2 / 84
《2》地味アラサー女は穏やかに過ごしたい(2)
しおりを挟む
「この度は倭の国きもの学院 着付け基本コースにご入会いただき誠にありがとうございます。深谷瑛美様の個人レッスンを担当いたします、清澄大和と申します」
流れるような優美な所作で三つ指を突き、頭を下げたのはよく見知った人物で。先ほどまで共にキーボードを叩いていた仕事仲間だった。
亀甲文様の青藍色の着物をきっちりと着こなした品位ある装い。全国に展開する大手着物着付け教室の、師範たる雰囲気を醸しだしている。
(な、何で清澄部長が、ここに? 着付け師範なんて聞いてない……!)
瑛美は五畳ほどの小さな和室の畳の上で正座をしながら、口端を吊り上げる美形を呆然と見つめた。
サラサラの黒髪は前髪にかかっていて、襟足はすっきりと切り揃えられ清潔感があり、着物姿にもよく似合っている。仕事場とは違い柔和な笑みを浮かべ、穏やかに挨拶をする様子は貴公子然としていて、思わず緊張してしまう。
「事前にいただいていたアンケートでは、ご友人の結婚式での白無垢姿に感銘を受けて受講の運びとなったと伺っております。この基本コースでは自装と他装の両方を学んでいただき……」
同じファッションECサイトの企画部に所属する深谷瑛美だと絶対に気がついているのに、何事もないかのように説明を続ける。
指摘したほうがよいのか、しないほうがよいのか。ぐるぐると逡巡するが、別に恥ずかしいことをしているわけではないし、堂々とするべきだと思い至った。
教室の説明の区切りがついたところで、瑛美は小さく声をあげた。
「あの、清澄部長……」
「ここでは大和先生と呼んでください。師弟間において名前で呼び合うのがこの学院の習わしなので」
「わ、わかりました。やまと、先生……」
「はい。何ですか瑛美さん」
慣れない呼び合いにカァっと頬が熱くなった。
(会社では締切の鬼と呼ばれている清澄部長が。人とは思えない形相で容赦なく仕事を振ってくる鬼上司が。私のことを瑛美さん、だなんて……!)
着物効果も相まってか、ものすごい色香をまとった大和は直視しがたいほどのオーラを放っている。
襟合わせから除く鎖骨のくぼみ。真っ直ぐ天へのびる背筋。
案内のパンフレットを持つ手のたもとがめくれて、逞しい腕の筋が浮き上がっている。なんと男らしい着姿なのだろう。
視線を合わすことができず、大和の着物の文様を見つめながら瑛美は疑問を投げかけた。
「あの……大和先生は副業で着付け講師をされているのですか?」
「そうです。退社後十八時半から、毎日ですね」
「だから絶対定時退社なのですね……」
鬼部長は自分も部下も絶対に残業をさせない。その代わりに締切に非常に厳しく、企画部社員はヒィヒィ言いながら日々の業務をこなしているというわけなのだ。
もちろん瑛美も被害者の一人である。
「さて、説明は一通り終わりましたので、早速着物を着てみましょう。使う道具は全てこちらに用意してあります。ところで、今日つけている下着はどのようなものでしょう?」
「ふぇっ?!」
流れるような優美な所作で三つ指を突き、頭を下げたのはよく見知った人物で。先ほどまで共にキーボードを叩いていた仕事仲間だった。
亀甲文様の青藍色の着物をきっちりと着こなした品位ある装い。全国に展開する大手着物着付け教室の、師範たる雰囲気を醸しだしている。
(な、何で清澄部長が、ここに? 着付け師範なんて聞いてない……!)
