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15(ガイウス)

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私は何を見せられているのだろうか。

「旦那様、しっかりしてください」

執事に窘められたが、意識が朦朧として、目の前の惨状に驚くことしかできない。

ヴェロニカとオリヴァーが消えた。
ソレーヌがヴェロニカの部屋を破壊している。私は執事に揺り起こされ、引き摺られるようにして廊下を歩き、戸口で妻の凶行に呆然と立ち竦んでいる。

これは……

「奥様のお話では、ヴェロニカがオリヴァー様を誘拐したと」
「ありえない」

意識は朦朧としているが、これだけは断言できる。
ヴェロニカは息子を誘拐したりしない。姿がないなら、相応の理由があるはずだ。

「う……」

目の裏に刺すような激痛が走る。
酷い頭痛が断続的に続いている。

「薬を盛られたのでは?」
「……」

執事の密やかな問いかけに私は答えられなかった。

そうかもしれない。
そうでなければこの不調の説明がつかない。

では、誰が?

誰が、何の目的で、私にそんな事を?

「……」

答えは、一つしかなくなってしまう。
妻のソレーヌが騎士時代の剣を振り回し、ヴェロニカの部屋を、破壊している。

ベッドも、椅子も、ドレッサーも、箪笥も、カーテンも窓も、ランプも。揺り籠さえも。
全てを破壊し続けている。

「とにかく、一刻も早く奥様を止めてください。旦那様」
「……」

このままでは、誰も近づけない。
それは事実だ。

「ソレーヌ」

妻を呼んだ。
併し、妻は剣を振り回し続ける。

「ソレーヌ」

喉が詰り、舌が絡む。
膝から力が抜け倒れかけた私を執事が抱えた。

「旦那様!しっかり」
「……うぅ」
「旦那様しか収められません。奥様は、旦那様なら斬り掛かりはしないでしょう。さあ」
「!」

ついに執事も私の為体に痺れを切らしたのだろう。
私は室内へと放り投げられた。

「あっ、う……おっと。やぁ、ソレーヌ」

真後ろで呼び掛けると、僅かに息を弾ませたソレーヌが剣を下ろし振り向いた。
その表情は冷酷で、容赦がなく、そして、美しかった。

「もういい。さあ、それを……こちらに」

剣を渡してほしいと、手を伸ばす。
ソレーヌは剣を投げ捨て私の腕を引き、負傷兵を受け止めるように抱きかかえながら膝を付いた。

「ガイウス。可哀相に」
「……」

ソレーヌの思考は私の理解の範疇を越えている。
ヴェロニカに跡継ぎを望み始めたあたりから、それは始まっていた。私が目を逸らしてきた妻の狂気が、今、暴走しているのだ。

私は妻をそっと抱擁し、朦朧としながら必死で頭の中を整理する。

認めざるを得ない。
今夜の妻は異常だ。

視界の隅で執事が剣を回収した。
私は安堵の溜息を洩らし、その油断で意識を失いかけたが、必死で繋ぎとめた。

「ソレーヌ……」
「ヴェロニカがこんな事をするなんて、誰も予想できなかったのよ」

ソレーヌが私の頭を抱き込み、労わるように髪を撫でる。
だが、私は、妻が真実を語っているとは到底思えない。認められない。

「オリヴァーをさらって、私たちの前から消えてしまった。もっと真っ直ぐないい子だと思っていたのに。裏切られたわ」
「ヴェロニカは……そんな人間ではない」

私は縺れる舌でなんとか反論したが、返ってきたのは憐れみに満ちた冷笑だった。

「そう思いたいわね、あなたは。大切な、可愛い仔狸さんだったもの。でも、あの子はあなたを棄てたのよ。裏切った。あなたから子どもを奪って消えた」
「違う」
「可哀相なガイウス。認めたくないわよね、わかるわ。受け入れられない現実から逃げたくなる気持ちは、誰しもが持つ自然な感情よ。あなたは弱くない」
「……」

ソレーヌが私を言い包めようとしているのか、それとも、本心から語っているのか、まるで判断できない。

「信じていたのにね。可哀相なガイウス」
「……」
「でも、泣かないで。あなたには私がいる」
「……」
「私は、あなたを裏切ったりしない」

唐突に、それは芽生えた。
冷たい嫌悪が私の中に広がり、私は妻を押し返した。そして、そんな自分を恥じた。

「理由があるはずだ」

ヴェロニカが消えたならば、それ相応の理由がある。
きっと理由は今、私の目の前に、ある。

「優しいのね」

ソレーヌが憐れみの微笑を浮かべ小首を傾げた。

「甘いのよ、ガイウス」
「……私に……薬を盛ったのか……?」
「……」
「あの夜も……」

ヴェロニカを激しく求めた、あの夜。
あの夜も、ソレーヌから誘われてグラスを交わした。禁欲的なソレーヌが自分から飲酒するのは、極めて珍しい出来事だった。私は只、上機嫌な妻の様子に浮かれ、そして、衝動的にヴェロニカを求めた。

私の中に恥じるべき欲望が眠っていた事実は認める。
だが、本当に酒のせいだったのか。一時の激情に流されただけだったのか。私はその疑問を胸の奥にしまい込み、鍵を掛け、目を背け続けてきた。

