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第三話
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午後、約束通りアクセルが現れた。
地下牢に再び足音が響いたのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。天窓から差し込む薄い光が、石の床に細長い影を落としている。
私は毛布にくるまったまま、その足音に耳を澄ませた。今度は一人だけ。そして、昨夜と同じ、規則正しくも力強い歩調。
廊下の曲がり角から、長身の人影が現れた。
今日の彼は騎士団の制服ではなく、簡素な黒い外套を纏っている。銀糸の装飾もなく、北方の実用的な衣装だ。深い青ではなく漆黒の生地が、松明の光をほとんど反射せず、彼の姿を影のように見せていた。
アクセルは鉄格子の前で立ち止まると、傍らの看守に何か耳打ちした。低く、短い言葉。看守は一瞬躊躇したような顔をしたが、すぐに鍵束を手に取った。
金属の擦れる音。錠が外れる重い音。鉄格子がゆっくりと開かれる。
「出ろ」
アクセルの声は、昨夜と同じく無感情だった。
「え? でも、私は囚人......」
私は戸惑いながらも、毛布を床に置いて立ち上がった。一晩を石の床で過ごした体は強張っており、膝が軋むような感覚がした。
「三十分だけ外出許可を取った。来い」
有無を言わさぬ口調。
私は従うしかなかった。よろめく足取りで鉄格子をくぐると、アクセルは私の腕を軽く掴んで支えてくれた。彼の手は大きく、しっかりとしていたが、決して乱暴ではなかった。
看守は無言のまま、再び格子を閉じた。鍵をかける音が、背後で響く。
「ついて来い」
アクセルは私を促すように、廊下の奥へと歩き始めた。私は彼の広い背中を追いかけるように、足を進めた。
地下牢の廊下は薄暗く、松明の光だけが頼りだった。石壁には湿気が滲み、ところどころに緑色の苔が生えている。空気は冷たく重く、カビ臭い匂いが鼻をついた。
他の独房の前を通り過ぎる。中には誰もいない牢もあれば、影のように蹲る人影が見える牢もあった。誰も声を上げない。ただ静かに、自分の運命を待っているかのようだった。
廊下の突き当たりを右に曲がると、頑丈な木の扉があった。鉄の鋲が無数に打ち込まれ、重厚な印象を与えている。
アクセルは扉を押し開いた。古い蝶番が軋む音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。
中は小さな尋問室だった。
四方を石壁に囲まれた、三メートル四方ほどの狭い空間。天井は低く、圧迫感がある。中央には簡素な木製のテーブルと、二脚の椅子が置かれているだけ。何の装飾もない、殺風景な部屋だった。
壁には松明が一本だけ掛けられており、その不安定な光が部屋全体を薄暗く照らしていた。テーブルの表面には無数の傷が刻まれ、長年の使用の痕跡を物語っている。
「座れ」
アクセルは片方の椅子を顎で示した。
私は言われるままに、テーブルの手前側の椅子に腰を下ろした。木の座面は固く、冷たかった。手を膝の上に置くと、自分の指が小刻みに震えているのが分かった。
アクセルは対面の椅子に座った。外套の裾が床を掃き、わずかな風を起こす。彼は背筋を伸ばして座り、灰色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「まず、状況を整理する」
男は淡々と話し始めた。無駄のない、簡潔な口調。
「お前を陥れた犯人は、オデット・ド・モンフォールとジャン・デュボワで間違いない。昨夜、二人が禁書室で証拠隠滅を図っている場面を、オリバーが目撃している。これで合ってるか?」
「はい」
私は頷いた。オリバーから聞いた話を思い出す。深夜の禁書室。『これで完璧』という姉の声。
「問題は、それを証明する物的証拠がないことだ。オリバーの証言だけでは弱い」
