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寒い朝だった。
震えながら目が覚めて、我が身を抱きしめる。ただとにかく恐ろしかった。今日はとても悪い日になる。そう思わずにはいられなかった。
ただそれが寝起きという無防備な数分だけの気の迷いだとわかっていた。
身支度を整え朝食をとりに食堂へ下りる頃になると、気持ちはすっかり落ち着いていた。覚悟を決めるしかない。ここで慌てても意味がない。
冬を前にした備えの大詰めといったこの時期、レイヴァンズクロフトの宿場町はある種の緊張感を伴い賑わっている。人々は明るいけれど、皆、寒く厳しい冬への覚悟を秘めているのだ。
幸い農場からは根菜が、牧場からはミルクとチーズが絶えず届けられるため、蓄えた小麦と併せ食物に困る事はない。
頭ではそう理解していた。
実際の宿屋の風景はもっと家庭的で温かかった。
焼きたてのパンの匂いが上ってきており、私は手摺に頼りながら早足で階段を下りた。給仕を手伝っていたジョニーが目敏く私を見つけ、笑顔でぺこりと頭を下げる。私は微笑み、小さく手を振った。
食堂を見渡しても司祭と騎士の姿はなかった。
隣室から気配を感じなかったから、もう下りてきているかと思っていた。
どうしようかと逡巡しているとジョニーが駆け寄ってきて、昨晩の席へ案内してくれる。その手には瑞々しい果実が山盛りになった皿があり、私が座ると同時に目の前に置いてくれた。
「ベリーサラダです」
「ありがとう」
「それと、パーシヴァルさんから伝言です」
やはり留守なのだ。
「神父様の朝のお祈りが終わる頃に戻るって」
「そう……」
確かに、マクミラン司祭は現実離れした容姿ではあるけれど間違いなく聖職者なのだ。隣室で一人静かに祈っていたと言われれば納得だった。
「あの……貴族の女の人が一人で食事してるところを見た事がないです。お部屋にお茶をお持ちしましょうか?」
仕事熱心なジョニーが可愛くて、どことなく誇らしい気持ちにもなる。
「少しここで待つわ」
「わかりました。すぐお茶をお持ちします!」
ジョニーの小さな背中を見送り、私は瑞々しいベリーを一つ口に運ぶ。目が覚める味。
しばらく活気づいた朝の食堂を眺めていると、強烈に目を引く男性が現れた。美しい金髪を項の辺りで結び、上質な衣服に身を包んだ上級貴族。光の粒を放っているかのように神々しい美しさと優雅な身のこなしに思わず見惚れてしまう。
「……」
マクミラン司祭だった。
普通の人の格好をしている。
「……いえ、人よね。人だわ……」
少なくとも司祭であって天使ではない。
マクミラン司祭は私を見つけると特に表情を変えずこちらに歩いてきた。
「おはよう、エスター」
透き通る碧い瞳が杭のように私を貫く。
「お、おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい。お陰様で……」
向かいに腰を下ろしながら注意深く私を観察している。緊張で喉が渇き、私はティーカップを口に運んでから無言でベリーサラダの皿を押し出した。
長い指が一つ抓み、口元へ運ぶ。今日になってもまだこの美形司祭が普通に飲み食いする姿を見るとどことなく不思議で見入ってしまう。
「うん。美味しい」
司祭が吟味し、次の一つに手を伸ばした。
そこへ時を見計らったようにパーシヴァルが食堂へと入ってくる。
「……!」
救われた気持ち。
パーシヴァルは私と目が合うと笑顔で手を上げて応え、足早に向かってきて席についた。そしてベリーを咀嚼しているマクミラン司祭を怪訝そうに見遣る。
「それが動き易い格好?」
かく言うパーシヴァルも騎士には見えない。
逞しすぎるにしてもやや上品な行商人か、軍隊上がりの贅沢を覚えた男爵等、そんな雰囲気だ。
「今日が変装する日とは存じませんでした」
私は何故かそんなことを口走ってしまう。
パーシヴァルが笑顔で応じ身を乗り出して声を潜めた。
「少し調査してきたんですが、どうやら麓付近の人気のない所に山荘直通の馬屋があるそうです」
「え……?」
和やかな朝の空気が一変する。
「まあ、馬と言うか驢馬だそうですよ。なだらかだろうと山道ですから、驢馬の方が乗る方も安心でしょう」
驢馬の背は低く、歩調もゆっくりしている。
理屈の上では納得できるけれど……
「道を整備しているということですか?」
領地経営をしている身でありながらパーシヴァルに尋ねてしまった。パーシヴァルは私の為体を気にも留めず力強く頷いた。
「そのようです」
「取引のある店は?」
マクミラン司祭が尋ねる。パーシヴァルはまた頷き、一段と声を潜めた。
「とりあえず三軒。酒屋と、布の仲買、あと肉屋です」
「……」
言葉を失った。
私が把握していないのだから、裏取引が行われているという事だ。私は額を押え溜息をついていた。
「頑張って、エスター。もうじき終わる」
マクミラン司祭の声は深く優しいもので、私への思いやりに嘘は見受けられない。
ただその優しさが、私には酷く残酷に響く。
ルシアンがここにいる。
罪人として。
彼に会わなくてはいけない。
今日はとても、悪い日になる。
