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第9話
しおりを挟む馬車は夜の街を疾走していた。
石畳を打つ車輪の音が、私の不安な心拍と重なる。リュカは隣に座ったまま、ずっと私の手を握っていた。
「大丈夫だ」
彼の低い声が、馬車の中に響く。月明かりが窓から差し込み、彼の灰色の瞳を照らしていた。
「文字詠みって、一体なんなんですか?」
「説明は屋敷に着いてからにしよう。今は、君が安全であることが最優先だ」
彼の親指が、私の手の甲をそっと撫でた。傷跡に触れないよう、慎重に。その優しさに、胸が締め付けられる。
やがて馬車は、荘厳な門の前で止まった。
月光に照らされた屋敷は、まるで絵画から抜け出したような美しさだった。白い石造りの外壁に、蔦が優雅に絡まっている。庭園には噴水があり、水音が静寂を破っていた。
「ようこそ、ダルクール邸あらためサルヴェール邸へ」
リュカが馬車から降り、私に手を差し伸べた。
その手を取って降りると、玄関の扉が開いた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
ローザンヌが深々と一礼した。白い口髭が月光に輝いている。
「セリア嬢もご無事で何よりです。ナタン様から連絡をいただいております。ご家族の皆様は、すでに東棟にお部屋を用意させていただきました」
「本当ですか!?」
思わず声を上げると、ローザンヌが優しく微笑んだ。
「ご安心ください。皆様、お元気です。ただ、夜も遅いので、もうお休みになられています」
安堵で膝から力が抜けそうになった。リュカがすかさず私の腰を支える。
「書斎へ案内してくれ。話がある」
「かしこまりました」
ローザンヌに導かれ、私たちは二階の書斎へと向かった。
廊下には肖像画が並び、歴代のサルヴェール家当主たちが、厳かな表情で見下ろしている。
書斎の扉を開けると、本の匂いが鼻をくすぐった。
壁一面を覆う書棚には、革装の古書がぎっしりと並んでいる。大きな机の上には地図や書類が散乱し、暖炉では薪が赤々と燃えていた。
「紅茶をお持ちいたします」
ローザンヌが一礼して退室した。
リュカは私を革張りのソファに座らせ、自分は向かいに腰を下ろした。
オレンジ色の炎が、彼の横顔を照らす。真剣な表情が、いつもより大人びて見えた。
「文字詠みについて、説明する」
彼は立ち上がり、書棚から一冊の古書を取り出した。
表紙には見慣れない文字が刻まれている。
「これは二百年前に滅んだエルヴァニア王国の魔術書だ。当時、この国には優れた魔術師が多く存在していた」
ページをめくる音が、静寂に響く。
「その中でも特に稀少だったのが、文字詠みと呼ばれる能力者たちだ」
リュカが本を私に見せた。
そこには複雑な図形と、螺旋状に描かれた文字が記されていた。
「普通の人間には、ただの模様にしか見えない。だが、文字詠みの能力を持つ者には、これが立体的に、時には動いているように見える」
「あっ……」
私は息を呑んだ。
確かに、ページの文字が浮かび上がって見える。まるで生きているかのように、ゆらゆらと揺れていた。
「見えるんだな」
リュカの声に、興奮が滲んでいた。
「文字詠みは、魔術式を『読む』だけじゃない。『視る』ことができ、さらには『追跡する』ことも可能だ」
彼は小箱から、先ほどのシトリンのネックレスを取り出した。
「これには追跡魔術が込められている。エルヴァニアの妃が残した品だ。もし君がこの魔術式を解読できれば――」
扉がノックされ、ナタンが入ってきた。
金髪を掻き上げ、疲れた表情を浮かべている。
「やっと戻ったか」
「ああ、フォトン家の皆は無事に保護した。下の弟妹たちは、まるで冒険みたいだって喜んでたぜ」
ナタンがソファに身を投げ出した。
「それより、本当にこの子が文字詠みなのか?」
疑わしげな視線を私に向ける。
「間違いない。さっきも魔術書が見えていた」
「マジか」
ナタンが身を乗り出した。
「でも私、魔術なんて使ったことが……」
不安を口にすると、リュカが私の肩に手を置いた。
「才能は生まれつきだ。訓練していないだけで、君には素質がある」
その灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
信頼に満ちた眼差しに、胸が熱くなる。
「私にできるでしょうか」
「できる」
断言する彼の声に、迷いはなかった。
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