さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ

文字の大きさ
6 / 79
二章

しおりを挟む
壮麗なレクセル城を前にすると、人生最大の緊張に襲われた。

「どうぞ、レディ」

先に馬車から降り立ったマルムフォーシュ伯爵が、甘く上品に微笑み私に手を差し伸べている。ステファンより美麗な容貌であることには違いないけれど、全く心は弾まない。

怖気づいていても始まらない。
ステファンと決別した私に、これ以上失うものは命くらいしかない。

そして今、命を取られる恐れはない。
自尊心と評判をこれ以上失わないように、王家の密偵マルムフォーシュ伯爵の助手をしっかりやり遂げなければ。

私はマルムフォーシュ伯爵の手を取った。
そうして馬車から地面へと足を下ろした瞬間、マルムフォーシュ伯爵がくすりと笑う気配を感じた。

一応、私を可愛いと感じているのは事実のようなので、和むに任せておく。私も幼子や人懐こい動物を見ると心が和む。同じだ。

「よろしく」

低い囁きが降る。
マルムフォーシュ伯爵は私の背に手を当ててそっと歩かせ、暫くすると手を離し私の斜め前を歩いた。

レクセル侯爵家の使用人たちはマルムフォーシュ伯爵を丁重に持成しつつ、私への疑問符を内心押し込んで同様に接しているのが明らかだった。

レクセル侯爵は私という存在を意にも留めない雰囲気だったけれど、マルムフォーシュ伯爵から助手という説明を受けると、表面上は納得した様子を見せた。

年嵩の執事に案内されて引き籠り令息の部屋へと向かう間、ずっと、冷たく張り詰めた沈黙が無数の針のように肌を刺す。

「ひりついてるな」
「……」

余裕綽々なマルムフォーシュ伯爵に咄嗟に応答できないでいると、励ますように背中をぽんと叩かれる。

隣を歩きながら背の高い彼を見上げる。
彼も私も、さほど首を曲げず目だけで互いを目視していた。
信頼も愛情もない相手とこれほど近く身を寄せて歩くこと自体、不思議で現実味がない。

「こちらです」
「どうも。暫く人払いを」
「畏まりました」

マルムフォーシュ伯爵が執事を下がらせる。数秒置いて私に目配せをした。私は心得ていると報せる為、はっきりと頷いた。

硬いノックの音の後、その声は届いた。

「放っておいてくれ!」

初めて聞く、レクセル侯爵令息の声。
低く擦れ、闇に彩られた絶望の音。たった一声に込められた悲嘆は、一瞬で私の胸を打ち砕く。

放っておけない。
深く傷ついた、助けを求める叫びを、無視できない。

「入ります」

私の声に合わせ、マルムフォーシュ伯爵が扉を押し開けた。

「……」

暗闇が広がる。
まだ昼日中だというのに、厚いカーテンが闇を囲っている。

「言っただろう。何も食べたくない」

私の声を、メイドと勘違いしたのだろう。
それでもこちらの姿さえ目に映しているのであれば、少なくとも使用人でないことはわかるはずだった。

この暗闇の中、どこに……?

「要らないんだ……下がりなさい……」

暗く覇気のない声を辿る。
やがて私は彼を見つけた。レクセル侯爵令息は、天蓋付きのベッドの上でシーツを被りこちらに半身を向けて座っているのだ。

「失礼」

マルムフォーシュ伯爵が声をかけた。

「急な来訪に驚くかもしれないが、俺はマルムフォーシュ伯爵。友として、貴殿の思い煩いを慰めに来た」

いつもより畏まった口調ではあるものの、親しみやすさは変わらない。人によっては馴れ馴れしさとも取れる距離感だ。

「え……?」

暗闇から返される声も戸惑っている。

「彼女は、俺の付添い。カタリーナだ。オースルンド伯爵の娘と言えばわかるだろうか」
「……あなたは友ではありませんし、女連れで来る意味がわかりません」

引き籠っている割にといっては失礼だけれど、辛辣な言葉を放つ元気はある様子。そして正論でもある。

「まあ、そう言うな。随分と塞ぎ込んでいるらしいじゃないか。どうだ、俺に話してみないか」
「なんなんです、あなた……」
「友だ。ドグラスと呼んでくれてもいい」
「お断りします」
「つれないな」
「何しに来たんですか、あなた……」

王家の密偵というのは、これほどまでにも邪険にされるほど頼りなくても務まるのだろうか。だから私という助手を必要としている……?

