どこまでも付いていきます下駄の雪

楠乃小玉

文字の大きさ
43 / 76

四十三話 分からぬ、なぜ努力せぬのか分からぬ。<改正>

しおりを挟む
 武田より信濃攻めの与力あるよう駿河に使者が訪れ、
 雪斎様より兵糧集めたる事申しつかった元実は、
 その準備万端整いたるをご報告もうしあげるため今川館に参上した。

 おりしも、三浦内匠助殿と偶然に道でお会いし、
 今川館に参上されると聞き、共に参らんという事になった。

 内匠助殿は小脇に大量の書状を抱えておられた。

 織田信勝の軍費調達の借書を買い集める任を義元公より仰せ使ったとのことであった。

 龍王丸様のご教育、勘定方の政務、それに加えて、
 借書の蒐集とは、まさに八面六臂のご活躍である。

 今川館に到着すると内倉助殿は実元に先に御屋形様に拝謁するように、
 とお勧めであった。

 両人一緒に参っては御屋形様にお気を使わせる、
 とのお心使いである。

 実に細部にわたって心使いの行き届いた賢臣であると実元は感心した。

 元実が先に義元様に拝謁し、兵糧の事ご報告もうしあげ退席したあと、
 門前でお待ちの内匠助殿をお呼びもうしあげたが、
 門前で立ちたる内匠助殿のご様子がおかしい。

 真っ青な顔で顔から脂汗が流れておる。

 「これはお具合が悪いのではあるまいか、
 少し休まれるがよろしかろう」

 「休むなどとんでもない。恐れ多くも龍王丸様の傅役が
 そのように怠けた態度を取っておっては家中に示しがつかぬ」

 「病とあれば別儀にござる、たれか、水を持て」

 家中の者が慌てて奥に下がった。

 「いや、ご心配めさるな、ご心配」 

 内匠助殿は小脇に抱えた書状をとりおとされる。

 ばらばらとそれは舞いながら地に落ちた。

 「ああ大事な書状が……」

 内匠助殿はそれを拾わんと手を伸ばされるがそのまま崩れ落ち、
 しゃがみ込んでしまわれた。

 「今すぐ休まれよ、御身が危ない」

 「大丈夫、大丈夫でござる。
 これしきの事、気力でえはああっ、あうあ、」

 言葉を発せられなくなったか内匠助殿は両手で頭を抱えられた。

 そのまま、館の玄関で前にのめるように倒れられた。

 「何事じゃ」

 騒ぎをお聞きつけになられた義元公が奥よりお出ましになられる。

 その時、内匠助殿は大声で高いびきをかいておいでであった。

 「このような衆人の見る前で昼寝など、なんたる不調法」

 義元公は眉をひそめられた。

 「お待ち下さい、内匠助殿はあまりにもお疲れのご様子
 、安静にして薬師と家人を呼びましょう」

 「内匠助、そなたほどの者がこのような場所で寝こけるとは、
 起きよ、そなたなら起きられるはずじゃ、起きよ」

 義元公が何度呼びかけられても内匠助殿はそのまま大いびきをかいて寝続けた。

 「もうよい、ずっと寝ておれ」

 義元公は呆れられ、奥に引き退かれた。
 その後、内匠助殿は奇跡的に一命をとりとめられた。

 しかし、義元公のご勘気はとけず、
 守り役の責をとかれ、蟄居謹慎を申しつけられた。

 三浦内匠助殿から引き離されたと知るや
 龍王丸様は狂ったように泣き叫ばれ、
 屋敷の奥に引きこもられ勉学も武芸も何もされなくなった。

 義元公が怒り、折檻して叱っても傀儡のように体の力を抜き、
 何の抵抗もされず、ただ殴られるだけであった。

 これには義元公もかなりお心に堪えられたようであった。

 久々に一宮の館へ内密においでになり、
 宗是の前で息子が心配だとのたまい、
 お嘆きであられた。

 義元公はまるで鉄人のようなお方である。

 その鉄人もご自分のご子息のこととなればままならぬものであるのだ。

 またこれほどのお方であろうと息子のために涙をお流しになるのだなあと思い、
 元実としても感慨深いものがあった。

 「分からぬ、なぜ努力せぬのか分からぬ。
 我は幼き頃より進んで勉強をした。
 武芸もした。
 名門今川家の嫡子ならば当然の事と思うて
 何の苦もなく学び続けた。
 遊んだことも怠けた事も一度もない。
 それが、我が血を引く息子は何故これほどに怠けるのか。
 かわいい龍王丸の行く末が心配で心が裂けそうである」

 「それは我ら譜代の家臣、秀逸な師であらせられる
 太原雪斎様がおいででありましたゆえ、
 お心にお迷いが無かったのでしょう。
 龍王丸様にもお支えする近臣が必要かとぞんじまする」

 「それは高名な僧がよいか」

 「されど、今はお心を閉ざされておられますので、
 親しき者を付けられ、お慰めするのがよろしいのではと
 臣は愚考いたしまする」

 「わかった、そのように計らおう。
 それにしても大事な龍王丸をこのように甘やかして育てた
 三浦内匠助の失態やいかばかりかあらん。断じて許しがたい」

 「恐れながら、龍王丸様は三浦殿にいたくご執心であられました。
 決して龍王丸様の傍ではそのような事のたまわってはなりませぬ。
 また龍王丸様のお心が立ち直られるまでは
 ご随意にしてさしあげるのが宜しいかと。
 このままでは龍王丸様のお心が死んでしまわれます」

 「うむ、そうであるな、大事な嫡子が自害でもしようものなら、
 悔やんでも悔やみきれぬ。
 しばし様子を見ることとしよう」

 義元公は宗是の助言を受けて帰ってゆかれた。
 
 「子育てには兵法書がないからの」

 義元公が帰られてから父が元実に言うた。

 「勉強は本を読めば答えが載っておる。
 だから努力してそれを学べば良い。
 しかし人の世というものは答えの分からぬ事も多くあるということじゃ」

 「親父様は某を育てる時も苦労され、悩まれたか」

 「ふふふ、それはそなたが父になれば分かろう」

 「何やら逃げられた気がいたしまする」

 「言うたろう、子育てには兵法書はないと。
 某の答えを教えたとて、
 そなたの子供には役に立つまい。
 己が頭で考えよ」

 「これは手厳しい、ははは」

 「わはは」

 元実は父と一緒に笑った。
 他人事だから笑っていられる。
 義元公のご心労いかばかりや。

 
 義元公は三浦内匠助殿を御信任なされていただけに、
 その失望は大きく、
 お怒りも尋常のものではなかったようではあるが
 龍王丸様のお気持ちをおもんばかられ、
 家禄没収や追放はまぬがれた。。

 守り役としての立場は大きく制限され、
 補佐として龍王丸様が親しくしておられるご学友、
 大原資良の息子、大原右衛門佐がつけられた。
 

 また大原は素性賤しきと蔑まれることも多かったので、
 大原右衛門佐に三浦内匠助の養子とし、三浦義鎮とした。

 表では皆この義元公のご判断をご賢明と褒めたが、
 内々では三浦内匠助殿に同情せぬ者は無かった。 
しおりを挟む
感想 43

あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...