ソレーヌを疑うなど、私自身が許さなかった。
ソレーヌを責めるなど、到底、できなかった。

だが、今。
自由にならない意識と体を必死に奮い立たせながら、ついに確かめざるを得ない。

「あなたが、私に……そうするよう仕向けたのか……?」

ソレーヌの微笑みが失せ、瞳の奥に冷酷な光が灯る。

「ヴェロニカを孕ませたこと?」
「……」

それ以外に何があるというのか。
私は初めて、心の底から妻を恐れた。得体の知れない何か悍ましい悪と対峙している錯覚に陥り、微かに震えた。

「少なくとも、私は反対した」
「ええ、あなたは反対した」
「だから」
「だから背中を押してあげた。誰かが跡継ぎを産まなくてはいけなかったのだから、私は、最善の策を講じた」
「ソレーヌ……!」
「あなたも喜んだでしょう」

囁きに近いほど訥々と言葉を紡ぐソレーヌの威圧感は凄まじく、濃厚で、研ぎ澄まされている。私はこれほどまでの恐怖を他者に対して抱いた経験がないことから、これは私個人に向けられた殺意だと確信した。

意のままにならない夫など殺してしまえばいいと、そう考えているのではないか。
疑念は心に一滴落ちた瞬間から、私の意識をすっかり塗り変えた。

だが、それでもソレーヌは私の妻なのだ。
どんな時も傍にいると誓った。支え合い、許し合うと誓った。
ソレーヌの全てを愛すると誓ったのだ。

妻が狂うのなら、私は全てを受け止め、共に生きる。

併し、それとヴェロニカは別の話だ。オリヴァーもいる。私には息子と、その母親がいる。二人を放り出す人生など許されない。私自身が到底許すことができない。
ヴェロニカの捜索。そしてヴェロニカとオリヴァーの安全の確保。これこそが最優先だ。

ソレーヌが静かに言った。

「そうね。ごめんなさい。私の選択は間違っていた。ヴェロニカは相応しくはなかったわ。あなたを傷つけ、そして消えた」
「違う」
「違わない。見て御覧なさい」

ソレーヌが破壊したヴェロニカの部屋から窺い知れるもの。
それはヴェロニカの在りもしない罪ではない。
それは、ソレーヌの憎悪。

憎悪だ。

私は、今、初めて理解した。
ソレーヌは、私の妻は、あのヴェロニカに嫉妬していたのだと。

当然、ヴェロニカと私の間には何もなかった。
かつては何もなかったのだ。大切な存在であったのは事実だが、それはあくまでも家族的な愛情だった。

だが私たちは血の繋がらない男と女でもあった。
ソレーヌが跡継ぎを望んだ一件から強く意識させられても、まだ、私はヴェロニカの保護者であった。あろうとした。

それがあの夜、突如、変わってしまった。
私は女の肉体を求め、愛するヴェロニカの甘い蜜に溺れた。愛しあい、男としてヴェロニカに惹かれる自分に変わってしまった。

ソレーヌという妻を愛し、ヴェロニカという大切な身内を女性として愛し、そんな自分に嫌悪しながらも、深く考える余裕はなかった。
他の女性に跡継ぎを託したいと望んだソレーヌが、いざ願望が叶ってみると現実に耐えられず、深刻な精神衰弱に陥ってしまったから目が離せなかった。

全て言い訳だ。

私は、どこかで致命的な過ちを犯したのだ。
そしてその罪はヴェロニカではなく、私にある。

只一つ、全てに目を瞑れるだけの幸福があった。

オリヴァー。
愛する息子の誕生が、全てを覆い尽くし、光に変えてくれた。

併し今、ヴェロニカもオリヴァーも此処にはいない。
いるのは破壊と威圧を以て君臨する私の妻ソレーヌと、その足元に無様に這い蹲る私だけだ。

「……」

ヴェロニカ。
何処に行った?

無事なのか?

逃げたのなら、それでいい。
ヴェロニカは強く誠実な女性だ。オリヴァーを危険に晒すようなことはおろか、飢えさせることもないだろう。
誰からも好かれる人柄だ。行きついた先でも必ず親切を受け、それに報いる形で友好的な関係を築けるだろう。生きてさえいれば、彼女は上手くやるだろう。

けれどもし、ソレーヌの手にかかっているような……否、そんな恐ろしい事は考えたくもない。

「ヴェロニカは、何処にいる……?」

私はソレーヌに尋ねた。
答えを知っているはずだと確信していた。

だがソレーヌは肩を竦めた。

「消えたのよ。ガイウス、あの子は私たちを裏切って消えたの」
「死んだのか?」

声が震えた。
ソレーヌは呆れたように笑った。

「知らないわ。なぜ私に訊くの、ガイウス」
「オリヴァーは私の息子だ。息子は何処だ」
「ヴェロニカが連れて行ってしまったわ。そう言っているでしょう」

もう現実から目を背けるわけにはいかない。
ソレーヌが追い出したのだ。或いは……

「……くっ」

最悪の想像を打ち消した私は、ふいに後ろから抱えるように誰かから支えられた。

寝間着姿の主治医だった。
祖父の代からフェラレーゼ伯爵家に仕え、健康管理と誕生と死を見守ってきた老医師を、私は心から信頼していた。その慣れ親しんだ顔が恐ろしいほど眼前に迫り、何かを嗅ぎ、頷き、ポケットから小瓶を取り出しガーゼに数滴含ませ私の鼻に当てた。

「ちょうどよかった」

ソレーヌが言った。
老医師は小さく呻り、私の背中を強く摩る。急激な嘔吐に襲われた私の耳に驚くべき事実が伝えられた。

「ガイウス、私、妊娠したの。フェラレーゼ伯爵家の正統な跡継ぎを、産むのよ」
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