明け方に愛される月

行原荒野

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【本編】明け方に愛される月

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 日曜日は快晴だった。抜けるような秋の空がどこまでも高く澄んでいる。
 早起きをして窓を全開にし、部屋を掃除してから佳人は料理の下準備に取り掛かった。
 あれから芳崎とは一度だけメールのやり取りをした。料理を振舞うにあたって最低限好き嫌いだけは確認しておきたかったからだ。「嫌いなものはありますか」というそっけない佳人の問いに芳崎はすぐに返事をくれた。「特にないよ。愛情だけたっぷり入れてくれ」という一見ザワッと鳥肌が立つような文面でも、あの爽やかで逞しい男の顔を思い浮かべると、妙に似合ってしまうと考えるのはどうなのだろう。
 彼はああ見えて意外と軽い男なのかもしれない。少なくともあの見栄えの良さと世話好きな様子からして、恋愛の相手に困ることはないのだろう。
 そう考えるとチリ、と胸のどこかが引きつるような感覚を覚えた。
 揚げ物、焼き物の仕上げを残してほぼ準備が整った頃、ふと時計を見ると約束の午後一時まであと僅かとなっていた。
 改めて部屋の中を見回す。殺風景だが綺麗に片付いているのを確認して小さく息をつく。ここに誰かを入れるのは初めてだった。離縁した養父母たちはもちろん、義弟の誠でさえ玄関から先へ入れたことはない。
 それなのにまだほとんど素性も知れない、自分より幾つも年上の男を招き入れる気になったのは何故なのだろう。
 そんなのは怖いだけのはずなのに。
 何を話したらいいのかも、どんな顔をすればいいのかも判らない。
 そう考えると佳人は今更ながらに激しく緊張してきた。
 もしかしたら自分はとんでもなく常識外れのことをしているのではないだろうか。
 芳崎はどう思っているのだろう。楽しみだとは言ってくれたけれど、本当は呆れているのではないだろうか。  
 俄かに指先が冷たくなってきて、湯気をあげる鍋の上に手をかざした時、玄関のチャイムが鳴った。ビクンッ、と冗談みたいに身体が震えて、佳人は慌ててガスの火を止めた。
「あっ、は…、はい!」
 緊張に震える手でドアを開けると、背の高い男が整然とそこに立っていて、佳人を見ると小さく目を瞠り、楽しげに口許を綻ばせた。
「本日はお招きにあずかりまして」
「あ、はい」
「入っても?」
 入口を塞ぐようにして固まっていた佳人は、はっとしてドアを大きく開けた。
「す、すみません、どうぞ」
 芳崎はクスリと小さく笑うと、お邪魔します、と言って小さな玄関に入ってきた。
 狭い空間に立つと芳崎が憶えていた以上に背が高く、大きな身体をしていることに気付く。広い肩に似合いの薄手の黒いコートは、ひんやりとした秋の冷気を纏っていた。
「いい匂いがする」
「あ、まだ下準備が終わったところで、あの、これ履いてください」
 真新しいスリッパを出して揃えると、芳崎は感心したように礼を言ってそれを履き、主の佳人を促すようにして部屋に足を踏み入れた。
「これ、お土産。ケーキなんだけど大丈夫かな」
「あ、ありがとうございます。お気を遣わせてしまって」
 恐縮して受け取る佳人に、芳崎は苦笑を漏らした。
「なあ、その敬語やめないか。なんだか生徒と話してるみたいで教師モードになっちまう」
「あ、先生…なんですか」
「K高のな。君の母校だ」
「え、」
「もう少し早く教師になってたら学校でも会ってたかもな」