アクセルの長い指が、テーブルの表面を軽く叩いた。規則正しいリズム。まるで何かを考えながら、無意識に打っているかのようだった。
コツ、コツ、コツ。
その音が、静かな部屋に響く。
「王家や貴族に連なる者を告発するには、確実な証拠が必要だ。目撃証言では覆される。物証が要る」
アクセルは指の動きを止めて、私を見据えた。
「そこで、お前の力を借りたい」
やはり。
私の予想は的中していた。この人は、私の秘密を知っている。
心臓が早鐘を打つ。喉が渇いて、唾を飲み込むのも苦しかった。
「......私の力を、ご存じなのですか」
「ああ」
アクセルは躊躇なく頷いた。灰色の瞳が、松明の光を反射して鈍く光る。
「お前の母親、イザベル様から直接聞いた」
母の名前を聞いて、私の胸が締め付けられた。
「お前が生まれた時、彼女は俺に言った」
アクセルは目を伏せた。まるで遠い記憶を辿るように。
「『この子は私と同じ瞳を持って生まれた。どうか、将来この子が困った時は助けてやってほしい』と」
母が。
私の力のことを、この人に託していた。
十八年前。私がまだ赤ん坊だった頃。母は自分の死を予見していたのだろうか。そして、いつか私が困難に直面することを。
「真実ノ眼《ラ・ヴェリテ》」
アクセルが、その名を口にした。
私は息を呑んだ。その言葉を、他人の口から聞いたのは初めてだった。
「物に触れることで、その本当の情報や過去を視る力。文書の偽造を見抜き、物に残された記憶を読み取る。イザベル様はその力で、俺の父を救った」
アクセルの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。いつもの無表情な仮面に、わずかな亀裂が入ったように見えた。
「十五年前、俺の父は謀反の疑いをかけられて投獄された」
男の声が、静かに過去を語る。
「証拠として提出されたのは、父の署名がある密書だった。そこには、隣国と結託して王国を裏切るという内容が記されていた。誰もが父の有罪を確信した」
アクセルは拳を握りしめた。テーブルの上に置かれた手が、わずかに震えている。
「だがイザベル様は違った。密書に触れた瞬間、真実を視た。その文書が偽造されたものであること、本当の犯人が誰なのか、全てを」
「母が......」
私の声は震えていた。
「彼女は王宮で、密書の真贋を問われた。そして、別の証拠を提示することで、父の無実を証明してくれた。おかげで父は釈放され、真犯人も捕らえられた」
アクセルは顔を上げて、私を真っ直ぐに見つめた。
「だから俺は、彼女に恩がある。命の恩人だ。その娘であるお前を見捨てることはできない」
だから、助けに来てくれたのか。
母への恩義のために。
私の目頭が熱くなった。母は死んでなお、私を守ろうとしてくれていた。
「でも......」
私は搾り出すように言った。
「この力を使えば、私は異端審問にかけられます。三百年前の魔女狩りと同じように、火刑に処されるかもしれません」
「使い方次第だ」
アクセルは即座に答えた。迷いのない声。
「お前が直接、裁判で力を使う必要はない。俺が代わりに証拠を集める。お前はその証拠が本物かどうか、力で確認するだけだ」
男は身を乗り出した。テーブルを挟んで、顔が近づく。
「俺が証拠の真贋を主張する。お前の力は、その裏付けとして秘密裏に使う。表に出るのは俺だけだ」
なるほど。
私が表に出なければ、力の存在は明かさずに済む。
アクセルが全ての責任を引き受けてくれる。
「......分かりました。協力します」
私は深呼吸をして、決意を固めた。
「よし」
アクセルは立ち上がった。椅子が床を擦る音が響く。
「今夜、禁書室に侵入する。オデットたちが隠した証拠を回収する。明日の朝、ここに持ってくるから、お前の力で真贋を確認してくれ」
彼の計画は明確だった。無駄がなく、的確。
「はい」
「それと」
男は黒い外套のポケットに手を入れた。何かを探る音がする。
取り出されたのは、小さな黒い石だった。
