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二章
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壮麗なレクセル城を前にすると、人生最大の緊張に襲われた。
「どうぞ、レディ」
先に馬車から降り立ったマルムフォーシュ伯爵が、甘く上品に微笑み私に手を差し伸べている。ステファンより美麗な容貌であることには違いないけれど、全く心は弾まない。
怖気づいていても始まらない。
ステファンと決別した私に、これ以上失うものは命くらいしかない。
そして今、命を取られる恐れはない。
自尊心と評判をこれ以上失わないように、王家の密偵マルムフォーシュ伯爵の助手をしっかりやり遂げなければ。
私はマルムフォーシュ伯爵の手を取った。
そうして馬車から地面へと足を下ろした瞬間、マルムフォーシュ伯爵がくすりと笑う気配を感じた。
一応、私を可愛いと感じているのは事実のようなので、和むに任せておく。私も幼子や人懐こい動物を見ると心が和む。同じだ。
「よろしく」
低い囁きが降る。
マルムフォーシュ伯爵は私の背に手を当ててそっと歩かせ、暫くすると手を離し私の斜め前を歩いた。
レクセル侯爵家の使用人たちはマルムフォーシュ伯爵を丁重に持成しつつ、私への疑問符を内心押し込んで同様に接しているのが明らかだった。
レクセル侯爵は私という存在を意にも留めない雰囲気だったけれど、マルムフォーシュ伯爵から助手という説明を受けると、表面上は納得した様子を見せた。
年嵩の執事に案内されて引き籠り令息の部屋へと向かう間、ずっと、冷たく張り詰めた沈黙が無数の針のように肌を刺す。
「ひりついてるな」
「……」
余裕綽々なマルムフォーシュ伯爵に咄嗟に応答できないでいると、励ますように背中をぽんと叩かれる。
隣を歩きながら背の高い彼を見上げる。
彼も私も、さほど首を曲げず目だけで互いを目視していた。
信頼も愛情もない相手とこれほど近く身を寄せて歩くこと自体、不思議で現実味がない。
「こちらです」
「どうも。暫く人払いを」
「畏まりました」
マルムフォーシュ伯爵が執事を下がらせる。数秒置いて私に目配せをした。私は心得ていると報せる為、はっきりと頷いた。
硬いノックの音の後、その声は届いた。
「放っておいてくれ!」
初めて聞く、レクセル侯爵令息の声。
低く擦れ、闇に彩られた絶望の音。たった一声に込められた悲嘆は、一瞬で私の胸を打ち砕く。
放っておけない。
深く傷ついた、助けを求める叫びを、無視できない。
「入ります」
私の声に合わせ、マルムフォーシュ伯爵が扉を押し開けた。
「……」
暗闇が広がる。
まだ昼日中だというのに、厚いカーテンが闇を囲っている。
「言っただろう。何も食べたくない」
私の声を、メイドと勘違いしたのだろう。
それでもこちらの姿さえ目に映しているのであれば、少なくとも使用人でないことはわかるはずだった。
この暗闇の中、どこに……?
「要らないんだ……下がりなさい……」
暗く覇気のない声を辿る。
やがて私は彼を見つけた。レクセル侯爵令息は、天蓋付きのベッドの上でシーツを被りこちらに半身を向けて座っているのだ。
「失礼」
マルムフォーシュ伯爵が声をかけた。
「急な来訪に驚くかもしれないが、俺はマルムフォーシュ伯爵。友として、貴殿の思い煩いを慰めに来た」
いつもより畏まった口調ではあるものの、親しみやすさは変わらない。人によっては馴れ馴れしさとも取れる距離感だ。
「え……?」
暗闇から返される声も戸惑っている。
「彼女は、俺の付添い。カタリーナだ。オースルンド伯爵の娘と言えばわかるだろうか」
「……あなたは友ではありませんし、女連れで来る意味がわかりません」
引き籠っている割にといっては失礼だけれど、辛辣な言葉を放つ元気はある様子。そして正論でもある。
「まあ、そう言うな。随分と塞ぎ込んでいるらしいじゃないか。どうだ、俺に話してみないか」
「なんなんです、あなた……」
「友だ。ドグラスと呼んでくれてもいい」
「お断りします」
「つれないな」
「何しに来たんですか、あなた……」
王家の密偵というのは、これほどまでにも邪険にされるほど頼りなくても務まるのだろうか。だから私という助手を必要としている……?