 コートを脱ぎ、勧められたリビングのソファに座りながら、芳崎が悪戯っぽく笑って佳人を見つめる。
「……俺の学校、知ってたんだ」
 驚いたせいで、指摘されたからでもなく口調が崩れた。芳崎は満足そうに頷いた。
「いつも制服で来てただろ」
 当然のことのように言う芳崎を、佳人はやはり不思議な気持ちで見てしまう。何故この人はこんなにも自分のことを見ていたのだろう。佳人はただひっそりと、あの図書館の片隅で映画を観ていただけなのに。
「ついでに言えば、俺の母校でもある」
「あ…、」
 今度こそ本当に驚いて呆気にとられたあと、思わず笑ってしまった。その自然な笑みに芳崎が目を瞠る。
「へえ……」
「な、なに?」
「いや、初めて見たなと。笑った顔」
 芳崎は嬉しそうに目を細めて、ためらいもなく可愛いなどと続ける。二十二歳の男に可愛いはないのではないか。
 案外タチの悪い人たらしなのかもしれないと佳人は軽い警戒心を覚える。
「君のことはなんて呼べばいい?」
「なんでも、…好きなようにどうぞ」
「じゃ、佳人」
「えっ」
 いきなり呼び捨てにされて困惑の表情を浮かべると、芳崎は膝の上に両手を組んで少し前かがみになりながら、ダメか? と言って首を傾ける。
 何故だがフワフワした気分になって、佳人はそっけない口調で別に、と言った。
 それからその不安定な気持ちをごまかすように湯を沸かし、芳崎に意向を訊いてからコーヒーを淹れた。
「テレビでも見ててください」
 佳人がカップを芳崎の前のローテーブルの上に置くと、芳崎は礼を言って、それからテレビの脇のキャビネットを見た。
「DVD結構揃ってるな。今でも映画が好きなのか」
「他に趣味がないので。見たかったらどうぞ」
「借りた方が経済的じゃないか?」
 芳崎はキャビネットを開いてタイトルを物色する。
「気に入ったものは何度も観たいから」
「ふうん」
 あ、と言って芳崎が一枚のDVDを手に取った。佳人が見るとそれは佳人が特に気に入っている古い白黒映画だった。
「懐かしいな。『素晴らしき哉、人生!』か。俺もコレ好きなんだ」
 芳崎はひどく嬉しそうな目をして佳人に笑いかけた。まるで慈しむようなその眼差しにドキリとして佳人は反射的に顔をそらした。
「観たいなら、どうぞ」
「いや、今度一緒に観たいな」
「え、」
 佳人が戸惑った顔で振り向くと、芳崎は、あ、と気づいたように苦笑した。
「俺の悪いクセだ。なんでもかんでもマイペースで事を運ぼうとしちまう」
「……別に、いいけど」
「そう? じゃ、ぜひ今度」
 佳人は曖昧に頷き、背を向けて鍋に火をかけた。こんな風に誰かに気安く誘われたことがないから困惑する。
 何より次があるということが不思議で、誰かと約束をすることが、こんなにも心をざわめかせるものだとは知らなかった。
 芳崎が適当につけたテレビを見始めたのを機に、佳人は本格的に料理に取り掛かった。
 もともと料理は嫌いじゃない。合理的な段取りに則って細々と動いていると無心になれていい。煩わしいことや不安なことも、その間だけは忘れていられる。 
 今日振舞うのは大根とスモークサーモンのマリネ、鱈のムニエル、柚子胡椒風味のチーズチキンカツ、オレンジピールとアーモンドのかぼちゃサラダ、しらすと枝豆の炊き込みご飯、水菜としめじのお吸い物といった和洋折衷のメニューだ。そしてデザートには豆乳の抹茶アイスを用意した。
 紺のエプロンを身に着け、髪を後ろでひとまとめにした佳人は無駄のない動きで焼き物や揚げ物を仕上げてゆく。
 白いクロスを張ったテーブルに出来上がった料理の皿を並べながらふとリビングの方を見ると、テレビを見ていると思っていた芳崎が思いがけず好ましげな眼差しで自分を見ていて小さく鼓動が跳ねた。