親指ほどの大きさ。表面は滑らかで、磨かれた黒曜石のように光を吸い込んでいる。松明の光さえも反射しない、深い闇のような黒。
「これを握っていろ」
アクセルは石を私の手に乗せた。
「魔力を遮断する石だ。もしもの時、お前の力が暴発しないように」
石は思いのほか温かかった。まるで生きているかのように、ほんのりとした熱を持っている。手のひらに収まるサイズだが、ずっしりとした重みがあった。
握りしめると、不思議な安心感が広がった。この石が、私の力を制御してくれる。暴走を防いでくれる。
「ありがとうございます、アクセル様」
私は石を胸に抱きしめて、深く頭を下げた。
「様はいらん。アクセルと呼べ」
無表情のまま、男はそう言った。
顔を上げると、彼は相変わらず冷たい灰色の瞳で私を見ていた。でも、その声には、わずかに柔らかさが混じっていた気がした。
「お前の母親は、俺のことをアクセル坊やと呼んでいた」
男の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑みとまでは言えないが、確かに表情が和らいでいた。
「だからお前も、普通に呼べばいい。母親の娘なんだから」
その言葉に、思わず小さく笑ってしまった。
この無愛想な辺境伯が、「坊や」と呼ばれていたなんて。今の彼からは想像もできない。きっと母は、彼がまだ少年だった頃から知っていたのだろう。
「では......アクセル」
私は名前を呼んだ。敬称を外して、ただの名前として。
「ああ」
彼は満足そうに頷いた。
その仕草が、不思議と年相応に見えた。普段は冷徹な辺境伯として振る舞っているこの男も、まだ二十代半ばの青年なのだと、初めて実感した。
「明日の朝、また来る。それまで休んでいろ」
アクセルは外套を翻して、扉へと向かった。
「はい。気をつけて」
私は彼の背中に声をかけた。
アクセルは扉の前で一度だけ振り返り、小さく頷くと、部屋を出て行った。
重い扉が閉まる音。
再び静寂が訪れた。
私は手の中の黒い石を見つめた。温かな重み。母の遺した絆。そしてアクセルの優しさ。
全てが、この小さな石の中に込められている気がした。
地下牢に再び足音が響いたのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。天窓から差し込む薄い光が、石の床に細長い影を落としている。
私は毛布にくるまったまま、その足音に耳を澄ませた。今度は一人だけ。そして、昨夜と同じ、規則正しくも力強い歩調。
廊下の曲がり角から、長身の人影が現れた。
今日の彼は騎士団の制服ではなく、簡素な黒い外套を纏っている。銀糸の装飾もなく、北方の実用的な衣装だ。深い青ではなく漆黒の生地が、松明の光をほとんど反射せず、彼の姿を影のように見せていた。
アクセルは鉄格子の前で立ち止まると、傍らの看守に何か耳打ちした。低く、短い言葉。看守は一瞬躊躇したような顔をしたが、すぐに鍵束を手に取った。
金属の擦れる音。錠が外れる重い音。鉄格子がゆっくりと開かれる。
「出ろ」
アクセルの声は、昨夜と同じく無感情だった。
「え? でも、私は囚人......」
私は戸惑いながらも、毛布を床に置いて立ち上がった。一晩を石の床で過ごした体は強張っており、膝が軋むような感覚がした。
「三十分だけ外出許可を取った。来い」
有無を言わさぬ口調。
私は従うしかなかった。よろめく足取りで鉄格子をくぐると、アクセルは私の腕を軽く掴んで支えてくれた。彼の手は大きく、しっかりとしていたが、決して乱暴ではなかった。
看守は無言のまま、再び格子を閉じた。鍵をかける音が、背後で響く。
「ついて来い」
アクセルは私を促すように、廊下の奥へと歩き始めた。私は彼の広い背中を追いかけるように、足を進めた。
地下牢の廊下は薄暗く、松明の光だけが頼りだった。石壁には湿気が滲み、ところどころに緑色の苔が生えている。空気は冷たく重く、カビ臭い匂いが鼻をついた。
他の独房の前を通り過ぎる。中には誰もいない牢もあれば、影のように蹲る人影が見える牢もあった。誰も声を上げない。ただ静かに、自分の運命を待っているかのようだった。
