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一章
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夜風に晒された頬や肩から、徐々に現実味を帯びてゆく。
私はステファンから婚約と別れを告げられ、穏やかで光り輝く未来の崩壊、人生そのものの終焉、絶望の渦中からそれらを感じながら、呆然と、今宵の主役然として立派に挨拶をするその人を見つめていた。
悪夢に溺れていたとき、ふいに手を掴まれた。
彼のことは知っていた。
というか、貴族であれば誰もが知っている。
マルムフォーシュ伯爵。
ノルディーン公爵令息の末子であり、稀代の遊び人として名を馳せている。
ステファンが私の十歳年上なので、マルムフォーシュ伯爵は私とステファンの間くらいの年齢のはずだ。彼の結婚話はいつも婚約寸前のところで白紙に戻っている。遊び人だから、御相手にとってもその方が結果としては幸せにつながるだろう。
ステファンが先に結婚するのは妥当だ。
「……」
ステファン。
「ふぅ」
大袈裟な溜息をつきながら遠くに目線を遣った直後、マルムフォーシュ伯爵が私を見つめた。私には見つめ返すくらいのことしかできなかった。
「気分はどうだい?」
「最悪よ」
つい口から零れた本心。
私は驚いて自らの手で口を塞ぐ。
「だろうなぁ。君の心を傷つける為の宴と言ってもいいくらいだ」
「ステファンを侮辱するのはやめて」
また本心が。
大広間で失神しそうなほど冷えた体は、マルムフォーシュ伯爵に連れ回されているうちにすっかり熱を取り戻していた。そして、しっかり頭に血が上った。
私は態度を改めた。
「ロヴネル伯爵をお祝いする宴です」
相手は、ステファンを奪ったカールシュテイン侯爵家よりずっと格上の人物。でも私は戦わなければならない。
不埒な噂の絶えない遊び人にこの夜を穢されてたまるものですか。
「健気だねぇ」
品のない砕けた呆れ顔でマルムフォーシュ伯爵は再び溜息をついた。
私は怯まなかった。
「あの方の人生が祝福されることが、私の望みです」
「まあねぇ。素直というか、初心というか」
「なんです?……そう、どういうおつもりなのですか?」
「言ったろ?君を連れ去った」
「伺いました」
「俺の真心をわかってくれよ」
「まっ」
ま ご こ ろ?
「あ、あなたに真心なんて──!」
再び、私は咄嗟に自らの口を塞ぐ。
やはりステファンから受けたショックで多少の正気を失ってしまっている。どれだけ理性を掻き集めても、それは掻き集めることができた僅かな理性でしかないのだ。
「……」
さすがに、よくない。
相手はどれだけ無礼を働いても笑って許してくれそうな遊び人のマルムフォーシュ伯爵ではあるけれども、この人物はノルディーン公爵の末子であり、遡れば王家に辿り着くほどの高貴な血筋の上級貴族。
私は、無礼すぎる。
仮にマルムフォーシュ伯爵の兄上に同じ無礼を働いたとしたら、即刻、その場で切り捨てられてもおかしくはないのに。
「はっはっは!」
彼は笑った。
それはもう、朗らかに笑った。
「……」
多少、呆気に取られるのも無理はないと思う。
私は間違っていない。
「オースルンド伯爵令嬢は芯の強い方だ。その可憐な姿に惑わされてはいけない」
「……な」
揶揄われている。
とはいえ、不満を伝えようにも、私自身の誇りを守るためにもこれ以上の無礼は控えたほうがいいのは明らかだ。
「まあ、真心というか、本心を伝えよう」
砕けた様子でありながら、どこか畏まった態度になると、マルムフォーシュ伯爵がまっすぐに私を見つめた。
黙って背筋を伸ばしていれさえすれば、マルムフォーシュ伯爵は稀代の美青年で在ることには違いない。このまま絵画なり彫刻なりに封じ込めてしまった方が国の為とさえ思うくらい。
「君を誘いたい」
彫刻と言わず、氷漬けで良し。
「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」
怒りの炎に支配されて、私はつい断言してしまった。
なるほど。
私はステファンへの愛を隠さなかった。私達は公認の関係であり、周囲の態度もそれを裏付ける物だった。私が棄てられたのは誰の目からも明らかだ。
そんな私を玩具にしようと。
へえ。
そう。
「私は──」
言いかけた私に、マルムフォーシュ伯爵がぐっと顔を寄せてくる。私は口を噤み、肩を竦めるようにして僅かに後退った。
「誤解だよ」
マルムフォーシュ伯爵が囁く。
それはほろ苦い焼き菓子のように、独特の優しさを持つ声音だった。
「まあ、誤解させているんだが」
同じ声音で囁きながら、マルムフォーシュ伯爵が身を寄せてくる。私は避ける為に、今度は本格的に後退り、石壁まで追い詰められた。
その後、しっかり覆い被さってくるマルムフォーシュ伯爵。
それはまるで、宵闇に潜み愛を囁き合う恋人たちかのような距離。
鼓動は高鳴らない。
ステファンではないから。
けれど不思議と嫌悪感も湧き上がらない。
ステファンではないのに。……というか、不埒な遊び人マルムフォーシュ伯爵なのに。
「……」
確かめる為、私は覆い被さるマルムフォーシュ伯爵を見上げた。
彼は真顔で言った。
