28 / 48
第一部
三章(6)
しおりを挟む
「クラリス様……」
エッタがそっと、呟くように呼びかけてきた。そちらに視線をやれば、彼女はどこか苦しげな表情を浮かべている。
クラリスは無理に口角を上げると、言った。
――内緒にしてね。
誰に対してなのかは、明言せずともわかるだろう。事実エッタはくしゃりと顔を歪め、大きく頷いた。「かしこまりました」という声はいつもより明らかに弱々しく、嫌なところを見せてしまったと申し訳なくなる。彼女がいなければ何も伝えられなかったから仕方ないとはいえ……もう少し言い回しを考えて会話の内容が理解できないようにすべきだった、と後悔しつつ、クラリスは手を動かした。
――バルコニーへ行きましょう。
「はい、わかりました」
エッタが頷くのを見て、クラリスは歩き出す。ドレスの裾をさばきながらゆっくりと進んでいれば、まったく意識をしていなかった、周囲の人の声がふと耳に届いた。
「あれが王女殿下? ……なんだか普通ね」
悪意を含んだ声に、思わずきゅ、と手を握りしめた。どうせ知らない人だ、こんな言葉は無視しても良いだろう。そう自らに言い聞かせるが、不思議なことにひとつ聞こえてしまうと、似たような悪意のある噂話がどんどん耳に届くようになって。
「みすぼらしい。エリオット様のほうが美しいわね」
「先ほどのを見たか? 本当に喋れないそうだぞ」
「ああ。――どちらにつくか考えなければな」
クスクス、という笑い声に、クラリスを値踏みする冷徹な視線、会話。それらをなんとか意識の外に追いやろうとするが、一度意識してしまっただろうか、次々と言葉が鼓膜を震わせ、恐怖が身を震わせる。
それらを振り払うように、クラリスは歩みを早めた。早くこの場から離れてしまいたい。怖くて、恐ろしくて、心臓がドクドクと強く体を内側から揺らしていた。
なんとか表情を崩さないよう、きゅ、と口元を引き締めてバルコニーへ向かう。人混みから離れ、エッタの開けてくれた扉から外に出ると、ほっと息をついた。
ずっといたため気づかなかったのか、どうやら大広間はかなり熱気がこもっていたらしい。冷たい夜風が柔らかく肌を滑るのが心地よく、そっと目を閉じた。体内の熱が、先ほどまで感じていた恐怖とともに体から消え去っていく。
ふぅ、と息をつき、クラリスはカツ、とヒールを鳴らしてバルコニーのふちへ近寄った。
夜の街並みがそこには広がっていた。夜空に浮かぶ星のように煌々と輝く家々の明かりは、手前にいくほど多く、遠くにいけばいくほどまばらになっていっている。おそらく遠さがるほどお金のない、平民の居住区になるからだろう。彼らは貴族のように蝋燭をたくさん使えるほど潤沢な資金はないのだ。
ぼんやりとそれらを眺めていると、少しずつ心が落ち着いていく。目を閉じれば瞼の裏にオリオンとルークの顔が浮かび上がり、胸が苦しくなった。
……約束をしてしまった。ルークが辞めたいと言うのならば、それを認めると。せめてなるべく長くいたいから、とそうしたが、はたしてその日が来たときに自分は彼を送り出すことができるだろうか? そんな不安に、心がまたもや打ち沈む。
(そんな日が来なければ良いのに……)
ずっとずっと彼とともにいられて、いろいろなことを学んで、好きなことをできて。そんな穏やかな日々が永遠に続けば良いのに。時なんか止まってしまえばいい。
(……まぁ、無理でしょうけど)
自然とため息がこぼれた。不可能であることはわかっている。それでもクラリスは願わずにはいられなくて。
またもやため息がこぼれ、慌てて首を振って憂鬱な気分を消し去る。こんな気持ちではいけない。せめて残された時間を楽しく過ごそう。そのためにもしっかりと心を切り替えなければ。
ゆっくりと深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、いつの間にかまたざわめいていた気持ちが落ち着いていく。パチン、と軽く頬を打った。
「クラリス様!」
焦ったようにずっと静かに控えていたエッタが声を発した。けれどクラリスはそれを黙殺すると、彼女のほうを振り返り、告げる。
――戻りましょう。
「ですが、頬が……」
そう言いながら、エッタは動揺したようにクラリスの顔を見つめていた。それにつられて、そっと頬に手を伸ばす。ほんのりひりひりするが、軽く叩いただけだからそれもすぐに治まるだろう。それに大広間の熱気にあてられればおそらくさほど目立たないはずだ。……鏡がないから正確にはわからないけれど。
――バレやしないわ。ほら、早く……
そう言葉を紡いでいる途中だった。「やめてください!」と、悲鳴じみた声が耳朶を打つ。
なんだろう、と思ってあたりを見回していると、バルコニーの下、庭園にきらりと輝く何かが目に入った。そちらに視線をやる。
月光の下、長い銀髪を持つ少女が茶髪の男と向き合っていた。男が少女の手首を掴んでおり、少女は必死に抵抗しているようだが、庭園の奥へ奥へと連れて行かれそうになっている。よくわからないが、少女が嫌がっているのは明らかだった。
――エッタ、叫んで!
