上 下
31 / 78

31 -藤木仁人-

しおりを挟む
「その、私なんかで、よければ……、よろしくお願いいたします」
「ありがとう、ありがとう、奏……」
嬉しさのあまり、きつく目の前の身体を抱きしめる。一瞬だけ、強張った奏の身体だったが、すぐに力を抜いて身を任せてくれた。
「どうしても、伝えたかったんだ、この気持ちを。受け入れてくれて、本当にありがとう」
「私も、私の持っていた気持ちが通じて、嬉しいです」
しばらく抱きしめていたが、そろそろ離れなければ、と思い離れる。少し話題を変えて帰省方法を聞いてみた。
「そういえば、奏はどうやって実家へ帰るんだ?」
「夜行バスです。実はチケットを取ったのがつい一週間ほど前で……。飛行機はそこまでになるとかなり高額ですし、着くのも空港ですからそこから移動するのも大変で……」
夜行バスなら主要駅のバスターミナルに停車するし、そこから奏の住んでいる家の最寄り駅も停まる特急に乗れば近いと言う。
「でも、夜行バスって、結構時間がかかるだろう?」
「そうですね……、だいたい二十一時以降にこのバス停を出て、到着は朝の八時をすぎるんです。でも今回は最寄り駅じゃなくて到着予定のバスターミナルに迎えに来てもらうんです」
「そうなんだな……、気を付けて帰れよ。心配だ」
「はい、気を付けます。今回、特急に乗らないのでまだ早く帰りつけますから、帰りついたら、連絡しますね。夜行バスの車内はスマホつつけないので」
「ああ、いつでもいい。無事の連絡さえくれるなら。俺も、撮影の合間とかに連絡するし、電話もする」
奏が近くにいない、会える距離にいない時間が来るのが、嫌だ。奏は実家が四国と遠い。夜行バスでも、飛行機でも、どんな交通手段でも帰ることのできる距離だけど、どの交通機関を使っても時間がかかる。一番早く到着できるのは飛行機だけど、早くても夜行バスとあんまり到着時刻は変わらないようだ。
「撮影の合間って、忙しいのではないですか……?」
「あー、あと少しでクランクアップ、撮影が終わるはずなんだけど……、ちょっと監督がとあるシーンで悩んでるっぽくて……。そこだけ何度もやり直してる最中なんだ」
監督が気に食わないと言っているのは、あの雨の中のキスシーンだ。監督が言うには相手の女優の演技と俺の演技が合っていないとかなんとか言っていて、もっと自然な感じがほしいとも言っていた。
「あのシーンさえ撮り終えたら、もう終わりなんだ」
「どんなシーンか、教えていただいても……?」
「あ~……、仕事だからな?俺も割り切ってるからな?」
「はい……」
言いづらい、でもこのドラマを見た奏が傷つかないとも限らないから言うしかない。
「その、キスシーンなんだ。俺、というより主演女優の子がまだ女優になったばかりだから演技が硬い印象を与えるみたいでな……。最初は監督も納得してたんだけど、後でやっぱりってなってな」
言い訳のように言葉を連ねてしまったが、奏は不自然には思わなかったようで、俺の言葉を素直に受け入れてくれた。まだ放送されていない、製作段階のドラマのワンシーンを伝えるのはよくないけど、そんな風に、仕事の話をするのも今思えば初めてだったかもしれない。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

斉藤先生と佐藤くん

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:60

転生幼女はお詫びチートで異世界ごーいんぐまいうぇい

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:3,926pt お気に入り:23,969

ある日、ぶりっ子悪役令嬢になりまして。

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:3,286

適当な百合

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

日本

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

猫を救え! ~死神と守神の可憐な子猫争奪戦~

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:3

最後の女

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:44

処理中です...