婚約破棄された侯爵令嬢、帝国最強騎士に拾われて溺愛される

夜桜

文字の大きさ
4 / 5

第4話 どうして婚約破棄されたのか

しおりを挟む
 薄く目を開けると、木壁に切り取られたやわらかい灯りが揺れていた。
 胸の奥が、遠い悪夢を引きずるように重い。

「……また、同じ夢……?」

 なぜかバルコニーから落ちる瞬間。
 風を切る音。
 手を伸ばしても掴めない誰かの背中。
 けれど、その“誰か”の顔だけはどうしても思い出せない。

 わたしは額に手を当てて、小さく息をつく。記憶の欠片はバラバラで、拾おうとするほど遠ざかっていく。

「起きたのか、ルイン」

 低くやさしい声に顔を向けると、椅子に腰掛けて聖書を読んでいたジョイが、ページを閉じてこちらを見る。
 炎のように揺らめく赤髪が、ランプの光で柔らかく照らされていた。

「……ジョイ。ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。君が眠っている間に、少し整理しておきたい情報があっただけだ」

 いつも通りの落ち着いた声音。
 なのに、わたしの胸は妙にざわついた。

「夢……また落ちるところで目が覚めたの」

 ジョイの表情がわずかに揺れた。ほんの少しだけまゆを寄せ、それをすぐに隠す。


「無理に思い出そうとしなくていい。身体がまだ万全ではない」
「……でも、思い出さなきゃ。わたし、何があって、どうして……」


 どうして自分の婚約が破棄されたのか。
 どうして家から追われるように逃げて倒れていたのか。
 なぜあの夜、誰かの手がわたしの腕を離したのか。……いえ、落とされたような気がする。確信はない。でも。

 思い出せなくて……わからないことばかりだ。

 ジョイはわたしのそばに来て、いつものように乱暴ではないのに確固たる動きで、そっと毛布を肩まで掛け直してくれた。

「焦るな。少なくともルイン、君を狙った連中が動き始めたのは確かだ」
「……狙う?」

「君が生きていたら困る奴らがいる、ということだ」

 ジョイの赤い瞳が、一瞬だけ鋭い光を宿した。
 でも次の瞬間には、いつも通り静かな微笑に戻っている。

 ――ジョイは、わたしの知らないことを知っている。

 その気配は、ここへ連れて来られた初日から薄々感じていた。
 けれど尋ねても、彼ははぐらかすか、「今は言えない」と優しくさえぎるだけ。


「ジョイ……わたし、何かやらかしたの? こんなに大騒ぎになるようなこと」

 するとジョイは、ふっと苦笑に近い息を漏らした。


「やらかしたのは、ルインではなく――ルインの周囲の“敵”だ」


 その声音には、どこか冷ややかな怒りのようなものが混じっていた。
 わたしが震えるほどではない。けれど、彼をこんな表情にさせるほどの何かがあるのだ。


「敵……」
「ああ、ひとつだけ言えるのは、ルインは何も悪くない。むしろ――被害者だ」
「被害者……?」
「そうだ」

 ジョイがわたしの手を取る。
 温かく、大きく、指先まで確かに血が通った手。


「俺の父上――オルディネ将軍が、今日この屋敷に来る」
「え……ジョイのお父様が?」


 帝国でも名を知らぬ者はいない将軍。
 そんな人物が、なぜわたしのために?

「ルイン、今の君は『失踪』扱いになっているんだ」
「えっ、どうして……」
「ある元老院議員の仕業でね。だから、その日に周囲で“不自然な動き”が続いていると、俺が報告した」

