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第4話 どうして婚約破棄されたのか
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薄く目を開けると、木壁に切り取られたやわらかい灯りが揺れていた。
胸の奥が、遠い悪夢を引きずるように重い。
「……また、同じ夢……?」
なぜかバルコニーから落ちる瞬間。
風を切る音。
手を伸ばしても掴めない誰かの背中。
けれど、その“誰か”の顔だけはどうしても思い出せない。
わたしは額に手を当てて、小さく息をつく。記憶の欠片はバラバラで、拾おうとするほど遠ざかっていく。
「起きたのか、ルイン」
低くやさしい声に顔を向けると、椅子に腰掛けて聖書を読んでいたジョイが、ページを閉じてこちらを見る。
炎のように揺らめく赤髪が、ランプの光で柔らかく照らされていた。
「……ジョイ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。君が眠っている間に、少し整理しておきたい情報があっただけだ」
いつも通りの落ち着いた声音。
なのに、わたしの胸は妙にざわついた。
「夢……また落ちるところで目が覚めたの」
ジョイの表情がわずかに揺れた。ほんの少しだけ眉を寄せ、それをすぐに隠す。
「無理に思い出そうとしなくていい。身体がまだ万全ではない」
「……でも、思い出さなきゃ。わたし、何があって、どうして……」
どうして自分の婚約が破棄されたのか。
どうして家から追われるように逃げて倒れていたのか。
なぜあの夜、誰かの手がわたしの腕を離したのか。……いえ、落とされたような気がする。確信はない。でも。
思い出せなくて……わからないことばかりだ。
ジョイはわたしの傍に来て、いつものように乱暴ではないのに確固たる動きで、そっと毛布を肩まで掛け直してくれた。
「焦るな。少なくともルイン、君を狙った連中が動き始めたのは確かだ」
「……狙う?」
「君が生きていたら困る奴らがいる、ということだ」
ジョイの赤い瞳が、一瞬だけ鋭い光を宿した。
でも次の瞬間には、いつも通り静かな微笑に戻っている。
――ジョイは、わたしの知らないことを知っている。
その気配は、ここへ連れて来られた初日から薄々感じていた。
けれど尋ねても、彼ははぐらかすか、「今は言えない」と優しく遮るだけ。
「ジョイ……わたし、何かやらかしたの? こんなに大騒ぎになるようなこと」
するとジョイは、ふっと苦笑に近い息を漏らした。
「やらかしたのは、ルインではなく――ルインの周囲の“敵”だ」
その声音には、どこか冷ややかな怒りのようなものが混じっていた。
わたしが震えるほどではない。けれど、彼をこんな表情にさせるほどの何かがあるのだ。
「敵……」
「ああ、ひとつだけ言えるのは、ルインは何も悪くない。むしろ――被害者だ」
「被害者……?」
「そうだ」
ジョイがわたしの手を取る。
温かく、大きく、指先まで確かに血が通った手。
「俺の父上――オルディネ将軍が、今日この屋敷に来る」
「え……ジョイのお父様が?」
帝国でも名を知らぬ者はいない将軍。
そんな人物が、なぜわたしのために?
「ルイン、今の君は『失踪』扱いになっているんだ」
「えっ、どうして……」
「ある元老院議員の仕業でね。だから、その日に周囲で“不自然な動き”が続いていると、俺が報告した」
ジョイはわたしの為に動いてくれていたんだ。嬉しい。
ということは、あの夢は……現実?
だとしたら、わたしが記憶を失った理由もその議員かもしれない。
「議員……?」
わたしの問いに、ジョイは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り――
やがて静かに続けた。
「覚えていないなら、それでいい。今言っても混乱するだけだ。ただ、ひとつだけ理解してくれ」
ジョイはわたしの手を胸の前まで持ち上げながら言う。
「俺は、君を守る。どんな手を使ってでも」
胸が熱くなった。
助けられてばかりで申し訳ない気持ちと、それ以上に安心がこみ上げる。
「……ありがとう、ジョイ」
「礼なんていらない。俺が勝手にやっているだけだ」
そう言いながら、ジョイは頭を軽く撫でてくる。
その仕草にわたしの心はようやく落ち着いた。
しばらくして、屋敷の外がひどく騒がしくなった。
足音が増え、衛兵の声が響き、扉を叩く重い音が鳴る。
「来たな」
ジョイが立ち上がる。
さっきまでの柔らかい雰囲気は消え、帝国自由騎士の冷厳な顔に戻っていた。
「ルイン、ベッドの上でいい。動かないほうが安全だ」
「う、うん……」
胸がざわつく。不安と恐怖。
でもその中心には、なぜか“ジョイがいるなら大丈夫”と思える強い安心があった。
扉がノックされる。
「ジョイア様! オルディネ将軍が――!」
「通せ。俺が行く」
ジョイはひとつ息を整え、扉に手を伸ばす。
その背中を見つめながら、わたしは胸元の布を強く握った。
