4 / 7
第4話 どうして婚約破棄されたのか
薄く目を開けると、木壁に切り取られたやわらかい灯りが揺れていた。
胸の奥が、遠い悪夢を引きずるように重い。
「……また、同じ夢……?」
なぜかバルコニーから落ちる瞬間。
風を切る音。
手を伸ばしても掴めない誰かの背中。
けれど、その“誰か”の顔だけはどうしても思い出せない。
わたしは額に手を当てて、小さく息をつく。記憶の欠片はバラバラで、拾おうとするほど遠ざかっていく。
「起きたのか、ルイン」
低くやさしい声に顔を向けると、椅子に腰掛けて聖書を読んでいたジョイが、ページを閉じてこちらを見る。
炎のように揺らめく赤髪が、ランプの光で柔らかく照らされていた。
「……ジョイ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。君が眠っている間に、少し整理しておきたい情報があっただけだ」
いつも通りの落ち着いた声音。
なのに、わたしの胸は妙にざわついた。
「夢……また落ちるところで目が覚めたの」
ジョイの表情がわずかに揺れた。ほんの少しだけ眉を寄せ、それをすぐに隠す。
「無理に思い出そうとしなくていい。身体がまだ万全ではない」
「……でも、思い出さなきゃ。わたし、何があって、どうして……」
どうして自分の婚約が破棄されたのか。
どうして家から追われるように逃げて倒れていたのか。
なぜあの夜、誰かの手がわたしの腕を離したのか。……いえ、落とされたような気がする。確信はない。でも。
思い出せなくて……わからないことばかりだ。
ジョイはわたしの傍に来て、いつものように乱暴ではないのに確固たる動きで、そっと毛布を肩まで掛け直してくれた。
「焦るな。少なくともルイン、君を狙った連中が動き始めたのは確かだ」
「……狙う?」
「君が生きていたら困る奴らがいる、ということだ」
ジョイの赤い瞳が、一瞬だけ鋭い光を宿した。
でも次の瞬間には、いつも通り静かな微笑に戻っている。
――ジョイは、わたしの知らないことを知っている。
その気配は、ここへ連れて来られた初日から薄々感じていた。
けれど尋ねても、彼ははぐらかすか、「今は言えない」と優しく遮るだけ。
「ジョイ……わたし、何かやらかしたの? こんなに大騒ぎになるようなこと」
するとジョイは、ふっと苦笑に近い息を漏らした。
「やらかしたのは、ルインではなく――ルインの周囲の“敵”だ」
その声音には、どこか冷ややかな怒りのようなものが混じっていた。
わたしが震えるほどではない。けれど、彼をこんな表情にさせるほどの何かがあるのだ。
「敵……」
「ああ、ひとつだけ言えるのは、ルインは何も悪くない。むしろ――被害者だ」
「被害者……?」
「そうだ」
ジョイがわたしの手を取る。
温かく、大きく、指先まで確かに血が通った手。
「俺の父上――オルディネ将軍が、今日この屋敷に来る」
「え……ジョイのお父様が?」
帝国でも名を知らぬ者はいない将軍。
そんな人物が、なぜわたしのために?
「ルイン、今の君は『失踪』扱いになっているんだ」
「えっ、どうして……」
「ある元老院議員の仕業でね。だから、その日に周囲で“不自然な動き”が続いていると、俺が報告した」
ジョイはわたしの為に動いてくれていたんだ。嬉しい。
ということは、あの夢は……現実?