「何をやっているのですかっ!」
素早い指示にエッタは即座に反応し、大声で叫んだ。途端、二つの視線がこちらを射抜く。遠目なためあまりよくは見えなかったが、二人とも見られているとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開いたようだった。しばらくして我に返ったらしく、男は風のようにぴゅう、と去っていった。その姿はすぐに闇夜に溶け込む。
解放された少女はどこか戸惑っているようだった。けれど少しは冷静なのかぎこちない動作でスカートをつまみ、頭を下げる。かすかに「ありがとうございます」との言葉が聞こえてきた。
クラリスはそれを見て、エッタにもしっかりと理解できるよう、ゆっくりとした動きで手話を紡ぐ。
――大丈夫よ。気をつけて会場に戻りなさい。
エッタが代わりに声を発した。少女は困惑したように視線をさまよわせ、……やがてもう一度礼をするとその場から去っていく。もちろんあの男が消えていったのとは逆方向に、だ。しばらく歩けば王城の入り口に出るだろうから、これで安心だろう。
ほっと息をつくと、エッタも同じように安心しきった声を発した。
「良かったですね、大事にならなくて」
――本当にそうね。それにしても……あの男は誰かしら? ルークに報告したほうが良いかも。そしたら然るべき手段を教えてくれるでしょうし。
「ええ、そうしましょう」
エッタは神妙な顔で頷く。それを見てクラリスは――戻りましょうか、と改めて言ってその場を去った。
エッタがそっと、呟くように呼びかけてきた。そちらに視線をやれば、彼女はどこか苦しげな表情を浮かべている。
クラリスは無理に口角を上げると、言った。
――内緒にしてね。
誰に対してなのかは、明言せずともわかるだろう。事実エッタはくしゃりと顔を歪め、大きく頷いた。「かしこまりました」という声はいつもより明らかに弱々しく、嫌なところを見せてしまったと申し訳なくなる。彼女がいなければ何も伝えられなかったから仕方ないとはいえ……もう少し言い回しを考えて会話の内容が理解できないようにすべきだった、と後悔しつつ、クラリスは手を動かした。
――バルコニーへ行きましょう。
「はい、わかりました」
エッタが頷くのを見て、クラリスは歩き出す。ドレスの裾をさばきながらゆっくりと進んでいれば、まったく意識をしていなかった、周囲の人の声がふと耳に届いた。
「あれが王女殿下? ……なんだか普通ね」
悪意を含んだ声に、思わずきゅ、と手を握りしめた。どうせ知らない人だ、こんな言葉は無視しても良いだろう。そう自らに言い聞かせるが、不思議なことにひとつ聞こえてしまうと、似たような悪意のある噂話がどんどん耳に届くようになって。
「みすぼらしい。エリオット様のほうが美しいわね」
「先ほどのを見たか? 本当に喋れないそうだぞ」
「ああ。――どちらにつくか考えなければな」
クスクス、という笑い声に、クラリスを値踏みする冷徹な視線、会話。それらをなんとか意識の外に追いやろうとするが、一度意識してしまっただろうか、次々と言葉が鼓膜を震わせ、恐怖が身を震わせる。
それらを振り払うように、クラリスは歩みを早めた。早くこの場から離れてしまいたい。怖くて、恐ろしくて、心臓がドクドクと強く体を内側から揺らしていた。
なんとか表情を崩さないよう、きゅ、と口元を引き締めてバルコニーへ向かう。人混みから離れ、エッタの開けてくれた扉から外に出ると、ほっと息をついた。
ずっといたため気づかなかったのか、どうやら大広間はかなり熱気がこもっていたらしい。冷たい夜風が柔らかく肌を滑るのが心地よく、そっと目を閉じた。体内の熱が、先ほどまで感じていた恐怖とともに体から消え去っていく。
ふぅ、と息をつき、クラリスはカツ、とヒールを鳴らしてバルコニーのふちへ近寄った。
夜の街並みがそこには広がっていた。夜空に浮かぶ星のように煌々と輝く家々の明かりは、手前にいくほど多く、遠くにいけばいくほどまばらになっていっている。おそらく遠さがるほどお金のない、平民の居住区になるからだろう。彼らは貴族のように蝋燭をたくさん使えるほど潤沢な資金はないのだ。
ぼんやりとそれらを眺めていると、少しずつ心が落ち着いていく。目を閉じれば瞼の裏にオリオンとルークの顔が浮かび上がり、胸が苦しくなった。
……約束をしてしまった。ルークが辞めたいと言うのならば、それを認めると。せめてなるべく長くいたいから、とそうしたが、はたしてその日が来たときに自分は彼を送り出すことができるだろうか? そんな不安に、心がまたもや打ち沈む。
(そんな日が来なければ良いのに……)
ずっとずっと彼とともにいられて、いろいろなことを学んで、好きなことをできて。そんな穏やかな日々が永遠に続けば良いのに。時なんか止まってしまえばいい。