――わたしは何も思い出せない。
――でも、ジョイが守ってくれる。
それだけは、確かだった。
胸の奥が、遠い悪夢を引きずるように重い。
「……また、同じ夢……?」
なぜかバルコニーから落ちる瞬間。
風を切る音。
手を伸ばしても掴めない誰かの背中。
けれど、その“誰か”の顔だけはどうしても思い出せない。
わたしは額に手を当てて、小さく息をつく。記憶の欠片はバラバラで、拾おうとするほど遠ざかっていく。
「起きたのか、ルイン」
低くやさしい声に顔を向けると、椅子に腰掛けて聖書を読んでいたジョイが、ページを閉じてこちらを見る。
炎のように揺らめく赤髪が、ランプの光で柔らかく照らされていた。
「……ジョイ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。君が眠っている間に、少し整理しておきたい情報があっただけだ」
いつも通りの落ち着いた声音。
なのに、わたしの胸は妙にざわついた。
「夢……また落ちるところで目が覚めたの」
ジョイの表情がわずかに揺れた。ほんの少しだけ眉を寄せ、それをすぐに隠す。
「無理に思い出そうとしなくていい。身体がまだ万全ではない」
「……でも、思い出さなきゃ。わたし、何があって、どうして……」
どうして自分の婚約が破棄されたのか。
どうして家から追われるように逃げて倒れていたのか。
なぜあの夜、誰かの手がわたしの腕を離したのか。……いえ、落とされたような気がする。確信はない。でも。
思い出せなくて……わからないことばかりだ。
ジョイはわたしの傍に来て、いつものように乱暴ではないのに確固たる動きで、そっと毛布を肩まで掛け直してくれた。
「焦るな。少なくともルイン、君を狙った連中が動き始めたのは確かだ」
「……狙う?」
「君が生きていたら困る奴らがいる、ということだ」
ジョイの赤い瞳が、一瞬だけ鋭い光を宿した。
でも次の瞬間には、いつも通り静かな微笑に戻っている。
――ジョイは、わたしの知らないことを知っている。
その気配は、ここへ連れて来られた初日から薄々感じていた。
けれど尋ねても、彼ははぐらかすか、「今は言えない」と優しく遮るだけ。
「ジョイ……わたし、何かやらかしたの? こんなに大騒ぎになるようなこと」
するとジョイは、ふっと苦笑に近い息を漏らした。
「やらかしたのは、ルインではなく――ルインの周囲の“敵”だ」
その声音には、どこか冷ややかな怒りのようなものが混じっていた。
わたしが震えるほどではない。けれど、彼をこんな表情にさせるほどの何かがあるのだ。
「敵……」
「ああ、ひとつだけ言えるのは、ルインは何も悪くない。むしろ――被害者だ」
「被害者……?」
「そうだ」
ジョイがわたしの手を取る。
温かく、大きく、指先まで確かに血が通った手。
「俺の父上――オルディネ将軍が、今日この屋敷に来る」
「え……ジョイのお父様が?」
帝国でも名を知らぬ者はいない将軍。
そんな人物が、なぜわたしのために?
「ルイン、今の君は『失踪』扱いになっているんだ」
「えっ、どうして……」
「ある元老院議員の仕業でね。だから、その日に周囲で“不自然な動き”が続いていると、俺が報告した」
ジョイはわたしの為に動いてくれていたんだ。嬉しい。
ということは、あの夢は……現実?
だとしたら、わたしが記憶を失った理由もその議員かもしれない。
「議員……?」
わたしの問いに、ジョイは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り――
やがて静かに続けた。
「覚えていないなら、それでいい。今言っても混乱するだけだ。ただ、ひとつだけ理解してくれ」
ジョイはわたしの手を胸の前まで持ち上げながら言う。
「俺は、君を守る。どんな手を使ってでも」
胸が熱くなった。
助けられてばかりで申し訳ない気持ちと、それ以上に安心がこみ上げる。
「……ありがとう、ジョイ」
「礼なんていらない。俺が勝手にやっているだけだ」
そう言いながら、ジョイは頭を軽く撫でてくる。
その仕草にわたしの心はようやく落ち着いた。
しばらくして、屋敷の外がひどく騒がしくなった。
足音が増え、衛兵の声が響き、扉を叩く重い音が鳴る。
「来たな」
ジョイが立ち上がる。
さっきまでの柔らかい雰囲気は消え、帝国自由騎士の冷厳な顔に戻っていた。
「ルイン、ベッドの上でいい。動かないほうが安全だ」
「う、うん……」
胸がざわつく。不安と恐怖。
でもその中心には、なぜか“ジョイがいるなら大丈夫”と思える強い安心があった。
扉がノックされる。
「ジョイア様! オルディネ将軍が――!」
「通せ。俺が行く」
ジョイはひとつ息を整え、扉に手を伸ばす。
その背中を見つめながら、わたしは胸元の布を強く握った。
――わたしは何も思い出せない。
――でも、ジョイが守ってくれる。
それだけは、確かだった。
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