だとしたら、わたしが記憶を失った理由もその議員かもしれない。
「議員……?」
わたしの問いに、ジョイは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り――
やがて静かに続けた。
「覚えていないなら、それでいい。今言っても混乱するだけだ。ただ、ひとつだけ理解してくれ」
ジョイはわたしの手を胸の前まで持ち上げながら言う。
「俺は、君を守る。どんな手を使ってでも」
胸が熱くなった。
助けられてばかりで申し訳ない気持ちと、それ以上に安心がこみ上げる。
「……ありがとう、ジョイ」
「礼なんていらない。俺が勝手にやっているだけだ」
そう言いながら、ジョイは頭を軽く撫でてくる。
その仕草にわたしの心はようやく落ち着いた。
しばらくして、屋敷の外がひどく騒がしくなった。
足音が増え、衛兵の声が響き、扉を叩く重い音が鳴る。
「来たな」
ジョイが立ち上がる。
さっきまでの柔らかい雰囲気は消え、帝国自由騎士の冷厳な顔に戻っていた。
「ルイン、ベッドの上でいい。動かないほうが安全だ」
「う、うん……」
胸がざわつく。不安と恐怖。
でもその中心には、なぜか“ジョイがいるなら大丈夫”と思える強い安心があった。
扉がノックされる。
「ジョイア様! オルディネ将軍が――!」
「通せ。俺が行く」
ジョイはひとつ息を整え、扉に手を伸ばす。
その背中を見つめながら、わたしは胸元の布を強く握った。
――わたしは何も思い出せない。
――でも、ジョイが守ってくれる。
それだけは、確かだった。
胸の奥が、遠い悪夢を引きずるように重い。
「……また、同じ夢……?」
なぜかバルコニーから落ちる瞬間。
風を切る音。
手を伸ばしても掴めない誰かの背中。
けれど、その“誰か”の顔だけはどうしても思い出せない。
わたしは額に手を当てて、小さく息をつく。記憶の欠片はバラバラで、拾おうとするほど遠ざかっていく。
「起きたのか、ルイン」
低くやさしい声に顔を向けると、椅子に腰掛けて聖書を読んでいたジョイが、ページを閉じてこちらを見る。
炎のように揺らめく赤髪が、ランプの光で柔らかく照らされていた。
「……ジョイ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。君が眠っている間に、少し整理しておきたい情報があっただけだ」
いつも通りの落ち着いた声音。
なのに、わたしの胸は妙にざわついた。
「夢……また落ちるところで目が覚めたの」
ジョイの表情がわずかに揺れた。ほんの少しだけ眉を寄せ、それをすぐに隠す。
「無理に思い出そうとしなくていい。身体がまだ万全ではない」
「……でも、思い出さなきゃ。わたし、何があって、どうして……」
どうして自分の婚約が破棄されたのか。
どうして家から追われるように逃げて倒れていたのか。
なぜあの夜、誰かの手がわたしの腕を離したのか。……いえ、落とされたような気がする。確信はない。でも。
思い出せなくて……わからないことばかりだ。
ジョイはわたしの傍に来て、いつものように乱暴ではないのに確固たる動きで、そっと毛布を肩まで掛け直してくれた。
「焦るな。少なくともルイン、君を狙った連中が動き始めたのは確かだ」
「……狙う?」
「君が生きていたら困る奴らがいる、ということだ」
ジョイの赤い瞳が、一瞬だけ鋭い光を宿した。
でも次の瞬間には、いつも通り静かな微笑に戻っている。
――ジョイは、わたしの知らないことを知っている。
その気配は、ここへ連れて来られた初日から薄々感じていた。
けれど尋ねても、彼ははぐらかすか、「今は言えない」と優しく遮るだけ。
「ジョイ……わたし、何かやらかしたの? こんなに大騒ぎになるようなこと」
するとジョイは、ふっと苦笑に近い息を漏らした。
「やらかしたのは、ルインではなく――ルインの周囲の“敵”だ」
その声音には、どこか冷ややかな怒りのようなものが混じっていた。
わたしが震えるほどではない。けれど、彼をこんな表情にさせるほどの何かがあるのだ。
「敵……」
「ああ、ひとつだけ言えるのは、ルインは何も悪くない。むしろ――被害者だ」
「被害者……?」
「そうだ」
ジョイがわたしの手を取る。
温かく、大きく、指先まで確かに血が通った手。
「俺の父上――オルディネ将軍が、今日この屋敷に来る」
「え……ジョイのお父様が?」
帝国でも名を知らぬ者はいない将軍。
そんな人物が、なぜわたしのために?
「ルイン、今の君は『失踪』扱いになっているんだ」
「えっ、どうして……」
「ある元老院議員の仕業でね。だから、その日に周囲で“不自然な動き”が続いていると、俺が報告した」
ジョイはわたしの為に動いてくれていたんだ。嬉しい。
ということは、あの夢は……現実?
