隠遁薬師は山に在り

あつき

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狩人

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 ここらの山は、緑が深い。
 鬱蒼と生い茂る木々の間には、いつもひんやりとした空気が漂う。苔とシダに覆われた地表は、山道をひとたび外れれば二度と戻れない。昼も夜も、獣のためにあるような山だ。秋だけは、山道沿いに果実や茸を見つけて、人も恵みを得ることができる。
 しかし、己のように獣を狩ることを生業としていれば、道を外れた暗い森も、庭のようなものだ。
 朝靄のただよう藪の中へ分け入り、小走りで駆ける。目指す先に獣の気配が近いことを感じ、そっと足音を消す。息をひそめて、背の高い茂みへ身を隠した。左腕に括り付けた片手弓に矢をつがえ、狙いを定める。先にいるのは、若い牡鹿だ。群れにいたのを、石を投げて驚かし、ようやくここまで追い込んだ。
 鹿は首を伸ばして、追手である俺を探している。こちらは風下だ。殺気もない。
 不安そうに瞬く黒い瞳を狙い、矢を放った。
 ヒュッ、と風を裂く一瞬の音の後に、どすり、と鈍い音がした。
 獣の高い悲鳴が上がり、目を穿たれた牡鹿が、苦しそうに跳ね回る。
 そこへさらに矢を打ち込む。今度は首を貫いた。どさ、と鹿が倒れる。茂みの中に姿が消えて、もがく音だけが聞こえる。俺はゆっくりと立ち上がって様子をうかがう。手負いの獣は、牙や爪がなくとも危険だ。
 やがて静かになった茂みへゆっくり近づくと、牡鹿は目と首から血を流し、しんと事切れていた。
 ふう、と息をつく。駆け出しのころは、仕留めたと思って、不意の反撃を食らったことも多い。獲物が死んでいて、満足とともに安堵する癖は、ずっと抜けない。
 腰の物入れから麻縄を出して鹿を縛り、背負った。まだ温かく、かなり重たい。良い収穫だ。
 えっちらおっちら、鹿を担いで山を下りる。角はまだ短いから、首の剥製はあまり良い値がつかないだろう。それでも、若い獣の肉は早く売れる。毛皮も柔らかく、こちらは期待できそうだ。