震えながら目が覚めて、我が身を抱きしめる。ただとにかく恐ろしかった。今日はとても悪い日になる。そう思わずにはいられなかった。
ただそれが寝起きという無防備な数分だけの気の迷いだとわかっていた。
身支度を整え朝食をとりに食堂へ下りる頃になると、気持ちはすっかり落ち着いていた。覚悟を決めるしかない。ここで慌てても意味がない。
冬を前にした備えの大詰めといったこの時期、レイヴァンズクロフトの宿場町はある種の緊張感を伴い賑わっている。人々は明るいけれど、皆、寒く厳しい冬への覚悟を秘めているのだ。
幸い農場からは根菜が、牧場からはミルクとチーズが絶えず届けられるため、蓄えた小麦と併せ食物に困る事はない。
頭ではそう理解していた。
実際の宿屋の風景はもっと家庭的で温かかった。
焼きたてのパンの匂いが上ってきており、私は手摺に頼りながら早足で階段を下りた。給仕を手伝っていたジョニーが目敏く私を見つけ、笑顔でぺこりと頭を下げる。私は微笑み、小さく手を振った。
食堂を見渡しても司祭と騎士の姿はなかった。
隣室から気配を感じなかったから、もう下りてきているかと思っていた。
どうしようかと逡巡しているとジョニーが駆け寄ってきて、昨晩の席へ案内してくれる。その手には瑞々しい果実が山盛りになった皿があり、私が座ると同時に目の前に置いてくれた。
「ベリーサラダです」
「ありがとう」
「それと、パーシヴァルさんから伝言です」
やはり留守なのだ。
「神父様の朝のお祈りが終わる頃に戻るって」
「そう……」
確かに、マクミラン司祭は現実離れした容姿ではあるけれど間違いなく聖職者なのだ。隣室で一人静かに祈っていたと言われれば納得だった。
「あの……貴族の女の人が一人で食事してるところを見た事がないです。お部屋にお茶をお持ちしましょうか?」
仕事熱心なジョニーが可愛くて、どことなく誇らしい気持ちにもなる。
「少しここで待つわ」
「わかりました。すぐお茶をお持ちします!」
ジョニーの小さな背中を見送り、私は瑞々しいベリーを一つ口に運ぶ。目が覚める味。
しばらく活気づいた朝の食堂を眺めていると、強烈に目を引く男性が現れた。美しい金髪を項の辺りで結び、上質な衣服に身を包んだ上級貴族。光の粒を放っているかのように神々しい美しさと優雅な身のこなしに思わず見惚れてしまう。
「……」
マクミラン司祭だった。
普通の人の格好をしている。
「……いえ、人よね。人だわ……」
少なくとも司祭であって天使ではない。
マクミラン司祭は私を見つけると特に表情を変えずこちらに歩いてきた。
「おはよう、エスター」
透き通る碧い瞳が杭のように私を貫く。
「お、おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい。お陰様で……」
向かいに腰を下ろしながら注意深く私を観察している。緊張で喉が渇き、私はティーカップを口に運んでから無言でベリーサラダの皿を押し出した。
長い指が一つ抓み、口元へ運ぶ。今日になってもまだこの美形司祭が普通に飲み食いする姿を見るとどことなく不思議で見入ってしまう。
「うん。美味しい」
司祭が吟味し、次の一つに手を伸ばした。
そこへ時を見計らったようにパーシヴァルが食堂へと入ってくる。
「……!」
救われた気持ち。
パーシヴァルは私と目が合うと笑顔で手を上げて応え、足早に向かってきて席についた。そしてベリーを咀嚼しているマクミラン司祭を怪訝そうに見遣る。
「それが動き易い格好?」
かく言うパーシヴァルも騎士には見えない。
逞しすぎるにしてもやや上品な行商人か、軍隊上がりの贅沢を覚えた男爵等、そんな雰囲気だ。
「今日が変装する日とは存じませんでした」
私は何故かそんなことを口走ってしまう。
パーシヴァルが笑顔で応じ身を乗り出して声を潜めた。
「少し調査してきたんですが、どうやら麓付近の人気のない所に山荘直通の馬屋があるそうです」
「え……?」
和やかな朝の空気が一変する。
「まあ、馬と言うか驢馬だそうですよ。なだらかだろうと山道ですから、驢馬の方が乗る方も安心でしょう」
驢馬の背は低く、歩調もゆっくりしている。
理屈の上では納得できるけれど……
「道を整備しているということですか?」
領地経営をしている身でありながらパーシヴァルに尋ねてしまった。パーシヴァルは私の為体を気にも留めず力強く頷いた。
「そのようです」
「取引のある店は?」
マクミラン司祭が尋ねる。パーシヴァルはまた頷き、一段と声を潜めた。
「とりあえず三軒。酒屋と、布の仲買、あと肉屋です」
「……」
言葉を失った。
私が把握していないのだから、裏取引が行われているという事だ。私は額を押え溜息をついていた。
「頑張って、エスター。もうじき終わる」
マクミラン司祭の声は深く優しいもので、私への思いやりに嘘は見受けられない。
ただその優しさが、私には酷く残酷に響く。
ルシアンがここにいる。
罪人として。
彼に会わなくてはいけない。
今日はとても、悪い日になる。
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