瑛美は五畳ほどの小さな和室の畳の上で正座をしながら、口端を吊り上げる美形を呆然と見つめた。
サラサラの黒髪は前髪にかかっていて、襟足はすっきりと切り揃えられ清潔感があり、着物姿にもよく似合っている。仕事場とは違い柔和な笑みを浮かべ、穏やかに挨拶をする様子は貴公子然としていて、思わず緊張してしまう。
「事前にいただいていたアンケートでは、ご友人の結婚式での白無垢姿に感銘を受けて受講の運びとなったと伺っております。この基本コースでは自装と他装の両方を学んでいただき……」
同じファッションECサイトの企画部に所属する深谷瑛美だと絶対に気がついているのに、何事もないかのように説明を続ける。
指摘したほうがよいのか、しないほうがよいのか。ぐるぐると逡巡するが、別に恥ずかしいことをしているわけではないし、堂々とするべきだと思い至った。
教室の説明の区切りがついたところで、瑛美は小さく声をあげた。
「あの、清澄部長……」
「ここでは大和先生と呼んでください。師弟間において名前で呼び合うのがこの学院の習わしなので」
「わ、わかりました。やまと、先生……」
「はい。何ですか瑛美さん」
慣れない呼び合いにカァっと頬が熱くなった。
(会社では締切の鬼と呼ばれている清澄部長が。人とは思えない形相で容赦なく仕事を振ってくる鬼上司が。私のことを瑛美さん、だなんて……!)
着物効果も相まってか、ものすごい色香をまとった大和は直視しがたいほどのオーラを放っている。
襟合わせから除く鎖骨のくぼみ。真っ直ぐ天へのびる背筋。
案内のパンフレットを持つ手のたもとがめくれて、逞しい腕の筋が浮き上がっている。なんと男らしい着姿なのだろう。
視線を合わすことができず、大和の着物の文様を見つめながら瑛美は疑問を投げかけた。
「あの……大和先生は副業で着付け講師をされているのですか?」
「そうです。退社後十八時半から、毎日ですね」
「だから絶対定時退社なのですね……」
鬼部長は自分も部下も絶対に残業をさせない。その代わりに締切に非常に厳しく、企画部社員はヒィヒィ言いながら日々の業務をこなしているというわけなのだ。
もちろん瑛美も被害者の一人である。
「さて、説明は一通り終わりましたので、早速着物を着てみましょう。使う道具は全てこちらに用意してあります。ところで、今日つけている下着はどのようなものでしょう?」
「ふぇっ?!」
27
あなたにおすすめの小説
禁断溺愛
流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
15歳差の御曹司に甘やかされています〜助けたはずがなぜか溺愛対象に〜 【完結】
日下奈緒
恋愛
雨の日の交差点。
車に轢かれそうになったスーツ姿の男性を、とっさに庇った大学生のひより。
そのまま病院へ運ばれ、しばらくの入院生活に。
目を覚ました彼女のもとに毎日現れたのは、助けたあの男性――そして、大手企業の御曹司・一ノ瀬玲央だった。
「俺にできることがあるなら、なんでもする」
花や差し入れを持って通い詰める彼に、戸惑いながらも心が惹かれていくひより。
けれど、退院の日に告げられたのは、彼のひとことだった。
「君、大学生だったんだ。……困ったな」
15歳という年の差、立場の違い、過去の恋。
簡単に踏み出せない距離があるのに、気づけばお互いを想う気持ちは止められなくなっていた――
「それでも俺は、君が欲しい」
助けたはずの御曹司から、溺れるほどに甘やかされる毎日が始まる。
これは、15歳差から始まる、不器用でまっすぐな恋の物語。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
契約書は婚姻届
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」
突然、降って湧いた結婚の話。
しかも、父親の工場と引き替えに。
「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」
突きつけられる契約書という名の婚姻届。
父親の工場を救えるのは自分ひとり。
「わかりました。
あなたと結婚します」
はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!?
若園朋香、26歳
ごくごく普通の、町工場の社長の娘
×
押部尚一郎、36歳
日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司
さらに
自分もグループ会社のひとつの社長
さらに
ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡
そして
極度の溺愛体質??
******
表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる