さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ

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一章 

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「御冗談を」

私の返答を予期していたのか、マルムフォーシュ伯爵はすっと目を細めて薄い微笑を浮かべる。

どきりとした。
それは見目麗しい上級貴族の微笑みだから、心が浮足立ったのとは違う。

言うなれば、畏れ。

その人物の深淵を覗いた瞬間に覚える、恐怖と神秘に、私は息を飲んだ。

「冗談でなければ、君は魅力を感じるだろう」
「……」
「君は純真で、正しい倫理観を備え、一方で冒険心を隠した女性だ。違うか?」
「……」
「困難に負けない強さがある。恐れを知らない勇気がある」
「……」
「不正や暴虐を許さない正義がある」
「……」
「困った人や傷ついた人を放っておけない優しさがある。人助けをする元気がある」

褒められている気分になってくる。

「俺は、ちょうど助手が欲しくなった今日この頃、君を知った」
「……それは……」
「買い被りとはご謙遜。君の人間的魅力はな、可憐な乙女の内側に騎士の魂が宿っているところだよ。俺はそれが欲しい。君の力を貸してくれ」

私に何ができると言うのだろう。
マルムフォーシュ伯爵の話が嘘偽りない事実であるとして、王家の密偵を担っているというのであれば、その助手という難しい職務に見合うだけの才能や能力が私に備わっているのだろうか。例え私にその自覚がなくても、マルムフォーシュ伯爵の目には、そう映るのだろうか。

愛する人に別れを告げられた直後の、惨めな私。
本当は今すぐにでもベッドで蹲って、誰の目にも晒されないところで、ステファンの名を叫びながら泣き喚きたい。そんな私が……

「俺に協力してくれたなら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」
「お受けします」

頭で考えるより先に、心のままに私はその誘いの手を取っていた。

私の人生からステファンを掻っ攫っていったカールシュテイン侯爵家の御令嬢ロヴィーサに人に言えない真実が隠されているのなら、是非とも知りたい。

「そうか?話が早いな」

マルムフォーシュ伯爵が、先程までと同じような砕けた表情になり身を起こした。私も石壁から背を剥がすと、二人の間に適切な空間を設ける為に数歩引いてくれさえした。

今となってみれば、選り取り見取り百戦錬磨の遊び人であるマルムフォーシュ伯爵の遊び相手になれるような素質こそ、私にはないのだ。そちらの遊びに誘われたと勘違いして断固拒否したことのほうが恥ずかしい。

「私を誘惑なさるのがお上手でした。さすがですね」
「お褒め頂き、どうも」
「これまで破談になられた御相手も、皆様その時その時の助手を務めていらしたのですか?」
「否、そうとも限らない」
「え?」
「正式な助手は君が初めてだ」
「……」

では、やはり遊び人である事に違いはない、と。
私は王家の密偵であるマルムフォーシュ伯爵の助手を務めながら、他で火遊びの火消しまでしなければならないのだろうか。それはちょっと、汚らわしい。

嫌悪感が顔に出ていたのだろうか。マルムフォーシュ伯爵はやや慌てたように早口で言った。

「調査対象や保護対象だよ。依頼主の場合もある」
「そうですか」

どことなく誤魔化すような口ぶりだったので、話半分に聞いておく。

「そういうことにしておきましょう。依頼主とは?先程、王家の密偵と仰ったのに」
「調査を進めていくうちに、明らかに被害を被っている側の人間がいたとする。そいつに事実を確認し、保護や解決を申し出る。お願いしますと、向こうが頭を下げる。交渉成立」
「調査結果を報告するまでという密偵のお仕事を越えて、自発的に人助けもなさるという意味ですか?」
「そうだ。やり甲斐があるだろう?」

私は暫く頭の中を整理してから簡潔に答えた。

「と、言いますか。見直しました」
「そうか、よかったよ。君は俺が嫌いだろうからね」
「……」

この場合、無言は肯定になってしまう。
あながち、誤解ではないから困る。

マルムフォーシュ伯爵はそこでふいに低く優しい声でこう問うた。

「寒くないか?」

夜風に晒されている。

「少し寒いですが、お互い様です」
「抱きしめてもよければ温めてさしあげるのだが」
「結構です」

これがステファンであったなら、喜んで腕の中に飛び込んだのに。
そんなことを考えてしまうくらいには、私は繊細で愚かでもあったし、彼の傍は心地よかった。

そう、居心地の良さを、私は既にこの夜から感じていたのだ。

こうして私はマルムフォーシュ伯爵と行動を共にする事となった。
王家の密偵の、その助手として。
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