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牢から出たエルザ
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石造りの冷たい牢の片隅に、彼女はじっと座り込んでいた。幾日が過ぎたのか、もう数える気力も残っていない。
繊細な絹で仕立てられたドレスは泥に汚れ、裾は破れ、もはやかつての優雅な姿をとどめていなかった。
背筋を伸ばす気力もなく、肩は落ち、細い指は無意識に膝の上で絡められている。
瞳はどこを見るともなく虚空を漂い、顔には深い疲労と困惑が刻まれていた。
艶やかな美貌も今は色を失い、青白い肌には冷気がしみ込んでいた。
壁を這う湿気と黴の匂いが彼女の嗅覚を鈍らせるほどに染みついている。
彼女はただ、静かに座っていた。言葉も涙も枯れ果てていた。
ふとその時、重く冷たい鉄扉がきしみを上げて開いた。
沈黙の中で湿った空気が揺れ、細く高い足音が奥へと進んでくる。
ヒールの音――牢獄には不釣り合いな、あまりにも優雅な歩みだった。
囚われの女はその音を聞いてゆっくりと顔を上げた。
ぼんやりとした瞳の奥に、ほんの一瞬、憎悪の炎がちらついた。彼女は知っている。この足音を、この香水の匂いを。
格子の向こうに現れたのは、彼女をここに入れた張本人。
憎き恋敵──フレン伯爵夫人、システィーナだった。
「御機嫌よう、元ミスティ子爵夫人。牢での生活は如何かしら……?」
その問いかけに囚人の──元ミスティ子爵夫人エルザは何も言わなかった。
ただ、システィーナへ突きさすような鋭い眼差しを向けている。
「ようやくあなたの処罰が決まったわ。だから、ここから出してあげる」
エルザは一瞬、聞き間違いかと思った。
自分の耳が幻を聞かせたのではないかと、ぼんやりと相手の顔を見つめる。
「……何ですって?」
しばらくぶりに人と話すせいか、その声はかすれていた。
乾ききった喉から搾り出された言葉は自分でも信じきれていない疑念に満ちていたが、それでも心の奥に、確かに何かが揺れた。
「言葉通りよ。あなたを、ここから出してあげる。」
その瞬間、エルザの顔にかすかな変化が現れた。
わずかに伏せられたまつげの奥で瞳が光を捉える。まるで干からびた大地に久しぶりに雨粒が落ちたかのように。
彼女は動かない身体を奮い立たせるように、ゆっくりと立ち上がった。
まだ完全には信じられない。けれど、あまりに長く闇の中にいた彼女にとって、その言葉は眩しかった。
「……本当に……?」
囁くようなその声には、恐れも戸惑いもあった。だが、間違いなく、そこには“希望”があった。
絶望の淵にいる者が、それでも手を伸ばしてしまう小さな光。
そしてほんの一瞬だけ、彼女の目が輝いた。
「ええ。まずは身支度を整えましょうね……」
システィーナの命令を受けた騎士が牢屋の鉄格子にぶら下がっていた重たい鍵を外すと、金属音が静かに響いた。
牢を出たエルザは、無言の案内に従って石の階段を上り、やがて、廊下の奥にある一室へと足を踏み入れた。
そこには湯を溜めたバスタブが用意されており、久しく忘れていた温かい蒸気と、かすかな薫香が肌を包む。
衣を脱がされ、湯へ足を沈めた瞬間、思わず小さく息を漏らす。
「ああ……」
熱が肌にしみこみ、汚れとともに荒んだ心が少しずつほどけてゆく。
侍女たちが無言で髪を解き、湯をかけ、香油を馴染ませる。指先が、自分のものでないように感じられた。
風呂を出ると、柔らかな衣と香り立つ布が肌を包んだ。
鏡に映った自分を見てエルザはしばらく目を離せなかった。
やつれてはいる。だが、確かにそこには――唯一自慢になる美貌が残っていた。
(やっぱり、私は美しいわ……。あんな小娘よりも、ずっと……)
エルザは、自らの美貌に絶対的な自信を抱いていた。
他に誇れるものなど何ひとつなかったから、美しさだけが彼女のすべてだったのだ。
(今の私を見たら……きっとレイモンド様も……)
牢に入れられたことで少しは今までのことを悔いたかと思いきや、根っこの部分は変わっていなかった。
エルザの中では相変わらずレイモンドへの執着は薄れてない。以前拒否されたことなど無かったかのように彼への思慕を募らせる。
「準備が整いましたので、こちらへどうぞ」
鏡を見つめながら夢想にふけるエルザに侍女は素っ気なく言い放つ。
その言い方が癇に障り、睨みつけると、侍女は乱暴にエルザの腕を引っ張った。
「痛っ……! ちょっと、何をするのよ!」
痛みに抗議の声をあげると、侍女の腕の力はますます強くなる。
それを見ていた別の侍女が慌ててたしなめる声をあげた。
「ちょっと、献上品に傷をつけては駄目よ! 価値が下がるじゃない」
「あっ……そうでした。申し訳ございません……」
腕を引っ張っていた侍女が力を緩め、窘めてきた侍女に頭を下げる。
(献上品…………?)
今、気になる言葉が耳に引っかかったものの、別の侍女に「早く出てください」と急かされ、渋々歩を進めた。
「え……? このまま外に出るの?」
「そうですが、なにか?」
「は? この姿で?」
エルザが今身に纏っているのは、ドレスとは言い難い薄絹の衣装だった。
肌にまとわりつくような薄く繊細なシフォンは柔らかな光沢を帯びて揺れるたびに、内側の曲線を妖しく映し出す。胸元を飾る細やかなレースはまるで触れられるのを待つかのように繊細で、揺れる裾は短く、その隙間からは滑らかな太ももが覗き、官能的な誘惑を漂わせる。淡く艶めく色彩が肌の透明感を際立たせ、ゆるやかなシルエットは甘美な欲望をそっと忍ばせていた。
まるで下着のような衣装で部屋の外に出るなんて、さすがのエルザでさえ「正気?」と非難の声をあげてしまった。
繊細な絹で仕立てられたドレスは泥に汚れ、裾は破れ、もはやかつての優雅な姿をとどめていなかった。
背筋を伸ばす気力もなく、肩は落ち、細い指は無意識に膝の上で絡められている。
瞳はどこを見るともなく虚空を漂い、顔には深い疲労と困惑が刻まれていた。
艶やかな美貌も今は色を失い、青白い肌には冷気がしみ込んでいた。
壁を這う湿気と黴の匂いが彼女の嗅覚を鈍らせるほどに染みついている。
彼女はただ、静かに座っていた。言葉も涙も枯れ果てていた。
ふとその時、重く冷たい鉄扉がきしみを上げて開いた。
沈黙の中で湿った空気が揺れ、細く高い足音が奥へと進んでくる。
ヒールの音――牢獄には不釣り合いな、あまりにも優雅な歩みだった。
囚われの女はその音を聞いてゆっくりと顔を上げた。
ぼんやりとした瞳の奥に、ほんの一瞬、憎悪の炎がちらついた。彼女は知っている。この足音を、この香水の匂いを。
格子の向こうに現れたのは、彼女をここに入れた張本人。
憎き恋敵──フレン伯爵夫人、システィーナだった。
「御機嫌よう、元ミスティ子爵夫人。牢での生活は如何かしら……?」
その問いかけに囚人の──元ミスティ子爵夫人エルザは何も言わなかった。
ただ、システィーナへ突きさすような鋭い眼差しを向けている。
「ようやくあなたの処罰が決まったわ。だから、ここから出してあげる」
エルザは一瞬、聞き間違いかと思った。
自分の耳が幻を聞かせたのではないかと、ぼんやりと相手の顔を見つめる。
「……何ですって?」
しばらくぶりに人と話すせいか、その声はかすれていた。
乾ききった喉から搾り出された言葉は自分でも信じきれていない疑念に満ちていたが、それでも心の奥に、確かに何かが揺れた。
「言葉通りよ。あなたを、ここから出してあげる。」
その瞬間、エルザの顔にかすかな変化が現れた。
わずかに伏せられたまつげの奥で瞳が光を捉える。まるで干からびた大地に久しぶりに雨粒が落ちたかのように。
彼女は動かない身体を奮い立たせるように、ゆっくりと立ち上がった。
まだ完全には信じられない。けれど、あまりに長く闇の中にいた彼女にとって、その言葉は眩しかった。
「……本当に……?」
囁くようなその声には、恐れも戸惑いもあった。だが、間違いなく、そこには“希望”があった。
絶望の淵にいる者が、それでも手を伸ばしてしまう小さな光。
そしてほんの一瞬だけ、彼女の目が輝いた。
「ええ。まずは身支度を整えましょうね……」
システィーナの命令を受けた騎士が牢屋の鉄格子にぶら下がっていた重たい鍵を外すと、金属音が静かに響いた。
牢を出たエルザは、無言の案内に従って石の階段を上り、やがて、廊下の奥にある一室へと足を踏み入れた。
そこには湯を溜めたバスタブが用意されており、久しく忘れていた温かい蒸気と、かすかな薫香が肌を包む。
衣を脱がされ、湯へ足を沈めた瞬間、思わず小さく息を漏らす。
「ああ……」
熱が肌にしみこみ、汚れとともに荒んだ心が少しずつほどけてゆく。
侍女たちが無言で髪を解き、湯をかけ、香油を馴染ませる。指先が、自分のものでないように感じられた。
風呂を出ると、柔らかな衣と香り立つ布が肌を包んだ。
鏡に映った自分を見てエルザはしばらく目を離せなかった。
やつれてはいる。だが、確かにそこには――唯一自慢になる美貌が残っていた。
(やっぱり、私は美しいわ……。あんな小娘よりも、ずっと……)
エルザは、自らの美貌に絶対的な自信を抱いていた。
他に誇れるものなど何ひとつなかったから、美しさだけが彼女のすべてだったのだ。
(今の私を見たら……きっとレイモンド様も……)
牢に入れられたことで少しは今までのことを悔いたかと思いきや、根っこの部分は変わっていなかった。
エルザの中では相変わらずレイモンドへの執着は薄れてない。以前拒否されたことなど無かったかのように彼への思慕を募らせる。
「準備が整いましたので、こちらへどうぞ」
鏡を見つめながら夢想にふけるエルザに侍女は素っ気なく言い放つ。
その言い方が癇に障り、睨みつけると、侍女は乱暴にエルザの腕を引っ張った。
「痛っ……! ちょっと、何をするのよ!」
痛みに抗議の声をあげると、侍女の腕の力はますます強くなる。
それを見ていた別の侍女が慌ててたしなめる声をあげた。
「ちょっと、献上品に傷をつけては駄目よ! 価値が下がるじゃない」
「あっ……そうでした。申し訳ございません……」
腕を引っ張っていた侍女が力を緩め、窘めてきた侍女に頭を下げる。
(献上品…………?)
今、気になる言葉が耳に引っかかったものの、別の侍女に「早く出てください」と急かされ、渋々歩を進めた。
「え……? このまま外に出るの?」
「そうですが、なにか?」
「は? この姿で?」
エルザが今身に纏っているのは、ドレスとは言い難い薄絹の衣装だった。
肌にまとわりつくような薄く繊細なシフォンは柔らかな光沢を帯びて揺れるたびに、内側の曲線を妖しく映し出す。胸元を飾る細やかなレースはまるで触れられるのを待つかのように繊細で、揺れる裾は短く、その隙間からは滑らかな太ももが覗き、官能的な誘惑を漂わせる。淡く艶めく色彩が肌の透明感を際立たせ、ゆるやかなシルエットは甘美な欲望をそっと忍ばせていた。
まるで下着のような衣装で部屋の外に出るなんて、さすがのエルザでさえ「正気?」と非難の声をあげてしまった。
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