「ラルフ様」
私が呼ぶと、暗闇の中から別の拒絶の空気が返された。
「皆様、大変お気にかけておいでです。このような親しみやすい方を御相手になされば、少しは心の内も軽くなるのではとお考えなのだと思います」
「君、馬鹿じゃないか?」
「……」
顔も見せないで、随分と強気な引き籠りね。
若干の苛立ちを覚えた私は数歩部屋の中へと足を進めた。
「年頃の伯爵令嬢が、そんな不埒な噂の絶えない男と行動するなんて、自ら身の破滅を招くようなものだよ」
「御心配いただきありがとうございます。私は、平気です」
愛するステファンと決別した私には、破滅など些末な問題だ。
「ああ、そう。まあ、どうでもいいけど」
「……」
暗闇の中で更にシーツに包まっているにしては、さほど精神的に参っている感じではない。
「きちんと召し上がれていますか?」
「君には関係ない」
「窓を開けましょうか」
「関係ないと言っただろう」
「関係のある方が戸惑っていらっしゃるから、関係のない私たちが御機嫌取りに伺ったのですよ?わかりませんか?」
「……」
思いの他饒舌だったその口が返す沈黙の重さに、私は一瞬、無礼が過ぎただろうかと焦る。
併し、次の瞬間。
「そういうことか……!」
レクセル侯爵令息は声を震わせた。
血を吐くような、痛々しい悲嘆。それは再び私の胸を激しく撃った。
「どうぞ、レディ」
先に馬車から降り立ったマルムフォーシュ伯爵が、甘く上品に微笑み私に手を差し伸べている。ステファンより美麗な容貌であることには違いないけれど、全く心は弾まない。
怖気づいていても始まらない。
ステファンと決別した私に、これ以上失うものは命くらいしかない。
そして今、命を取られる恐れはない。
自尊心と評判をこれ以上失わないように、王家の密偵マルムフォーシュ伯爵の助手をしっかりやり遂げなければ。
私はマルムフォーシュ伯爵の手を取った。
そうして馬車から地面へと足を下ろした瞬間、マルムフォーシュ伯爵がくすりと笑う気配を感じた。
一応、私を可愛いと感じているのは事実のようなので、和むに任せておく。私も幼子や人懐こい動物を見ると心が和む。同じだ。
「よろしく」
低い囁きが降る。
マルムフォーシュ伯爵は私の背に手を当ててそっと歩かせ、暫くすると手を離し私の斜め前を歩いた。
レクセル侯爵家の使用人たちはマルムフォーシュ伯爵を丁重に持成しつつ、私への疑問符を内心押し込んで同様に接しているのが明らかだった。
レクセル侯爵は私という存在を意にも留めない雰囲気だったけれど、マルムフォーシュ伯爵から助手という説明を受けると、表面上は納得した様子を見せた。
年嵩の執事に案内されて引き籠り令息の部屋へと向かう間、ずっと、冷たく張り詰めた沈黙が無数の針のように肌を刺す。
「ひりついてるな」
「……」
余裕綽々なマルムフォーシュ伯爵に咄嗟に応答できないでいると、励ますように背中をぽんと叩かれる。
隣を歩きながら背の高い彼を見上げる。
彼も私も、さほど首を曲げず目だけで互いを目視していた。
信頼も愛情もない相手とこれほど近く身を寄せて歩くこと自体、不思議で現実味がない。
「こちらです」
「どうも。暫く人払いを」
「畏まりました」
マルムフォーシュ伯爵が執事を下がらせる。数秒置いて私に目配せをした。私は心得ていると報せる為、はっきりと頷いた。
硬いノックの音の後、その声は届いた。
「放っておいてくれ!」
初めて聞く、レクセル侯爵令息の声。
低く擦れ、闇に彩られた絶望の音。たった一声に込められた悲嘆は、一瞬で私の胸を打ち砕く。
放っておけない。
深く傷ついた、助けを求める叫びを、無視できない。
「入ります」
私の声に合わせ、マルムフォーシュ伯爵が扉を押し開けた。
「……」
暗闇が広がる。
まだ昼日中だというのに、厚いカーテンが闇を囲っている。
「言っただろう。何も食べたくない」
私の声を、メイドと勘違いしたのだろう。
それでもこちらの姿さえ目に映しているのであれば、少なくとも使用人でないことはわかるはずだった。
この暗闇の中、どこに……?