「……な、に」
「いや、なんかいいな、と思って。真剣にそうやって料理してるのかっこいいよ。仕事ぶりが目に浮かぶ」
「いや、俺はまだ、全然」
 佳人はじんわりと首筋が熱くなるような感覚にぎこちなく俯いた。
 芳崎は立ち上がってキッチンに入ると、テーブルの上に並んだ料理を見て感嘆の声をあげた。
「はあ…、すげえな、こんなの家で食べられることってなかなかないぜ」
「そんな、大げさだ」
 本当はメニューを散々考えた。初めて人に料理を振舞うことにひどく緊張していたし、このテーブルにクロスを掛けたのも初めてだった。
「待ちきれないな、朝は食ってないんだ」
「そうなんですか」
 芳崎は向かいの椅子を引いて座り、ニコニコと並べられた料理を眺めた。
「あとは、ご飯をよそうだけだから」
 急いで茶碗を取り出すと、ほかほかと湯気の立つ炊き込みご飯を多めによそって芳崎の前に置いた。
「うわ、うまそうだ。たまんないな、こういうの」
 子供のように喜ぶ芳崎に、頬がじわりと熱くなる。
 フワフワした気分のままお吸い物をその横に添え、自分の分も用意するとエプロンを外して芳崎の向かいに腰掛けた。
「この椅子、新しいけどもしかして今日のために?」
「あ、はい。うちには一脚しかなかったから」
 誰かと食卓を囲むことなど考えたこともなかったから椅子だけでなく、箸も器も一人分しかなくて、佳人は慌ててそれら一式を買い揃えたのだ。
「なんだ、随分散財させちまったな。俺がわがまま言ったから」
「いえ、気にしないでください」
 本当を言えば、自分以外の誰かのために何かを用意する行為は、予想外に佳人を愉しませた。
 背の高い芳崎のために安定感のある背もたれつきの椅子を選ぶのも、長い指に似合う頑丈で渋い色味の箸や茶碗を迷いながら選ぶのも少しドキドキした。
 それはこうして芳崎と向き合う時間を想像する行為に他ならなかった。
「嬉しいよ、すごく」
 芳崎が包み込むような眼差しで佳人を見つめながら言った。佳人はどんな顔をしていいのか判らず、目を逸らしたまま芳崎に料理を勧めた。
「じゃあ、いただきます」
 芳崎は言うや否や、お吸い物に口をつけ、大きく頷くと、実に気持ちのいい豪快さで次々と料理に箸を伸ばした。
 白く整った頑丈そうな歯で咀嚼し呑み込む姿は雄の獣を思わせ、けれど決して下品にはならない優美さと色気があった。 
「美味い! どれもこれも最高に美味いよ」
 満面の笑みで賞賛されると、それだけで胸が一杯になって、佳人は自分の食事はそこそこに、芳崎の男らしい健啖ぶりに見惚れた。
 まるで自分が食べられているみたいな感覚に陥って微かに目が潤む。
 芳崎に丸ごと受け入れられているような気がして、佳人は怖さと紙一重の幸福を感じていた。
 自分が包容力のある大人の男に弱いということには薄々気がついてはいた。けれどそれは苦い後悔しか生まないことも過去の経験から知っている。
 だから心が濡れるような喜びを感じても、それに溺れ切ることは出来ない。
 ふっと俯いた佳人に芳崎は箸を止め、どうした? と優しい声で訊いた。佳人は小さく首を振って、照れ臭いだけだと誤魔化し、静かに笑った。
 食事が終わると芳崎が食器洗いを買って出た。佳人が客にそんなことはさせられないと言うと、じゃあ、一緒に洗おう、と言うので仕方なく二人並んで洗う係と流す係に分かれて皿洗いをした。
「なんかこうしてると新婚みたいだな」
「な、んですか、それ」
 ご機嫌な芳崎は大きな手を器用に動かして次々と泡まみれの食器を回してくる。言われたことが気恥ずかしくて、佳人はわざと不機嫌な顔を装った。