だとしたら、わたしが記憶を失った理由もその議員かもしれない。
「議員……?」
わたしの問いに、ジョイは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り――
やがて静かに続けた。
「覚えていないなら、それでいい。今言っても混乱するだけだ。ただ、ひとつだけ理解してくれ」
ジョイはわたしの手を胸の前まで持ち上げながら言う。
「俺は、君を守る。どんな手を使ってでも」
胸が熱くなった。
助けられてばかりで申し訳ない気持ちと、それ以上に安心がこみ上げる。
「……ありがとう、ジョイ」
「礼なんていらない。俺が勝手にやっているだけだ」
そう言いながら、ジョイは頭を軽く撫でてくる。
その仕草にわたしの心はようやく落ち着いた。
しばらくして、屋敷の外がひどく騒がしくなった。
足音が増え、衛兵の声が響き、扉を叩く重い音が鳴る。
「来たな」
ジョイが立ち上がる。
さっきまでの柔らかい雰囲気は消え、帝国自由騎士の冷厳な顔に戻っていた。
「ルイン、ベッドの上でいい。動かないほうが安全だ」
「う、うん……」
胸がざわつく。不安と恐怖。
でもその中心には、なぜか“ジョイがいるなら大丈夫”と思える強い安心があった。
扉がノックされる。
「ジョイア様! オルディネ将軍が――!」
「通せ。俺が行く」
ジョイはひとつ息を整え、扉に手を伸ばす。
その背中を見つめながら、わたしは胸元の布を強く握った。
――わたしは何も思い出せない。
――でも、ジョイが守ってくれる。
それだけは、確かだった。
あなたにおすすめの小説
異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない
木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。
生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。
ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。
その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。
すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜
まりー
恋愛
ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。
でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
毒姫の婚約騒動
SHIN
恋愛
卒業式を迎え、立食パーティーの懇談会が良い意味でも悪い意味でもどことなくざわめいていた。
「卒業パーティーには一人で行ってくれ。」
「分かりました。」
そう婚約者から言われて一人で来ましたが、あら、その婚約者は何処に?
あらあら、えっと私に用ですか? 所で、お名前は?
毒姫と呼ばれる普通?の少女と常に手袋を着けている潔癖症?の男のお話し。
婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました
おりあ
恋愛
アーデルベルト伯爵家の令嬢セリナは、王太子レオニスの婚約者として静かに、慎ましく、その務めを果たそうとしていた。
だが、感情を上手に伝えられない性格は誤解を生み、社交界で人気の令嬢リーナに心を奪われた王太子は、ある日一方的に婚約を破棄する。
失意のなかでも感情をあらわにすることなく、セリナは婚約を受け入れ、王都を離れ故郷へ戻る。そこで彼女は、自身の分析力や実務能力を買われ、辺境の行政視察に加わる機会を得る。
赴任先の北方の地で、若き領主アレイスターと出会ったセリナ。言葉で丁寧に思いを伝え、誠実に接する彼に少しずつ心を開いていく。
そして静かに、しかし確かに才能を発揮するセリナの姿は、やがて辺境を支える柱となっていく。
一方、王太子レオニスとリーナの婚約生活には次第に綻びが生じ、セリナの名は再び王都でも囁かれるようになる。
静かで無表情だと思われた令嬢は、実は誰よりも他者に寄り添う力を持っていた。
これは、「声なき優しさ」が、真に理解され、尊ばれていく物語。
「君との婚約は時間の無駄だった」とエリート魔術師に捨てられた凡人令嬢ですが、彼が必死で探している『古代魔法の唯一の使い手』って、どうやら私
白桃
恋愛
魔力も才能もない「凡人令嬢」フィリア。婚約者の天才魔術師アルトは彼女を見下し、ついに「君は無駄だ」と婚約破棄。失意の中、フィリアは自分に古代魔法の力が宿っていることを知る。時を同じくして、アルトは国を救う鍵となる古代魔法の使い手が、自分が捨てたフィリアだったと気づき後悔に苛まれる。「彼女を見つけ出さねば…!」必死でフィリアを探す元婚約者。果たして彼は、彼女に許されるのか?
婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜
夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」
婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。
彼女は涙を見せず、静かに笑った。
──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。
「そなたに、我が祝福を授けよう」
神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。
だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。
──そして半年後。
隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、
ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。
「……この命、お前に捧げよう」
「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」
かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。
──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、
“氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。
格上侯爵様が私を離してくれません〜婚約破棄の夜、断罪から救ってくれたと思ったら、その日から囲い込みが始まっていました〜
鈍色シロップ
恋愛
「エレノーラ・フォステール嬢……お相手していただけますか?」
そう言って差し出された手は、今夜も私に断る隙など与えないように見えた。
――侯爵様、もしかして本気で……私を囲い込みにきてる?
年下の従姉妹で伯爵令嬢リネットへの嫌がらせという冤罪で、アルネロ・ヴァレント伯爵令息に婚約を破棄されたエレノーラ・フォステール男爵令嬢。
その時、場に割って入ったのは、王都でも別格とされる侯爵当主ルシェル・ウィンセイルだった。
以来、社交の場で会うたび彼は当然のように私の隣を取り、ついには「あなたを私の隣に迎えたい」と告げてきて――。
「侯爵様……どうして、そこまで私を気にかけるのですか」
「さて。どうしてだと思う?」
婚約破棄された男爵令嬢が、格上の侯爵当主に囲い込まれるお話。
※複数のサイトに投稿しています。