「要らないんだ……下がりなさい……」
暗く覇気のない声を辿る。
やがて私は彼を見つけた。レクセル侯爵令息は、天蓋付きのベッドの上でシーツを被りこちらに半身を向けて座っているのだ。
「失礼」
マルムフォーシュ伯爵が声をかけた。
「急な来訪に驚くかもしれないが、俺はマルムフォーシュ伯爵。友として、貴殿の思い煩いを慰めに来た」
いつもより畏まった口調ではあるものの、親しみやすさは変わらない。人によっては馴れ馴れしさとも取れる距離感だ。
「え……?」
暗闇から返される声も戸惑っている。
「彼女は、俺の付添い。カタリーナだ。オースルンド伯爵の娘と言えばわかるだろうか」
「……あなたは友ではありませんし、女連れで来る意味がわかりません」
引き籠っている割にといっては失礼だけれど、辛辣な言葉を放つ元気はある様子。そして正論でもある。
「まあ、そう言うな。随分と塞ぎ込んでいるらしいじゃないか。どうだ、俺に話してみないか」
「なんなんです、あなた……」
「友だ。ドグラスと呼んでくれてもいい」
「お断りします」
「つれないな」
「何しに来たんですか、あなた……」
王家の密偵というのは、これほどまでにも邪険にされるほど頼りなくても務まるのだろうか。だから私という助手を必要としている……?
「ラルフ様」
私が呼ぶと、暗闇の中から別の拒絶の空気が返された。
「皆様、大変お気にかけておいでです。このような親しみやすい方を御相手になされば、少しは心の内も軽くなるのではとお考えなのだと思います」
「君、馬鹿じゃないか?」
「……」
顔も見せないで、随分と強気な引き籠りね。
若干の苛立ちを覚えた私は数歩部屋の中へと足を進めた。
「年頃の伯爵令嬢が、そんな不埒な噂の絶えない男と行動するなんて、自ら身の破滅を招くようなものだよ」
「御心配いただきありがとうございます。私は、平気です」
愛するステファンと決別した私には、破滅など些末な問題だ。
「ああ、そう。まあ、どうでもいいけど」
「……」
暗闇の中で更にシーツに包まっているにしては、さほど精神的に参っている感じではない。
「きちんと召し上がれていますか?」
「君には関係ない」
「窓を開けましょうか」
「関係ないと言っただろう」
「関係のある方が戸惑っていらっしゃるから、関係のない私たちが御機嫌取りに伺ったのですよ?わかりませんか?」
「……」
思いの他饒舌だったその口が返す沈黙の重さに、私は一瞬、無礼が過ぎただろうかと焦る。
併し、次の瞬間。
「そういうことか……!」
レクセル侯爵令息は声を震わせた。
血を吐くような、痛々しい悲嘆。それは再び私の胸を激しく撃った。
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