 ジョイはわたしの為に動いてくれていたんだ。嬉しい。
 ということは、あの夢は……現実?
 だとしたら、わたしが記憶を失った理由もその議員かもしれない。


「議員……?」


 わたしの問いに、ジョイは一瞬だけ言葉を選ぶように黙り――
 やがて静かに続けた。

「覚えていないなら、それでいい。今言っても混乱するだけだ。ただ、ひとつだけ理解してくれ」

 ジョイはわたしの手を胸の前まで持ち上げながら言う。

「俺は、君を守る。どんな手を使ってでも」

 胸が熱くなった。
 助けられてばかりで申し訳ない気持ちと、それ以上に安心がこみ上げる。

「……ありがとう、ジョイ」
「礼なんていらない。俺が勝手にやっているだけだ」

 そう言いながら、ジョイは頭を軽く撫でてくる。
 その仕草にわたしの心はようやく落ち着いた。


 しばらくして、屋敷の外がひどく騒がしくなった。
 足音が増え、衛兵の声が響き、扉を叩く重い音が鳴る。


「来たな」


 ジョイが立ち上がる。
 さっきまでの柔らかい雰囲気は消え、帝国自由騎士の冷厳な顔に戻っていた。


「ルイン、ベッドの上でいい。動かないほうが安全だ」
「う、うん……」

 胸がざわつく。不安と恐怖。
 でもその中心には、なぜか“ジョイがいるなら大丈夫”と思える強い安心があった。

 扉がノックされる。


「ジョイア様! オルディネ将軍が――!」
「通せ。俺が行く」


 ジョイはひとつ息を整え、扉に手を伸ばす。
 その背中を見つめながら、わたしは胸元の布を強く握った。

 ――わたしは何も思い出せない。
 ――でも、ジョイが守ってくれる。

 それだけは、確かだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話

鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。 彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。 干渉しない。触れない。期待しない。 それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに―― 静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。 越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。 壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。 これは、激情ではなく、 確かな意思で育つ夫婦の物語。

とある公爵の奥方になって、ざまぁする件

ぴぴみ
恋愛
転生してざまぁする。 後日談もあり。

復讐の恋〜前世での恨みを今世で晴らします

じじ
恋愛
アレネ=フォーエンは公爵家令嬢だ。美貌と聡明さを兼ね備えた彼女の婚約者は、幼馴染で男爵子息のヴァン=オレガ。身分違いの二人だったが、周りからは祝福されて互いに深く思い合っていた。 それは突然のことだった。二人で乗った馬車が事故で横転したのだ。気を失ったアレネが意識を取り戻した時に前世の記憶が蘇ってきた。そして未だ目覚めぬヴァンが譫言のように呟いた一言で知ってしまったのだ。目の前の男こそが前世で自分を酷く痛めつけた夫であると言うことを。

【完結】さっさと婚約破棄してくださいませんか?

凛 伊緒
恋愛
公爵令嬢のシュレア・セルエリットは、7歳の時にガーナス王国の第2王子、ザーディヌ・フィー・ガーナスの婚約者となった。 はじめは嬉しかったが、成長するにつれてザーディヌが最低王子だったと気付く── 婚約破棄したいシュレアの、奮闘物語。

「君との婚約は時間の無駄だった」とエリート魔術師に捨てられた凡人令嬢ですが、彼が必死で探している『古代魔法の唯一の使い手』って、どうやら私

白桃
恋愛
魔力も才能もない「凡人令嬢」フィリア。婚約者の天才魔術師アルトは彼女を見下し、ついに「君は無駄だ」と婚約破棄。失意の中、フィリアは自分に古代魔法の力が宿っていることを知る。時を同じくして、アルトは国を救う鍵となる古代魔法の使い手が、自分が捨てたフィリアだったと気づき後悔に苛まれる。「彼女を見つけ出さねば…!」必死でフィリアを探す元婚約者。果たして彼は、彼女に許されるのか?

殿下は、幼馴染で許嫁の没落令嬢と婚約破棄したいようです。

和泉鷹央
恋愛
 ナーブリー王国の第三王位継承者である王子ラスティンは、幼馴染で親同士が決めた許嫁である、男爵令嬢フェイとの婚約を破棄したくて仕方がなかった。  フェイは王国が建国するより前からの家柄、たいして王家はたかだか四百年程度の家柄。  国王と臣下という立場の違いはあるけど、フェイのグラブル男爵家は王国内では名家として知られていたのだ。   ……例え、先祖が事業に失敗してしまい、元部下の子爵家の農家を改築した一軒家に住んでいるとしてもだ。  こんな見栄えも体裁も悪いフェイを王子ラスティンはなんとかして縁を切ろうと画策する。  理由は「貧乏くさいからっ!」  そんなある日、フェイは国王陛下のお招きにより、別件で王宮へと上がることになる。  たまたま見かけたラスティンを追いかけて彼の後を探すと、王子は別の淑女と甘いキスを交わしていて……。  他の投稿サイトでも掲載しています。

婚約破棄ですか? 優しい幼馴染がいるので構いませんよ

マルローネ
恋愛
伯爵令嬢のアリスは婚約者のグリンデル侯爵から婚約破棄を言い渡された。 悲しみに暮れるはずの彼女だったが問題はないようだ。 アリスには優しい幼馴染である、大公殿下がいたのだから。

「股ゆる令嬢」の幸せな白い結婚

ウサギテイマーTK
恋愛
公爵令嬢のフェミニム・インテラは、保持する特異能力のために、第一王子のアージノスと婚約していた。だが王子はフェミニムの行動を誤解し、別の少女と付き合うようになり、最終的にフェミニムとの婚約を破棄する。そしてフェミニムを、子どもを作ることが出来ない男性の元へと嫁がせるのである。それが王子とその周囲の者たちの、破滅への序章となることも知らずに。 ※タイトルは下品ですが、R15範囲だと思います。完結保証。

処理中です...