「ラルフ様」

私が呼ぶと、暗闇の中から別の拒絶の空気が返された。

「皆様、大変お気にかけておいでです。このような親しみやすい方を御相手になされば、少しは心の内も軽くなるのではとお考えなのだと思います」
「君、馬鹿じゃないか?」
「……」

顔も見せないで、随分と強気な引き籠りね。
若干の苛立ちを覚えた私は数歩部屋の中へと足を進めた。

「年頃の伯爵令嬢が、そんな不埒な噂の絶えない男と行動するなんて、自ら身の破滅を招くようなものだよ」
「御心配いただきありがとうございます。私は、平気です」

愛するステファンと決別した私には、破滅など些末な問題だ。

「ああ、そう。まあ、どうでもいいけど」
「……」

暗闇の中で更にシーツに包まっているにしては、さほど精神的に参っている感じではない。

「きちんと召し上がれていますか?」
「君には関係ない」
「窓を開けましょうか」
「関係ないと言っただろう」
「関係のある方が戸惑っていらっしゃるから、関係のない私たちが御機嫌取りに伺ったのですよ?わかりませんか?」
「……」

思いの他饒舌だったその口が返す沈黙の重さに、私は一瞬、無礼が過ぎただろうかと焦る。
併し、次の瞬間。

「そういうことか……!」

レクセル侯爵令息は声を震わせた。
血を吐くような、痛々しい悲嘆。それは再び私の胸を激しく撃った。
しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

さよなら、悪女に夢中な王子様〜婚約破棄された令嬢は、真の聖女として平和な学園生活を謳歌する〜

平山和人
恋愛
公爵令嬢アイリス・ヴェスペリアは、婚約者である第二王子レオンハルトから、王女のエステルのために理不尽な糾弾を受け、婚約破棄と社交界からの追放を言い渡される。 心身を蝕まれ憔悴しきったその時、アイリスは前世の記憶と、自らの家系が代々受け継いできた『浄化の聖女』の真の力を覚醒させる。自分が陥れられた原因が、エステルの持つ邪悪な魔力に触発されたレオンハルトの歪んだ欲望だったことを知ったアイリスは、力を隠し、追放先の辺境の学園へ進学。 そこで出会ったのは、学園の異端児でありながら、彼女の真の力を見抜く魔術師クライヴと、彼女の過去を知り静かに見守る優秀な生徒会長アシェル。 一方、アイリスを失った王都では、エステルの影響力が増し、国政が混乱を極め始める。アイリスは、愛と権力を失った代わりに手に入れた静かな幸せと、聖女としての使命の間で揺れ動く。 これは、真実の愛と自己肯定を見つけた令嬢が、元婚約者の愚かさに裁きを下し、やがて来る国の危機を救うまでの物語。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

〖完結〗旦那様が愛していたのは、私ではありませんでした……

藍川みいな
恋愛
「アナベル、俺と結婚して欲しい。」 大好きだったエルビン様に結婚を申し込まれ、私達は結婚しました。優しくて大好きなエルビン様と、幸せな日々を過ごしていたのですが…… ある日、お姉様とエルビン様が密会しているのを見てしまいました。 「アナベルと結婚したら、こうして君に会うことが出来ると思ったんだ。俺達は家族だから、怪しまれる心配なくこの邸に出入り出来るだろ?」 エルビン様はお姉様にそう言った後、愛してると囁いた。私は1度も、エルビン様に愛してると言われたことがありませんでした。 エルビン様は私ではなくお姉様を愛していたと知っても、私はエルビン様のことを愛していたのですが、ある事件がきっかけで、私の心はエルビン様から離れていく。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 かなり気分が悪い展開のお話が2話あるのですが、読まなくても本編の内容に影響ありません。(36話37話) 全44話で完結になります。

【完結】愛で結ばれたはずの夫に捨てられました

ユユ
恋愛
「出て行け」 愛を囁き合い、祝福されずとも全てを捨て 結ばれたはずだった。 「金輪際姿を表すな」 義父から嫁だと認めてもらえなくても 義母からの仕打ちにもメイド達の嫌がらせにも 耐えてきた。 「もうおまえを愛していない」 結婚4年、やっと待望の第一子を産んだ。 義務でもあった男児を産んだ。 なのに 「不義の子と去るがいい」 「あなたの子よ!」 「私の子はエリザベスだけだ」 夫は私を裏切っていた。 * 作り話です * 3万文字前後です * 完結保証付きです * 暇つぶしにどうぞ

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

さようなら、わたくしの騎士様

夜桜
恋愛
騎士様からの突然の『さようなら』(婚約破棄)に辺境伯令嬢クリスは微笑んだ。 その時を待っていたのだ。 クリスは知っていた。 騎士ローウェルは裏切ると。 だから逆に『さようなら』を言い渡した。倍返しで。

幼馴染の王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。

藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。 何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。 同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。 もうやめる。 カイン様との婚約は解消する。 でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。 愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません! 一度完結したのですが、続編を書くことにしました。読んでいただけると嬉しいです。 いつもありがとうございます。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。

処理中です...