 山を下りて、猟師小屋に入る。村の猟師たちが使う解体小屋だ。小屋の脇にある、よく響く小さな鐘を鳴らしてから、その中へ入った。
 鹿を石の床へ下ろし、小屋の中のポンプから水をくむ。まず、毛皮をきれいにした。次に鹿の血を抜き、皮を剥ぐ。内臓を取って、手足と胴に分けていく。
 肉らしくなったところで、小屋へ村人がぽつぽつと尋ねてくる。鐘を合図に、出来上がったころを見計らって買いに来るのだ。畑を持つものは、血と野菜を替えてくれる。良い肥料になるのだという。金の代わりに米で払うものもいる。
「ケイ、今日は何だい」
 近所の馴染みが声をかけてくれる。落とした頭を示しながら答えた。
「牡鹿さ。だいぶ若いよ」
 小ぶりの刀で肉を切り分ける。骨から削いで重さを測り、支払いをもらう。差し出された籠に、肉や内臓を次々に渡していく。
 自分の家の分を少し残して、すぐに鹿の身体はなくなった。頭と皮は、毛皮を引き取る店へ持って行く。
「もう終わりだ、ありがとう」
 村人たちへ礼を言い、足りない人には詫びをして、小屋を片付けた。
 牡鹿の頭と皮だけを担いで、持ち帰る肉と米は腰袋に下げた。血の匂いにつられて寄ってくる蝿を払いながら、小屋にほど近いところへ構えられた毛皮屋へ向かう。獣臭いから、村の中に小屋やこうした店は作れない。
「やってるかい」
 毛皮屋の板戸を開ける。むっと獣の皮の臭いがした。
「よう、ケイか。鹿の皮だって?」
 店番をしていたのは、店主の息子だった。この前成人したばかりで、俺よりも二つ年下だ。
「ああ、良い値をつけてくれ」
 首と毛皮を並べると、彼はじっくり品定めを始めた。毛並と、射止めた時についた傷の具合を見て、ふむと言う。
「これでどうだ」
 示されたのは、悪くない数字だったが、もう少し色を付けられないかと粘る。彼は難色を示した。
「親父にどやされちまうよ。そいつを砥いでやるから、それでどうだ」
 と、腰に差した小刀を指される。毛皮を剥ぐのにも、肉を削ぐのにも使っているから、鈍るのが早い。この跡取り息子は、毛皮屋らしく動物を切るための刃先を整えるのがとても上手だ。普段は金を取ってやってくれる。
「じゃあ、頼む」
 腰から刀を外して預ける。彼は示した通りの金をこちらへ寄越して、砥石を取り出した。
「ケイ、弓矢の支えにしている小手はどうだ? 張り替えるなら、いい皮がある」
「まだ平気だ。来月あたりに探しに来ると思う」
「そうかい。頑丈なのを欲しがってるお仲間さんがいるなら、言い触らしてくれよ」
 かかと笑って、息子は砥ぎを始める。その横顔に尋ねた。
「今日、親父さんはどうしてる?」
「薬師が来る日だから、広場に行ってる。匂い消しの粉を見に」
「いつもは君がお使いだろう」
「そろそろ店番させてもらえるようになったんだよ、どうぞご贔屓に」
 にっと笑えば八重歯が覗く。そうするよと答えて、外を覗く。
「俺も見に行こうかな。今日は他にも行商が来ているよな?」
「ああ、行っといで」
 しゃ、しゃ、と刃物を研ぐ小気味良い音を後にして、店を出る。
 この村は旅の要所だ。山間の集落に宿を求める者が多い。ここでは半分ほどの村人が、宿をやって暮らしている。そこへ俺のような猟師や、畑を持つ農家が食べ物を売る。加工が必要なものは、旅人に混ざって行商人が売りに来る。
 俺も、狩りに必要なものを揃えるために、商人がいるときは必ず顔を出すようにしている。昨晩、行商人の一行が宿に着いたとうわさで聞いた。今日は朝から店をやっていることだろう。
 店の出ている広場へ着くと、なかなかに賑わっていた。
 菓子の店には子供が群がり、織物の店には女と金持ちが群がる。金物を扱う押し車の店を覗きながら、弓に使う金具を少し買った。
 乾かした海のものも、いくらかあった。塩を少し求め、あとは冷やかす。他に必要なものはなさそうだった。
 そろそろ、砥ぎに出した小刀をもらって帰ろうかと思っていると、見慣れぬ男が大きなかごを背負って賑々しい広場から足早に出て行った。
 男は鼠のような色の髪を束ね、額にきっちり手拭いを巻いていた。目つきが鋭く背も高く、鷹のようだと思った。すれ違いざま、何とも言えぬ薬臭さが漂った。
「……誰だろう」
 ぽつりと呟くと、それを聞いていた近くの男が教えてくれた。
「薬師の琉璃るりだ。知らんのか」
 見れば、声をかけてきたのは毛皮屋の店主だった。彼も大きな荷を下げている。
「山に薬を作る者がいるとは聞いている」
「そう、それだよ」
 あれがそうか、と鼠色の後ろ頭を見遣る。狩場には必ず薬を持って行くが、その調達は妹や母がやっている。調達先は薬を作る薬師だ。山で隠遁生活を送りながら、十日に一度は里へ下りてきて、役に立つ薬と食べ物とを交換して、また山へ帰るという。話には聞いていたが、実際目にするのは初めてだった。
「痩せた男だな。あれで山暮らしか?」
 姿はとても屈強には見えない。店主は、さてねと肩をすくめた。
「若いころから、ずっと山を棲家にしているそうだ。俺たちよりよほど、棲み慣れているだろうさ」
 でも、と彼は言葉を続ける。
「たいそうな人嫌いと聞く。あまり関わるなよ、ケイ」
 言われなくても、あまり近づきたい部類ではない。そうすると答えて、店主とともに毛皮屋へ戻った。
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