「でもあんな美味いもの食わせてもらったの初めてだぜ」
「ウソだ」
「なんで?」
「……モテそうだから」
「でもないよ。フラれてばっかだ」
 その声が意外にしんみりしていて佳人は思わず芳崎を見上げる。
「佳人は? 恋人はいるのか」
「いない、そんなの」
「へえ、そっちのが意外だな。キレイな顔してるのに。料理も上手いし」
「……」
 芳崎は小さく笑っていきなり佳人の手を取った。
「なっ、なに」
「綺麗な手だよな。少し荒れちゃってるのが可哀そうだけど、働く綺麗な手だ」
「そ、…ゆうコト言うから、」
「なに? タラシみたいだって言うの」
 佳人が頷くと、芳崎は声を立てて笑った。
「確かに思ったことは結構口にするけど、誰にでもお世辞を言うわけじゃない。佳人の手はずっと気に入ってた。あの図書館で君がカードを取り出したり、DVDを受け取ったりする時いつも見惚れてたし」
 芳崎は水を止めて、佳人の両手を大きな手の中に包み込んだ。
 男らしく硬い皮膚の感触が生々しくて、ドクンドクンと心臓が音を立て、息苦しさに目を伏せる。
「……ほ、ホモ…とか?」
「いや、でも男もイケるぜ」
 あまりにあっさりと言う芳崎に大きく目を瞠る。その表情に芳崎が苦笑した。
「怯えるなよ、誰彼構わず手を出すわけじゃない。襲ったりしねえよ」
「あ、当たり前」
 言いながら握られた手が急激に熱くなるのを感じて、佳人はさりげなく手をほどいた。
「こんなこと言ったらもう呼んでもらえなくなるかな」
「べ、別に。来たかったら、来れば」
 勢いよく水を出して皿洗いを再開した佳人は、その強張った細い背中を見つめながら、たまんないな…、と呟く芳崎の声に気付くことはなかった。


 それから芳崎はちょくちょく佳人を尋ねてくるようになった。仕事帰りのときは簡単な料理を振舞い、一緒に映画を観る。今夜見ているのはあの時に一緒に観ると約束した「素晴らしき哉、人生!」だ。
 幼い頃から世界一周の旅を夢見ていた主人公ジョージは、夢が叶いそうになるたびに家族の事情によってそれを阻まれ、いつも貧乏くじを引いてきた。
 けれどその情に厚く誠実な人柄は街の人々に愛され、美しく優しい伴侶や可愛い子供を得て幸せにも恵まれた。
 だが人望のあるジョージを目障りに思う街のボスに陥れられ、人生最大の危機に見舞われた彼は、絶望の末に自殺を企てる。
 そこに落ちこぼれ天使クラレンスが遣わされ、生まれて来たくなかったと嘆くジョージに、彼が生まれなかった場合の世界を見せる。
 そこでジョージが見たのはひどく荒み、悲しみに溢れた世界だった。そして過去の自分の行いが、気付かないうちにたくさんの人々の人生を救っていたこと、彼自身もまた贅沢なほどの愛に恵まれていたことに気付いたジョージは、逃げずに困難に立ち向かうことを決意し、元の世界に戻る。
 そこへかつてジョージに恩を受けた人々が駆けつけ、彼らの協力により苦難は吹き飛ばされる。「友ある者は決して失敗者ではない」というクラレンスからのメッセージによって物語は幕を閉じる。
 いかにもクリスマスの時期に似合いの、幸せで甘ったるいラストだとは思うが、最後に必ず救われることが判っているその物語は、佳人にとって精神安定剤のようなものだった。だから今日はヤバイと感じた時は、大抵そのDVDを手に取っていた。
 佳人は人々の人間らしい日々の営みを「外」から眺めるのが好きだった。
 瑣末な日々の出来事に彼らがあたふたしたり、嘆いたり、叫んだり、喜んだり、そういう人間らしい感情のほとばしりや、人々の交歓を疑似体験して、心の安定を図るクセがあった。
