愛するお義兄様のために、『悪役令嬢』にはなりません!

白藤結

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番外編

ユリアナ(6)

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 それからユリアナは、彼の言う通りに過ごした。たとえ信頼されていなくても、言うことを聞かなくて、嫌われるのが恐ろしかったから。

 そして――。


△▼△


 カツ、カツ、と、ヒールの音を響かせながら、暗くて寒い、地下へと繋がる階段を降りていく。ランタンをかかげ、前を進むのはイアン。かつての婚約者だ。今は、友人の義兄。
 殿下に感謝しなくては、と、改めて思った。一国の王太子が、危険を顧みず、こんな面倒事を起こしたばかりの小娘の願いを叶えてくれるなんて、そうそうないことだろう。それが信用されていると実感できて、嬉しかった。

 思わず笑みをこぼすと、前方から「何を笑っているのですか?」と尋ねられる。だけど決して振り向かないあたり、なんだか彼らしい、と思えた。たぶん、ユリアナ相手にどんな顔をすればいいのかよく分かっていないに違いない。一応、元婚約者だから。利用し、利用されあった仲だから。
 そっと、口を開いた。

「何でもないですよ」
「……そうですか」

 再度、静寂が辺りを支配した。足音が響き渡り、反響する。それだけ。
 二人でゆっくりと階段を下っていくと、やがてぽう、と、小さな明かりが闇の中に浮かび上がった。微かで頼りない灯火ともしび。そこへ向かって、足を動かしていく。

 小さなランタンの下には、三十代と思われる男性がいた。イアンとは違い、武官の衣装をまとっている。そこに飾られた勲章の数から、それなりの高官であることがうかがえた。それはそうだろう。彼の立つ扉の向こう。そこにいるのは隔離せよ、と命じられた犯罪者ばかり。
 彼の前に立つと、イアンが口を開いた。

「イアン・アルハイムだ。後ろにいるのはユリアナ・イシュタール子爵令嬢」
「話は聞いております。少々お待ちください」

 そう言って、武官はユリアナらに背を向け、何か作業をし始めた。薄暗くて、よく見えない。おそらくいろいろと仕掛けがしてあって、それを解除しているのだろう。
 そう思っていると、ガチャン、と音がした。それと同時に武官は立ち上がり、「どうぞ」と言って扉を押した。
 何の抵抗もなしに扉は開き、その向こうにはまた、黒々とした闇が広がっていた。



 ユリアナはイアンに先導され、ゆっくりと奥へと進んでいく。最初、闇の中には何もないかと思ったが、そんなはずはなく、しっかりと鉄格子があり、そしてその向こう側には犯罪者たちがそれぞれ個室に入れられていた。両手両足に枷を施され、動けないようにされている。
 食事のときはどうするのかしら……? と、そんなことを考えながら、ユリアナは進む。そして、一つの牢獄の前でイアンがピタリと足を止め、そちらを指で示した。それに頷き、ユリアナは格子の前へ歩みを進める。

 そこには、かつて恋をした男がいた。更生不可能、と医者に認定され、閉じ込められた彼。いつもまとっていた煌びやかなドレスは脱ぎ捨てられ、白と黒の囚人服を着ていた。長い髪は一括りにされており、かつての美しさはどこへやら。ひどくくたびれているようだった。

 そんな、変わり果てた姿を見ながら、「リナ様」とユリアナは呼びかける。のろのろと、彼の頭が上がった。彼はこちらを見たあと、「あら、」と口を開く。

「どうしたの、ユリアナ? アタシを笑いに来たの?」

 その言葉に、ユリアナはそっと目を伏せた。リナからしてみれば、ユリアナはそんなことをするような人物に見られていたのだろうか。それだと、悲しい。五年もの間、彼のために様々なことをしてきたのに、それが認められていないなんて。

 そこまで考えて、ふっ、と自嘲した。また、こんなことを思ってしまっている。嫌われたくないと願ってしまっている。馬鹿ね、私。
「違います」と、唇を動かした。

「ただ、けじめをつけに」
「けじめ?」

 リナが首を傾げる。どうやらどうしてユリアナがこんなことをするのか、全くもって分からないらしい。そう、と心の中で呟きながら、彼の言葉に頷く。

「ええ、そうです。――リナ様は知らなかったでしょうが、私、初めて会ったときから、あなた様のことが好きだったのですよ」
「…………はぁ?」

 信じられない、とでも言うような、呆れたとでも言うような、侮蔑を含んだ声だった。唇を引き締める。そうでもしないと、泣いてしまいそうで。目頭が熱くなった。
 リナが声を発した。

