王女様、それは酷すぎませんか?

希猫 ゆうみ

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50(ジェーン)

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「あの、私です。入ります……」

ビズマーク伯爵令嬢ヒルデガルドが泣き寝入りせず反旗を翻し男娼の館《ユフシェリア》に向かったと知った時は面白いと思ったし、利用できると思った。

併し王家を味方につけた宮廷裁判という私の予想を遥かに超える大逆転で潔白を勝ち取った。現実的に対峙するのは遠慮したい程度には時の人になっていた。
もう気まずいったらない。

「ヒルデガルド様ぁ……?」

無駄な相手と承知しつつも猫なで声で媚びを売ってしまう。
常日頃、鬱陶しいと感じていた父の態度にそっくりで寒気を覚えた。

ヒルデガルドは浅くベッドに腰かけ、疲れた様子で項垂れていた。朦朧とまではいかないにしろ、やや呆然とした表情に私は一瞬にして焦りその足元に駆け寄って跪いた。そうしなければきちんと顔を確認できないからだ。

「大丈夫ですか?」
「……ええ。お手間をかけてごめんなさい」
「いいですよ、そんなこと」

蒸し返すようだが私が先に卵を投げたのだ。
身の周りの世話など、頼んでもさせてもらえないのが当然な身分である。手の甲を叩かれるくらいどうということはない。本当にそれで済んだのだとしたら、私だってヒルデガルドの犬として仕えたいくらいだ。

冗談はさて置き。

ヒルデガルドは辛そうに浅い呼吸を繰り返している。

「横になりますか?」
「……そうね」
「着替えが届く前に、脱いでしまいましょうか。その方が休みやすいですよ」
「お願いします」

私にまで丁寧な口調を使うことはないのに、ヒルデガルドはそう言ってぎこちなく背中を向ける。

併し、あの野郎。こんな小柄で無力そうな嫁入り前の令嬢を杖で滅多打ちにするなんて、どうかしてる。王女に捕まる前から残虐な素質があったとした思えない。

「痛みますか?そっと開けますからね」

クローゼル侯爵家で苛めた時はなんとも思わなかった私だが、だんだん可哀相になってきた。やはり肉体的苦痛というのは確実なものだ。

ドレスを脱がす間ヒルデガルドは何度か息を詰まらせた。白い肌に無数の痣が散らばっていた。
特に右半身が酷く、肩や腕に浮かぶ痣を目の当たりにして私は完全に激怒した。男娼の一人が言ったのは誇張ではなかったのだ。本当に滅多打ちにされた傷だった。

顔の腫れがとにかく酷いと思っていたが、恐らく、倒れるまで打たれ必死で頭を庇ったのだろう。

「ああ、なんて酷い……痛かったでしょう」
「驚いたわ」
「無理をして動き続けたんですね」
「頭に血が上ってしまって……」
「ほら、横になってください。ゆっくり……」
「……っ」
「足を上げますよ」

ヒルデガルドの体をベッドに収めると私まで安堵してしまった。当のヒルデガルドもほっとして気を抜いた表情になっている。

見下ろせば、何処にこれだけの胆力が秘められていたか不思議になってしまうか弱そうな伯爵令嬢だ。単純に年下だからということもあるかもしれない。
特に美人でもないとはいえ、人好きのする優しい顔つきをしている。よくこんな人を貶めようとしたものだと王女の正気を疑うが、無駄なことだろう。あれは狂人に他ならない。

ヒルデガルドがふと微笑みを浮かべた。

「さっきはごめんなさい」
「やめてください。悪いのはこっちなんですから。本当に申し訳ありませんでした」

保身だけではない反省の気持ちが私の中に確かに芽生え、何としても償いたい気持ちになってきてしまう。
ヒルデガルドが目を開け、私を見上げた。

「あなたも、あなたのお父さんも、本当は優しい人なのね」
「もう少し他人を疑った方がいいですよ。とりあえずあなた婚約相手は間違えましたからね」

つい叱る口調になってしまったが、ヒルデガルドは笑顔で頷いた。

「私、人を見る目がないんですって」
「優しすぎるんですよ。世の中、善人ばかりじゃないんです。悪人の方がずっと多いんです」

ヒルデガルドは少し黙ってじっと私を見上げた。私が善人か悪人かを測っているのだとは思うが、そうではないのかもしれないと思ってしまう程に清らかな眼差しだった。
ばつが悪い。

「あなたが王女に感化されなくてよかった」

本気でそう思ているらしかった。
何故か、私の人生について真剣に心配し、安堵してくれたらしい。

私は枕元に跪き顔を寄せた。
よりにもよってこの人を苛めたのかと、かつての自分の正気を疑い始めていた。

「始めは大出世だと思ったんです」

口が素直に動き出す。
ヒルデガルドの無垢な瞳が続きを求めて私の目を覗き込む。

「あなたが聞いた通りです。王女は王太子と王妃を蹴落とす夢を見て快感に浸っているようでした」
「何故なのかしら」
「知りません。でも事実だけで充分ですよ。あれは生かしてはおけません」
「あなたはどうして誘われてしまったの?」
「船です。いずれデシュラー伯爵の城を出て、海でやるつもりだったようです」
「正しい証言をして。私も、あなたは利用されただけだってわかっているから」

やはり悪を知らない無力な善人だと思った。
それか、嘘つきは地獄に落ちるとでも信じているのだろうか。

先程ザシャとヨハンという二人の犠牲者と話していて決まったのが、設計図の捏造だった。拷問室を備えた娼船の設計図を作っておいて、王女の命令があったということにしようという策略だ。

幸い、私と父の手元には王女からの意味深な手紙が何通か残っている。更に父は帳簿を誤魔化したり商談を優位にまとめる為、筆跡に類稀なる才覚を持った部下を抱え重宝している。
証拠を捏造し陥れることは難しくない。
ヒルデガルドがいれば信頼性が高まるという利点があり、かなり有効な手段だ。勝たなければこちらの命がない。生き延びるために使う手に綺麗も汚いもないのだ。

ヨハンは賛成したが、ヒルデガルドには絶対に秘密だと念を押された。
確かにそうだ。この人には清廉潔白な神の娘でいて貰わなくては困る。それこそがヒルデガルドの絶対的な価値と言えるだろう。

「乗ったことが無いわ……船」

ヒルデガルドが呟いた。
見るからに箱入り娘なのだから意外ではない。

「あなたは?海に出たことはあるの?」

私に個人的な質問をして何か意味があるのだろうか。絶対にない。平民上がりの私など、生粋の伯爵令嬢であるヒルデガルドには全く価値のない存在だ。それなのにどうして聞くのだろう。
馬鹿なことだと思いながらも少し嬉しくなってしまい、私は答えた。

「はい」
「楽しい?」
「駄目です、危険です」

即、後悔した。海の話などして余計な興味を持たせてはいけない。
悪人ほど悪意はないが、海が危険な場所であることに変わりはない。

私は話題を変えることにした。

「お風呂は入れますか?桶を持ってきて、今日は拭くだけにしましょうか?」
「入りたいけれど……」
「手伝うつもりで来てますから、はっきり言ってください」
「入りたい。本当は凄く疲れたの」

だんだん可愛く見えてきた。
末娘の私は父の部下を従わせるくらいのことはできたが、誰かの面倒を見たことはなかった。貴族の令嬢に存在を認められ信頼を向けられるのは、意外なほど私を喜ばせた。

「待っていてくださいね。少しぬるめにしてもらいます。傷に障りますから」
「ありがとう、ジェーン」
「……」

名前を呼ばれただけだ。
それなのに、私はこの時、決めたのだった。

この人を守ると。
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