(……まぁ、無理でしょうけど)
自然とため息がこぼれた。不可能であることはわかっている。それでもクラリスは願わずにはいられなくて。
またもやため息がこぼれ、慌てて首を振って憂鬱な気分を消し去る。こんな気持ちではいけない。せめて残された時間を楽しく過ごそう。そのためにもしっかりと心を切り替えなければ。
ゆっくりと深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、いつの間にかまたざわめいていた気持ちが落ち着いていく。パチン、と軽く頬を打った。
「クラリス様!」
焦ったようにずっと静かに控えていたエッタが声を発した。けれどクラリスはそれを黙殺すると、彼女のほうを振り返り、告げる。
――戻りましょう。
「ですが、頬が……」
そう言いながら、エッタは動揺したようにクラリスの顔を見つめていた。それにつられて、そっと頬に手を伸ばす。ほんのりひりひりするが、軽く叩いただけだからそれもすぐに治まるだろう。それに大広間の熱気にあてられればおそらくさほど目立たないはずだ。……鏡がないから正確にはわからないけれど。
――バレやしないわ。ほら、早く……
そう言葉を紡いでいる途中だった。「やめてください!」と、悲鳴じみた声が耳朶を打つ。
なんだろう、と思ってあたりを見回していると、バルコニーの下、庭園にきらりと輝く何かが目に入った。そちらに視線をやる。
月光の下、長い銀髪を持つ少女が茶髪の男と向き合っていた。男が少女の手首を掴んでおり、少女は必死に抵抗しているようだが、庭園の奥へ奥へと連れて行かれそうになっている。よくわからないが、少女が嫌がっているのは明らかだった。
――エッタ、叫んで!
「何をやっているのですかっ!」
素早い指示にエッタは即座に反応し、大声で叫んだ。途端、二つの視線がこちらを射抜く。遠目なためあまりよくは見えなかったが、二人とも見られているとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開いたようだった。しばらくして我に返ったらしく、男は風のようにぴゅう、と去っていった。その姿はすぐに闇夜に溶け込む。
解放された少女はどこか戸惑っているようだった。けれど少しは冷静なのかぎこちない動作でスカートをつまみ、頭を下げる。かすかに「ありがとうございます」との言葉が聞こえてきた。
クラリスはそれを見て、エッタにもしっかりと理解できるよう、ゆっくりとした動きで手話を紡ぐ。
――大丈夫よ。気をつけて会場に戻りなさい。
エッタが代わりに声を発した。少女は困惑したように視線をさまよわせ、……やがてもう一度礼をするとその場から去っていく。もちろんあの男が消えていったのとは逆方向に、だ。しばらく歩けば王城の入り口に出るだろうから、これで安心だろう。
ほっと息をつくと、エッタも同じように安心しきった声を発した。
「良かったですね、大事にならなくて」
――本当にそうね。それにしても……あの男は誰かしら? ルークに報告したほうが良いかも。そしたら然るべき手段を教えてくれるでしょうし。
「ええ、そうしましょう」
エッタは神妙な顔で頷く。それを見てクラリスは――戻りましょうか、と改めて言ってその場を去った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
年増令嬢と記憶喪失
くきの助
恋愛
「お前みたいな年増に迫られても気持ち悪いだけなんだよ!」
そう言って思い切りローズを突き飛ばしてきたのは今日夫となったばかりのエリックである。
ちなみにベッドに座っていただけで迫ってはいない。
「吐き気がする!」と言いながら自室の扉を音を立てて開けて出ていった。
年増か……仕方がない……。
なぜなら彼は5才も年下。加えて付き合いの長い年下の恋人がいるのだから。
次の日事故で頭を強く打ち記憶が混濁したのを記憶喪失と間違われた。
なんとか誤解と言おうとするも、今までとは違う彼の態度になかなか言い出せず……
ベルガー子爵領結婚騒動記
文月黒
恋愛
その日、王都より遠く離れたベルガー子爵領は、俄かに浮き足立っていた。
何せ、ついに領民一同が待ち望んでいたベルガー子爵の結婚相手がやって来るのだ。
ちょっとだけ(当領比)特殊な領地の強面領主に嫁いで来たのは、王都の男爵家の末娘・マリア。
だが、花嫁は領主であるベルンハルトの顔を見るなり泣き出してしまった。
最悪な顔合わせをしてしまったベルンハルトとマリア。
慌てるベルンハルトの腹心の部下ヴォルフとマリアの侍女ローザ。
果たしてベルガー子爵領で彼らは幸せを掴めるのか。
ハピエン確定のサクッと読めるギャグ寄り恋愛ものです。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる