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第五話 最初とは違う理由
冬が本格的になるころ、アルノルトの態度が少しずつ変わった。
変わった、というより——ほどけてきた、という方が正しいかもしれない。
執務室に書類を届けると、以前は受け取って終わりだったのが、短い言葉が添えられるようになった。「助かる」とか、「寒くないか」とか、それだけのことだ。でもアルノルトにしては、饒舌といってよかった。
オットーは何も言わなかったが、厨房のマルタは言った。
「閣下、最近顔つきが違うねえ」
「そうですか」
「あんたのせいだよ、絶対」
リディアは否定しようとして、言葉が出なかった。
転機は、ある朝の廊下だった。
リディアが書類を抱えて角を曲がったところで、アルノルトと正面からぶつかりそうになった。書類が数枚、床に落ちた。
「す、すみません」
「こちらこそ」
二人で同時にしゃがんで書類を拾った。指先が触れた。ほんの一瞬。でもアルノルトは手を引かなかった。リディアも、引けなかった。
顔を上げると、目が合った。
いつもの確かめるような目ではなかった。もっと、真っすぐな目だった。
「……リディア」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。今まではずっと「お前」だった。
「はい」
「お前は、ここを出たいと思ったことがあるか」
唐突な問いだった。リディアは少し考えた。
「……ないです」
「なぜ」
「居心地がいいので」
アルノルトはしばらくリディアを見た。それから、視線を書類に落として、立ち上がりながら言った。
「そうか」
それだけだった。でもその声が、いつもより低くて、静かで——リディアは立ち上がってから、自分の心臓がうるさいことに気づいた。
三日後、アルノルトに執務室に呼ばれた。
いつもと違う空気がした。書類仕事の呼び出しではない。リディアは扉を閉めて、アルノルトの前に立った。
「マルク子爵家のことを調べた」
リディアは息を飲んだ。
「父上はご健在だ。家は小さいが、爵位は続いている」
「……はい」
「お前を、ここに置きたい」
アルノルトは窓の外を見たまま言った。視線を合わせないのは、この人なりの誠実さだとリディアは思った。
「侍女としてではなく。俺の隣に」
静かな言葉だった。飾りがなかった。それがアルノルトらしかった。
リディアは胸の奥で、何かが音を立ててほどけるのを感じた。ずっと名前をつけられなかったものが、今ようやく形になった気がした。
「……閣下は」リディアは慎重に言葉を選んだ。「最初から、何かお気づきだったのですか」
アルノルトがリディアを見た。
「荷物が少なすぎた」
「それだけですか」
「……最初は、それだけだった」
最初は、という言葉が、胸の中で静かに響いた。
「今は」とリディアは聞いた。自分でも驚くくらい、真っすぐな声が出た。
アルノルトは少し間を置いた。窓の外の冬景色を一度見て、それからリディアを見た。
「今は、違う理由がある」
それだけだった。でも十分だった。
「……私も」リディアは言った。「ここを出たくない理由が、最初とは変わっています」
アルノルトの口の端が、わずかに動いた。この無愛想な辺境伯の、不器用な笑顔だと、リディアはもう知っていた。
「マルク子爵家への話は、俺から通す」
「……はい」
「返事は」
「はい」
アルノルトはまた少し黙った。
「……二回言わなくていい」
「すみません、嬉しくて」
今度こそ、アルノルトは笑った。小さく、短く。でも確かに。
リディアも笑った。窓の外では、白い雪が静かに降り始めていた。
変わった、というより——ほどけてきた、という方が正しいかもしれない。
執務室に書類を届けると、以前は受け取って終わりだったのが、短い言葉が添えられるようになった。「助かる」とか、「寒くないか」とか、それだけのことだ。でもアルノルトにしては、饒舌といってよかった。
オットーは何も言わなかったが、厨房のマルタは言った。
「閣下、最近顔つきが違うねえ」
「そうですか」
「あんたのせいだよ、絶対」
リディアは否定しようとして、言葉が出なかった。
転機は、ある朝の廊下だった。
リディアが書類を抱えて角を曲がったところで、アルノルトと正面からぶつかりそうになった。書類が数枚、床に落ちた。
「す、すみません」
「こちらこそ」
二人で同時にしゃがんで書類を拾った。指先が触れた。ほんの一瞬。でもアルノルトは手を引かなかった。リディアも、引けなかった。
顔を上げると、目が合った。
いつもの確かめるような目ではなかった。もっと、真っすぐな目だった。
「……リディア」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。今まではずっと「お前」だった。
「はい」
「お前は、ここを出たいと思ったことがあるか」
唐突な問いだった。リディアは少し考えた。
「……ないです」
「なぜ」
「居心地がいいので」
アルノルトはしばらくリディアを見た。それから、視線を書類に落として、立ち上がりながら言った。
「そうか」
それだけだった。でもその声が、いつもより低くて、静かで——リディアは立ち上がってから、自分の心臓がうるさいことに気づいた。
三日後、アルノルトに執務室に呼ばれた。
いつもと違う空気がした。書類仕事の呼び出しではない。リディアは扉を閉めて、アルノルトの前に立った。
「マルク子爵家のことを調べた」
リディアは息を飲んだ。
「父上はご健在だ。家は小さいが、爵位は続いている」
「……はい」
「お前を、ここに置きたい」
アルノルトは窓の外を見たまま言った。視線を合わせないのは、この人なりの誠実さだとリディアは思った。
「侍女としてではなく。俺の隣に」
静かな言葉だった。飾りがなかった。それがアルノルトらしかった。
リディアは胸の奥で、何かが音を立ててほどけるのを感じた。ずっと名前をつけられなかったものが、今ようやく形になった気がした。
「……閣下は」リディアは慎重に言葉を選んだ。「最初から、何かお気づきだったのですか」
アルノルトがリディアを見た。
「荷物が少なすぎた」
「それだけですか」
「……最初は、それだけだった」
最初は、という言葉が、胸の中で静かに響いた。
「今は」とリディアは聞いた。自分でも驚くくらい、真っすぐな声が出た。
アルノルトは少し間を置いた。窓の外の冬景色を一度見て、それからリディアを見た。
「今は、違う理由がある」
それだけだった。でも十分だった。
「……私も」リディアは言った。「ここを出たくない理由が、最初とは変わっています」
アルノルトの口の端が、わずかに動いた。この無愛想な辺境伯の、不器用な笑顔だと、リディアはもう知っていた。
「マルク子爵家への話は、俺から通す」
「……はい」
「返事は」
「はい」
アルノルトはまた少し黙った。
「……二回言わなくていい」
「すみません、嬉しくて」
今度こそ、アルノルトは笑った。小さく、短く。でも確かに。
リディアも笑った。窓の外では、白い雪が静かに降り始めていた。
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