「これは密命なのだよ。俺はね、王家の密偵なんだ。だから何処にでも顔を出すのさ」
私はステファンから婚約と別れを告げられ、穏やかで光り輝く未来の崩壊、人生そのものの終焉、絶望の渦中からそれらを感じながら、呆然と、今宵の主役然として立派に挨拶をするその人を見つめていた。
悪夢に溺れていたとき、ふいに手を掴まれた。
彼のことは知っていた。
というか、貴族であれば誰もが知っている。
マルムフォーシュ伯爵。
ノルディーン公爵令息の末子であり、稀代の遊び人として名を馳せている。
ステファンが私の十歳年上なので、マルムフォーシュ伯爵は私とステファンの間くらいの年齢のはずだ。彼の結婚話はいつも婚約寸前のところで白紙に戻っている。遊び人だから、御相手にとってもその方が結果としては幸せにつながるだろう。
ステファンが先に結婚するのは妥当だ。
「……」
ステファン。
「ふぅ」
大袈裟な溜息をつきながら遠くに目線を遣った直後、マルムフォーシュ伯爵が私を見つめた。私には見つめ返すくらいのことしかできなかった。
「気分はどうだい?」
「最悪よ」
つい口から零れた本心。
私は驚いて自らの手で口を塞ぐ。
「だろうなぁ。君の心を傷つける為の宴と言ってもいいくらいだ」
「ステファンを侮辱するのはやめて」
また本心が。
大広間で失神しそうなほど冷えた体は、マルムフォーシュ伯爵に連れ回されているうちにすっかり熱を取り戻していた。そして、しっかり頭に血が上った。
私は態度を改めた。
「ロヴネル伯爵をお祝いする宴です」
相手は、ステファンを奪ったカールシュテイン侯爵家よりずっと格上の人物。でも私は戦わなければならない。
不埒な噂の絶えない遊び人にこの夜を穢されてたまるものですか。
「健気だねぇ」
品のない砕けた呆れ顔でマルムフォーシュ伯爵は再び溜息をついた。
私は怯まなかった。
「あの方の人生が祝福されることが、私の望みです」
「まあねぇ。素直というか、初心というか」
「なんです?……そう、どういうおつもりなのですか?」
「言ったろ?君を連れ去った」
「伺いました」
「俺の真心をわかってくれよ」
「まっ」
ま ご こ ろ?
「あ、あなたに真心なんて──!」
再び、私は咄嗟に自らの口を塞ぐ。
やはりステファンから受けたショックで多少の正気を失ってしまっている。どれだけ理性を掻き集めても、それは掻き集めることができた僅かな理性でしかないのだ。
「……」
さすがに、よくない。
相手はどれだけ無礼を働いても笑って許してくれそうな遊び人のマルムフォーシュ伯爵ではあるけれども、この人物はノルディーン公爵の末子であり、遡れば王家に辿り着くほどの高貴な血筋の上級貴族。
私は、無礼すぎる。
仮にマルムフォーシュ伯爵の兄上に同じ無礼を働いたとしたら、即刻、その場で切り捨てられてもおかしくはないのに。
「はっはっは!」
彼は笑った。
それはもう、朗らかに笑った。
「……」
多少、呆気に取られるのも無理はないと思う。
私は間違っていない。
「オースルンド伯爵令嬢は芯の強い方だ。その可憐な姿に惑わされてはいけない」
「……な」
揶揄われている。
とはいえ、不満を伝えようにも、私自身の誇りを守るためにもこれ以上の無礼は控えたほうがいいのは明らかだ。
「まあ、真心というか、本心を伝えよう」
砕けた様子でありながら、どこか畏まった態度になると、マルムフォーシュ伯爵がまっすぐに私を見つめた。
黙って背筋を伸ばしていれさえすれば、マルムフォーシュ伯爵は稀代の美青年で在ることには違いない。このまま絵画なり彫刻なりに封じ込めてしまった方が国の為とさえ思うくらい。
「君を誘いたい」
彫刻と言わず、氷漬けで良し。
「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」
怒りの炎に支配されて、私はつい断言してしまった。
なるほど。
私はステファンへの愛を隠さなかった。私達は公認の関係であり、周囲の態度もそれを裏付ける物だった。私が棄てられたのは誰の目からも明らかだ。
そんな私を玩具にしようと。
へえ。
そう。
「私は──」
言いかけた私に、マルムフォーシュ伯爵がぐっと顔を寄せてくる。私は口を噤み、肩を竦めるようにして僅かに後退った。
「誤解だよ」
マルムフォーシュ伯爵が囁く。
それはほろ苦い焼き菓子のように、独特の優しさを持つ声音だった。
「まあ、誤解させているんだが」
同じ声音で囁きながら、マルムフォーシュ伯爵が身を寄せてくる。私は避ける為に、今度は本格的に後退り、石壁まで追い詰められた。
その後、しっかり覆い被さってくるマルムフォーシュ伯爵。
それはまるで、宵闇に潜み愛を囁き合う恋人たちかのような距離。
鼓動は高鳴らない。
ステファンではないから。
けれど不思議と嫌悪感も湧き上がらない。
ステファンではないのに。……というか、不埒な遊び人マルムフォーシュ伯爵なのに。
「……」
確かめる為、私は覆い被さるマルムフォーシュ伯爵を見上げた。
彼は真顔で言った。
「これは密命なのだよ。俺はね、王家の密偵なんだ。だから何処にでも顔を出すのさ」
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