「何よ、……それ。なんなのよっ!」

 彼は泣きそうな表情を浮かべながら叫ぶ。取り乱した様子で、ガチャガチャと手枷が揺れた。
 ユリアナは顔を歪めながら、告げる。

「……ごめんなさい。私は最初から、リナ様の望むヒロイン・・・・ではなかったのです」
「ふざけないでっ! どういうこと、どういうことよ! アタシは、アタシのしたことはなんなの!」

 痛々しい叫び声だった。彼の瞳に涙は浮かんでいないけれども、あまりにも辛そうな表情に、思わずズキリと胸が痛んだ。だけど首を振る。私にそんな資格なんてないわ。だって、私は――。

「この、裏切り者っ!」

 リナの叫びに、怒りや憎しみの滲んだ声に、ユリアナは自嘲した。そうよ、私は裏切り者。彼の期待を裏切ってしまった。だから、彼が怒るのは正当な権利。ずっとヒロインだと思っていた存在が、同じ顔、同じ名前を持つだけの別の存在のようなものだったのだから。
 そう思い、ユリアナは口を閉ざした。リナが何事か喚き続けるが、ただそれを粛々と受け止める。それが当然のことだと思った。
 だけど。

「……いい加減にしろ」

 凪いだ水面みなものような、だけど底では怒りがぐつぐつと煮えたぎっているような、そんな声がした。ハッ、として、ユリアナは後ろを振り返る。そこではイアンが静かに、けれど苛烈にリナを見つめていた。
 どうしたのだろう? と首を傾げる。何か、おかしかったかしら? そんなことを思いながらリナの方をちらりと見れば、彼も同じような表情をしながら疑問符を浮かべていた。彼も同じく分かっていない様子。「何よ?」と心底不思議そうな声を発した。

「アタシが何かした?」
「しているだろ!」

 イアンが叫ぶ。その声は暗闇の中に反響し、長い間鼓膜を揺さぶった。そのとき、他の囚人だろうか? どこからかくつくつと笑い声が聞こえてきた。それはすぐに、続けられた怒声によってかき消される。

「自分の望む通りな人物ではなかったというだけで『裏切り者』だなんて……。ユリアナ嬢を物扱いしているだろ! 彼女だって一人の人間なのに!」

 その言葉に、リナは意味が分からない、とでも言うように首を傾げた。
 ――この子は誰のものでもないわ。
 ふと、初めて出会ったとき、彼が母に向けて放った言葉が思い起こされた。当時、彼はユリアナは物ではなく、誰かの所有物ではないと言っていて……。

 思わず、乾いた笑いがこぼれた。そんなことを言っていたのに、確かに言われてみれば、彼は誰よりもユリアナを物扱いしていた。結局、それだけの器の男だったのだろう。小さな男。
 馬鹿みたい、と思った。こんな男に恋をして、初めてできた友人も裏切って、なのに結局棒に振って……本当に馬鹿。考えなしすぎる。
「そうね」と小さく笑って、言った。

「私は一人の人間だもの。……感情を制限されて、それができなかったからって、『裏切り者』だと言われる筋合いはないわ」
「そんなの屁理屈だわ! あなたはヒロイン! そうじゃなくなるなんて、許せるはずがないじゃない!」

 そう言って、リナはわーわーと叫ぶ。だけどそれを無視して、ユリアナはイアンの方を振り返ると「行きましょう」と言った。もう、ここにいる意味はない。
 彼はこちらを見ると、頷き、ランタンで足元を照らしながら元来た道を戻り始めた。叫び声が反響し、うるさい。どこからか「黙れ新人!」と声が聞こえてきた。囚人の一人だろう。その声もすごくうるさい、と言ってやりたい。
 そんなどうでもいいことを考えながら、リナから離れる。現実を実感したせいか、恋が終わったせいか生まれた胸の痛みは、無視した。