廊下の突き当たりを右に曲がると、頑丈な木の扉があった。鉄の鋲が無数に打ち込まれ、重厚な印象を与えている。
アクセルは扉を押し開いた。古い蝶番が軋む音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。
中は小さな尋問室だった。
四方を石壁に囲まれた、三メートル四方ほどの狭い空間。天井は低く、圧迫感がある。中央には簡素な木製のテーブルと、二脚の椅子が置かれているだけ。何の装飾もない、殺風景な部屋だった。
壁には松明が一本だけ掛けられており、その不安定な光が部屋全体を薄暗く照らしていた。テーブルの表面には無数の傷が刻まれ、長年の使用の痕跡を物語っている。
「座れ」
アクセルは片方の椅子を顎で示した。
私は言われるままに、テーブルの手前側の椅子に腰を下ろした。木の座面は固く、冷たかった。手を膝の上に置くと、自分の指が小刻みに震えているのが分かった。
アクセルは対面の椅子に座った。外套の裾が床を掃き、わずかな風を起こす。彼は背筋を伸ばして座り、灰色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「まず、状況を整理する」
男は淡々と話し始めた。無駄のない、簡潔な口調。
「お前を陥れた犯人は、オデット・ド・モンフォールとジャン・デュボワで間違いない。昨夜、二人が禁書室で証拠隠滅を図っている場面を、オリバーが目撃している。これで合ってるか?」
「はい」
私は頷いた。オリバーから聞いた話を思い出す。深夜の禁書室。『これで完璧』という姉の声。
「問題は、それを証明する物的証拠がないことだ。オリバーの証言だけでは弱い」
アクセルの長い指が、テーブルの表面を軽く叩いた。規則正しいリズム。まるで何かを考えながら、無意識に打っているかのようだった。
コツ、コツ、コツ。
その音が、静かな部屋に響く。
「王家や貴族に連なる者を告発するには、確実な証拠が必要だ。目撃証言では覆される。物証が要る」
アクセルは指の動きを止めて、私を見据えた。
「そこで、お前の力を借りたい」
やはり。
私の予想は的中していた。この人は、私の秘密を知っている。
心臓が早鐘を打つ。喉が渇いて、唾を飲み込むのも苦しかった。
「......私の力を、ご存じなのですか」
「ああ」
アクセルは躊躇なく頷いた。灰色の瞳が、松明の光を反射して鈍く光る。
「お前の母親、イザベル様から直接聞いた」
母の名前を聞いて、私の胸が締め付けられた。
「お前が生まれた時、彼女は俺に言った」
アクセルは目を伏せた。まるで遠い記憶を辿るように。
「『この子は私と同じ瞳を持って生まれた。どうか、将来この子が困った時は助けてやってほしい』と」
母が。
私の力のことを、この人に託していた。
十八年前。私がまだ赤ん坊だった頃。母は自分の死を予見していたのだろうか。そして、いつか私が困難に直面することを。
「真実ノ眼《ラ・ヴェリテ》」
アクセルが、その名を口にした。
私は息を呑んだ。その言葉を、他人の口から聞いたのは初めてだった。
「物に触れることで、その本当の情報や過去を視る力。文書の偽造を見抜き、物に残された記憶を読み取る。イザベル様はその力で、俺の父を救った」
アクセルの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。いつもの無表情な仮面に、わずかな亀裂が入ったように見えた。
「十五年前、俺の父は謀反の疑いをかけられて投獄された」
男の声が、静かに過去を語る。
「証拠として提出されたのは、父の署名がある密書だった。そこには、隣国と結託して王国を裏切るという内容が記されていた。誰もが父の有罪を確信した」
アクセルは拳を握りしめた。テーブルの上に置かれた手が、わずかに震えている。
「だがイザベル様は違った。密書に触れた瞬間、真実を視た。その文書が偽造されたものであること、本当の犯人が誰なのか、全てを」
