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#25 不思議な香りとお婆さん

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 道ばたで蹲る女性の元に駆け寄ろうとして、なにやら不思議な匂いに鼻腔を擽られた。

 ーーん? なんだろう? 

 色んな薬草の匂いが混ざりあったような、この、様々な薬品を扱う病院を彷彿とさせるような独特な匂いは。

 もしかして、鼻が利きすぎているせいで、どこかから漂ってくるのが匂ってるだけだろうか。

 ふとそんなことを頭の中でめまぐるしく展開していると、レオンの「お嬢様!」と呼ぶ大きな声が思考に割り込んできた。

 我に返り足下の女性の様子を窺うと、蹲っているというよりは、どこからどう見ても、力尽きて倒れ込んでいるようにしか見えない。

 私は大慌てで女性の元に座り込み、背中を揺すって大きな声を放ってみた。

「お婆さん、大丈夫ですかッ!」

 すると弾かれたように蒼白い顔を上げた、見たところ六十代後半ほどに見える女性は、酷く驚いた表情でこちらを凝視している。

 そこで私はハッとした。

 真っ黒のローブを頭からスッポリと被っており、そこからは白髪交じりの長い髪が覗いていたため、その見た目から、『お婆さん』なんて呼んじゃったけれど、もしかしたら、気を悪くさせてしまったのかもしれない。

 そう思ったからだ。

「あっ、あの。ごめんなさいッ。初対面でいきなり『お婆さん』だなんて、失礼にもほどがありますよね。本当にごめんなさい」

 女性の前で地面に両膝をつき、深々と頭を下げて謝罪する私に、今度は女性の方がハッとし、やっぱり同じように大慌てで声を出す。

「あっ、いえ。とんでもないッ。あたしゃご覧の通り、お婆さんですよ。だから、頭をお上げくださいな。お嬢様」

 同時に、膝に添えていた私の手を痩せ細って筋張った両手で包み込んでくる。

「あら、若いお嬢様の手は綺麗で若々しいわ。小さくて肌もすべすべしてるし」

 そうして少し丸みのあるふっくらとした顔を皺くちゃにして、ニッコリと柔らかな笑みで微笑んでくれている。

 その柔和な笑顔を見ているだけで、ひどく懐かしい心持ちになってきて、胸までがぽかぽかとあたたかくなってくる。

 ーーあれ、なんだろう? この匂い。さっきとは違った甘い香りがする。

 そう感じたのを境に、なんだか身体がふわふわとするような、そんな奇妙な心地に包まれた。

 包み込んでくれているお婆さんの顔同様の皺まみれのあたたかな手が、花が好きで、よく土いじりをしていた祖母の手によく似ていたからかもしれない。

「……」

 そのせいか、お婆さんの笑顔をぼんやりと見つめたまま動けないでいる私に、お婆さんの優しい穏やかな声音が耳を擽りはじめた。

 ーーけれど、なんだろう。
 
 身体だけじゃなく、頭までふわふわとしていて、鼓膜にフィルターでもかかっているかのような、どこか遠くの方で声がするような妙な感覚がする。

 まるで催眠術にでもかけられているような心地だ。

「あー、さっき驚いたのは、大抵の者が素知らぬ顔で通り過ぎていくなか、お嬢様だけが、こうして駆け寄ってくださったので、驚いただけですよ。ご安心くださいな。それに、腰が曲がっているだけですから、心配には及びませんよ」

「……そうでしたか」

「ですが、困ったことに足が悪いので、王都にある家の近くまで送っていただけると有り難いのですが。よろしいでしょうか?」

「どうーー」

 『どうぞどうぞ喜んで』

 あたかも誘導でもされているかのように口から勝手に言葉が零れ落ちていこうとしたところで。

「お嬢様。どんどん先に行かれては困りますッ!」

 馬から下りて追いかけてきたレオンに強い口調で咎められると同時に、両肩を掴まれたことによって、パチンッと弾けるようにしてようやく正気に戻ることができたのだが。

 レオンに再度かけられた「お嬢様?」という声に振り返った私の口からは、

「ああ、レオン。ごめんなさい。このお婆さんのこと、王都の近くにある家まで送ってあげたいんだけど、いいわよね?」

そんな言葉が無意識に放たれていたのだった。

 けれど不思議なことに、言い終えてしまった直後には、さっきまでの可笑しな感覚は跡形もなく霧散しており、その時の記憶もなんだか曖昧だ。

 まるで束の間の夢か幻でも垣間見たかのような、そんな不可思議な感覚を覚えたが、数秒もすればその記憶さえも消え失せていた。

 隣国の貴族のご令嬢に扮した私に仕えている執事仕様のレオンは、ほとほと呆れたというように、こめかみを右手で押さえるという小芝居まで披露してくれている。そこに。

「……お嬢様の気まぐれには毎回驚かされてきましたが。今日はまた一段とお節介が過ぎますね。とはいえ、一度言い出したら私めの言葉など聞き入れてくれませんものねえ。畏まりました。送って差し上げますとも。さーさ、お嬢様、そこのご婦人も、どうぞこちらへ」

 嫌みったらしいお小言まで加わっているという徹底ぶりだ。

 胸に片腕を宛がい恭しく頭を垂れている完璧な執事ぶりのレオンに促されるまま、私とお婆さんは馬に乗り、レオンは馬の手綱を引いて進路を先導するようにして歩みを進めていく。

 こうしてよくわからないうちに、王都までもう一時間ほどで到着というところで、旅のお供にお婆さんが加わったのである。


 それからは、お婆さんと他愛ない会話を交わしているうちに、予定通り一時間ほどすると、王都の中央にそびえるようにして建っている、某テーマパークのシンボルかと見紛うほどにご立派な王城が姿を現した。

 馬に跨がっているために、視界を遮るものなどなにもない。

 そのため、王都をぐるりと取り囲むようにして構えられている高い城壁の開け放たれた門扉の両側には、二人の守衛の姿までがハッキリと視認できた。

 確か、追放されたのは王城の裏側で、あれよりは小さな門扉から放り出されたような気がする。

 それにこれまで読んできた物語の中でも、守衛がいて通行人を厳しく取り締まっていたような気がするから、単に気になっただけのことだった。

「ねえ、レオン。あの門扉って誰でも通れるの?」

「通行証を見せる必要があります。ご安心ください。この通り、ちゃんと用意してありますので」

 レオンが通行証をもっていたのには驚いたが、おそらくそれも魔法によるものだろう。

 なんてぼんやり思っていたときのことだ。

「あのう、お嬢様。私はここで」

「え? 家まで送っていきますよ」

「いえいえ、とんでもない。みすぼらしいおんぼろ屋敷を見せるわけにはまいりません。ここで結構ですので、それでは」

 門扉まであと数メートルという段になって唐突に、ここまででいいと言い出したお婆さんを引き留めようとするも、足が悪かったはずが、馬から飛び降りてそのまま逃げるようにしてどこかへ走り去ってしまうのだった。

「おそらく、乞食の虚言でしょう。お嬢様が気に病むことはありませんよ」

「……う、うん」

「お嬢様、あちらに見えますのが市井ですよ」

「わあっ! 凄い賑わい。お祭りみたい!」

 なんだかスッキリとしなくて、モヤモヤとしたものが胸の中で澱みのように残っていたのが、レオンのその声によって、私の頭は市井のことで一杯になるのだった。

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