 長い時間歩き、外へと出る。人気のない、王都から少し離れた場所にある塔。その地下から抜け出し、約一時間ぶりの日光に思わず目を細めた。眩しくて、目が焼けてしまいそう。
 しばらくして、目が慣れたころ、ユリアナは「ありがとうございました」とイアンへ向けて言った。彼は微笑を浮かべる。

「ユリアナ嬢がここに来れたお礼は、どうぞ殿下に」
「いえ、それはもちろんですが……あのとき、反論してくださったことに対する礼です」

 あのとき、イアンがリナに対して言ってくれなければ、きっとユリアナの心はこんなにも晴れていなかっただろう。物扱いされていることに気づかず、もしくは見ないふりをして、彼への恋心を捨てられなかったかもしれない。そう考えると、感謝しかなかった。
 そう、淡く微笑みながら言うと、イアンは「いえ、」と首を横に振る。「私が言いたかっただけですから」

「それでも、です。本当にありがとうございました」

 そう伝えれば、彼は苦笑いを浮かべる。このお礼をどう受け取ればいいのか、よく分かっていないに違いない。そう思ったから、この話題はもう終わらせよう、と思った。お礼はこれから少しずつしていけばいい。例えば、彼の好きな人である友人のシェーラの悩みを聞くとか。問題があって、婚約もまだできていないらしいし。

 沈黙がおりた。どちらからともなく、少し離れたところに停めてあった馬車へと向かって歩き始めた。陽光が心地よい。
 そんなことを思っていると、「お嬢様・・・!」と声がした。そちらを見れば、停められた馬車の中から、待ちきれなかったのか、ヘレナが顔を出していた。喜色を浮かべ、微笑んでいる。御者台にはブライアンがいて、彼もほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
 ユリアナは笑顔を浮かべる。

「ただいま。大丈夫って言ったわよね?」
「それでも不安だったのですよ。お嬢様にお怪我がなくて、よかったです」

 そう言って、ヘレナはゆるりと口元を緩めた。心の底からそう思っていることの分かる、優しい笑みだった。そんな表情を見ていると、胸が温かくなって、幸せだと実感する。口元を綻ばせ、「ありがとう」と呟くように言うと、彼女が笑みを深くした。本当に、幸せだった。
 そのとき、どこからかため息が聞こえてきた。イアンがそうするはずもないから、残るは一人。そう当たりをつけてブライアンの方を見れば、彼は煩わしげに言った。

「ほら、早く帰るぞ。御者はずっと外にいなければならないから、暑いんだ」

 確かに、と思いながらユリアナは空を見上げる。近ごろ、だんだんと気温が上がってきた。もうすぐ夏がやって来る。「そういえば、」と口を開いた。

「あなたたちと出会ったのも、こんな季節だったわよね」

 当時は季節なんて意識してなかったから、あまりはっきりとは覚えていないけれど、確かそうだった気がする。確認の意味も込めてそう言うと、「ええ、そうですね」とヘレナが返事をした。彼女は目を細め、遠くを眺めている。自然と、ユリアナも過去を思い返した。

 リナと出会って、恋をして、屋敷に連れて行かれ、そして二人と出会った。その後、子爵家の養子になって……色々なことをした。恋のために友人を捨てることを選んだ。
 今思い返せば、何を馬鹿なことをしていたのだろう、と思う。リナに捨てられたとしても、周りにはこんなに人がいる。かつてとは違って、助けてくれる誰かがいる。だから当たって砕けて、彼らに助けてもらえばよかったのだ。視野の広がった今なら、そう思える。

「お嬢様」と呼ばれた。ヘレナの方を見れば、彼女はこちらを見て幸せそうに笑っていた。唇が動く。

「帰りましょう」
「――ええ」

 促され、馬車に乗り込む。そのときになってようやっとイアンが空気に徹してくれていたことに気づき、思わず笑ってしまった。またお礼をすることが増えたわ。
 馬車が動き始める。子爵邸に戻ればまた厄介者扱いされるだろうけれど、リナが捕まったあと父である子爵にお願いして雇ってもらったヘレナやブライアン、それにシェーラや、最近仲良くなったアイリーンなど、多くの人がいれば大丈夫。それだけで幸せになれる。
 そう思いながら、ユリアナはそっと目を閉じ、心地よい揺れに身をゆだねた。
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