「母が......」
私の声は震えていた。
「彼女は王宮で、密書の真贋を問われた。そして、別の証拠を提示することで、父の無実を証明してくれた。おかげで父は釈放され、真犯人も捕らえられた」
アクセルは顔を上げて、私を真っ直ぐに見つめた。
「だから俺は、彼女に恩がある。命の恩人だ。その娘であるお前を見捨てることはできない」
だから、助けに来てくれたのか。
母への恩義のために。
私の目頭が熱くなった。母は死んでなお、私を守ろうとしてくれていた。
「でも......」
私は搾り出すように言った。
「この力を使えば、私は異端審問にかけられます。三百年前の魔女狩りと同じように、火刑に処されるかもしれません」
「使い方次第だ」
アクセルは即座に答えた。迷いのない声。
「お前が直接、裁判で力を使う必要はない。俺が代わりに証拠を集める。お前はその証拠が本物かどうか、力で確認するだけだ」
男は身を乗り出した。テーブルを挟んで、顔が近づく。
「俺が証拠の真贋を主張する。お前の力は、その裏付けとして秘密裏に使う。表に出るのは俺だけだ」
なるほど。
私が表に出なければ、力の存在は明かさずに済む。
アクセルが全ての責任を引き受けてくれる。
「......分かりました。協力します」
私は深呼吸をして、決意を固めた。
「よし」
アクセルは立ち上がった。椅子が床を擦る音が響く。
「今夜、禁書室に侵入する。オデットたちが隠した証拠を回収する。明日の朝、ここに持ってくるから、お前の力で真贋を確認してくれ」
彼の計画は明確だった。無駄がなく、的確。
「はい」
「それと」
男は黒い外套のポケットに手を入れた。何かを探る音がする。
取り出されたのは、小さな黒い石だった。
親指ほどの大きさ。表面は滑らかで、磨かれた黒曜石のように光を吸い込んでいる。松明の光さえも反射しない、深い闇のような黒。
「これを握っていろ」
アクセルは石を私の手に乗せた。
「魔力を遮断する石だ。もしもの時、お前の力が暴発しないように」
石は思いのほか温かかった。まるで生きているかのように、ほんのりとした熱を持っている。手のひらに収まるサイズだが、ずっしりとした重みがあった。
握りしめると、不思議な安心感が広がった。この石が、私の力を制御してくれる。暴走を防いでくれる。
「ありがとうございます、アクセル様」
私は石を胸に抱きしめて、深く頭を下げた。
「様はいらん。アクセルと呼べ」
無表情のまま、男はそう言った。
顔を上げると、彼は相変わらず冷たい灰色の瞳で私を見ていた。でも、その声には、わずかに柔らかさが混じっていた気がした。
「お前の母親は、俺のことをアクセル坊やと呼んでいた」
男の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑みとまでは言えないが、確かに表情が和らいでいた。
「だからお前も、普通に呼べばいい。母親の娘なんだから」
その言葉に、思わず小さく笑ってしまった。
この無愛想な辺境伯が、「坊や」と呼ばれていたなんて。今の彼からは想像もできない。きっと母は、彼がまだ少年だった頃から知っていたのだろう。
「では......アクセル」
私は名前を呼んだ。敬称を外して、ただの名前として。
「ああ」
彼は満足そうに頷いた。
その仕草が、不思議と年相応に見えた。普段は冷徹な辺境伯として振る舞っているこの男も、まだ二十代半ばの青年なのだと、初めて実感した。
「明日の朝、また来る。それまで休んでいろ」
アクセルは外套を翻して、扉へと向かった。
「はい。気をつけて」
私は彼の背中に声をかけた。
アクセルは扉の前で一度だけ振り返り、小さく頷くと、部屋を出て行った。
重い扉が閉まる音。
再び静寂が訪れた。
私は手の中の黒い石を見つめた。温かな重み。母の遺した絆。そしてアクセルの優しさ。
全てが、この小さな石の中に込められている気がした。
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