わたしに言っている、これは……だれ?
「ルイン! 大丈夫か、しっかりしろ!」
ジョイの手が肩を支える。
その温もりが、闇に溺れかけた意識を引き戻した。
「い……ま……誰かの声が……」
「声……?」
「わたしを……突き落とす時の……」
その言葉を聞いたジョイの瞳が、鋭く光った。
「思い出しかけているな……ルイン。大丈夫だ。全部、俺が明らかにする」
わたしは震える手で、ジョイの袖を掴んだ。
「ジョイ……離れないで」
「離れるわけない。君はもう、一人じゃない」
赤い瞳が真っ直ぐにわたしを射抜く。
その視線に胸が熱くなるのと同時に――ぞくりと背筋を冷たいものが走った。
さっき追い払ったはずの足音。
また、屋敷の外で聞こえた。
――誰かが、まだわたしを追っている。
ぽたり、と額に落ちた水滴の感触で意識が浮上した。
まぶたを開けると、見慣れない天井が揺れていた。
「……ここ……どこ?」
喉が乾ききって、声が掠れている。
身体を起こそうとした瞬間、鋭い痛みが走って息が止まった。
「無理に動くな」
低くてよく響く声が、耳元で落ちてきた。
振り向くと、赤い髪の青年がいた。
炎みたいな髪色。
深紅の瞳。
鋭いのに、どこか寂しげな眼差し。
――あ。この人だ。
落ちるわたしを抱きとめてくれた、あの腕。
「君は、二日間眠っていた。意識を取り戻してくれて安心した」
青年は、わたしの額に乗ったタオルをそっと絞り直し、また置いた。
手つきがやたら丁寧で、不器用なくせに優しい。
「わたし……あなたを……知って……」
「覚えていないか?」
彼は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「俺はジョイア・バルバロッサ。エレジア帝国自由騎士だ。ジョイと呼んでくれて構わない」
ジョイ。
名前を繰り返すと、不思議と胸の奥が温かくなる。
けれど、同時に強烈な不安が押し寄せてきた。
「……わたし……どうして、ここに?」
「夜会のバルコニーから、君は落とされた。俺が受け止めなければ、命はなかった」
「お、落とされた……?」
言葉が喉でつかえる。
必死に思い出そうとしても、黒い靄がかかったみたいに記憶がぼやけている。
夜会の光、誰かの笑い、冷たい指――
そこまではある。でも、その先がどうしても繋がらない。
「君の身体には、落下の衝撃の痕が残ってる。記憶も、そのせいで混乱してるんだろう」
「……わたし、名前は……ルイン。ルイン・オルテンシア。それだけは……覚えてる」
それだけ。
本当に、それ以外が霞んでしまったようだった。
ジョイは静かに頷いた。
「ルイン。君は危険な状態だった。まずは休むことだ。記憶のことは俺が必ず助ける」
助ける――その言葉が胸に沁みた。
知らない場所で、知らない人のはずなのに、どうしてこんなに安心できるのか。
彼の瞳を見ていると、不思議と呼吸が落ち着いた。
「……ごめん。迷惑、かけてる……?」
「迷惑じゃない。むしろ……助けられてよかったと思ってる」
ジョイはわずかに目をそらし、照れたように息を吐いた。
その仕草が妙にかわいくて、胸がくすぐったくなる。
――そのとき。
部屋の扉を、ドンドンと乱暴に叩く音が響いた。
「ディーヴァ辺境伯! 開けていただきたい! ルイン様の件でお話があります!」
知らない男の声。
けれど、その人が口にした名前に、心臓が跳ねた。
ルイン“様”。
やっぱり、わたし……ただの女じゃない。
ジョイの表情が一瞬で険しくなる。
「……あいつらか」
「あいつら……?」
「ディアベル・コルサの使者だ。君を“捜している”らしい」
ディアベル――その名を聞いた瞬間、胸がざわついた。
怖い、冷たい、嫌悪、なにかが混ざった感情が一気に溢れる。
でも理由は思い出せない。
ただ、直感だけが叫んでいた。
――会いたくない。
「ジョイ……追い返して……お願い」
彼はわたしの手をそっと握り、短く頷いた。
「安心しろ。俺が絶対に守る」
その声は低く、鋼みたいに固い決意が宿っていた。
彼が扉の前まで歩き、冷たく言い放つ。
「ルインの所在は知らない。帰れ」
「ディーヴァ辺境伯……いや、ジョイア・バルバロッサ帝国自由騎士殿。
あの晩、あなたの目撃情報があり……侯爵令嬢ルイン様を匿っているとウワサになっているのです。コルサ議員が大変心配なさって――」
「黙れ」
ジョイの声が部屋に響いた。
普段の優しさとはまったく違う、騎士の顔。
「もし我が家に迎えていたとしても“あの男”に接触させる気はない。これ以上の越権行為は帝国自由騎士の特権により、そなたを誅罰に処す」
「くっ……処刑だと!? ふざけるな! 元老院に楯突くとは……議員が黙っていないぞ! 特権階級の自由騎士だろうが、元老院には逆らえないぞ! 覚えていろ!」
荒々しい足音が遠ざかっていく。
扉が静かになった瞬間、張り詰めていた息を吐いた。
ジョイが戻ってくる。
わたしの手をまた握り直してくれた。
「怖かったな。でも、大丈夫だ。俺がいる」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
どうしてなのか、自分でも分からない。
でも――この人になら、すべてを預けてもいいと思えた。
「ジョイ……わたし……」
言いかけたそのとき。
脳の奥に、鋭い閃光が走った。
「っ……あ……!」
「ルイン!?」
頭を抱える。
視界が白く弾け、誰かの声が脳裏をかすめた。
――“邪魔なんだよ、お前は”
――“落ちろ”
誰の声?
わたしに言っている、これは……だれ?
「ルイン! 大丈夫か、しっかりしろ!」
ジョイの手が肩を支える。
その温もりが、闇に溺れかけた意識を引き戻した。
「い……ま……誰かの声が……」
「声……?」
「わたしを……突き落とす時の……」
その言葉を聞いたジョイの瞳が、鋭く光った。
「思い出しかけているな……ルイン。大丈夫だ。全部、俺が明らかにする」
わたしは震える手で、ジョイの袖を掴んだ。
「ジョイ……離れないで」
「離れるわけない。君はもう、一人じゃない」
赤い瞳が真っ直ぐにわたしを射抜く。
その視線に胸が熱くなるのと同時に――ぞくりと背筋を冷たいものが走った。
さっき追い払ったはずの足音。
また、屋敷の外で聞こえた。
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