 現実では望むべくもない本物の絆を、フィクションの中に求めていたのかもしれない。
「この映画、初めて観たのもあの図書館?」
 ジェームズ・スチュワートが、一目でそれと判る愛嬌のあるおじさん天使と出逢う場面で芳崎がふいに尋ねた。佳人は頷く。
「高校の卒業式の日に。最後に何観ようかと思ってたら、これが席に置きっぱなしになってて、……別になんでもよかったから」
 本当はこの映画のタイトルを観た瞬間、苛立ちがこみ上げた。人生が素晴らしいだなんて、愛にも生活にも満たされた能天気な人間の戯言だと吐き棄てたい気分になった。
 それでもそれを観ようと思ったのは、この先の日々への不安に怯えていた自分に、何かひとつでも、明るく前向きなエールを投げかけて欲しいという切実な願いがあったからかもしれない。
「そうか。俺はこれ観ると、死んだ祖父さんを思い出すよ。うちは両親が忙しかったからほとんど祖父さんに育てられたようなもんでさ、あの歳の人間にしては洒落者でね、見栄っ張りで、でも気風がよくて誰からも慕われてた。他人の借金背負って家族からは相当恨まれてたみたいだけど、暗い顔なんて見たことがなかった。借金もちゃんと返済して、自分のやりたいことをやりたいようにやって死んでったよ。今でも祖父さんに世話になったって人に声かけられたりする」
「すごい、お祖父さんですね。……芳崎さんは、そのひとに似たのかも」
「そう?」
 佳人は頷いた。世話好きで、けれどそれが決して押し付けがましくはなく、好きでやっていることなのだとよく判る。人をよく見ているし、情に厚く、懐が深いのだろう。
「なんか、佳人といるとラクだな。居心地がいい」
「え、」
 そんなことを言われたことがなくて、単純に驚いて芳崎を見つめてしまう。
「佳人は優しいよ。愛想はよくないかもしれないけど、一生懸命で、誠実だ。不器用なトコも可愛いしな」
 今度こそ本当に言葉を失くして佳人は立てた膝に顔を埋めてしまう。けれど真っ赤になった耳までは隠せはしないだろう。
 芳崎はハハ、と笑って、佳人の頭をぽんぽんと軽く叩いた。ジワジワと身体が熱くなる。
 どうしよう、どうしよう、と声なき声が繰り返す。
 佳人の方こそ芳崎の隣は居心地が良すぎて、この温もりを手放したくなくなりそうだった。
 誰にも心を許さずに生きてきた自分の立ち位置すら揺らぐような不安も覚えて、訳もなく叫びたくなる。
 時おり軽く触れる肩が熱い。男もいけるという芳崎の言葉が蘇り、佳人は今まで感じたことのないような、グラグラと頼りない感覚に自分が陥りつつあることに気付いた。
 だが芳崎は手を出さないと宣言した通り、佳人に対してそういう素振りは一度も見せなかったし、意識してそれを避けているようにも見えなかった。
 あまりに二人で過ごす時間は自然で肩が凝らず、けれどその一方でジリジリとした焦りを覚える。この気持ちがなんなのかを考えたくはないけれど。
「このオッサン、ほんと出てきた瞬間、天使だって判るのすごいよな。これでもう、ああ、主人公は救われるんだなって思えるもんな」
 芳崎の呑気な声がおかしくて、そして少し胸が痛くなって、佳人は声が震えないように気を付けながら、ウン、と頷いた。

 十一月に入り、木々もうっすらと紅葉し始めていた。その日、仕事から上がった佳人は芳崎に誘われて珍しく街中へ出た。
 家族や職場の人以外の誰かと外で食事をするのは初めてで、緊張の面持ちで駅で待っていると、優れた長身の男がまっすぐ自分に向かって歩いてくるのが見えた。どきん、と心臓が鳴り、佳人は無意識に胸を押さえた。
 芳崎は艶のある黒髪を後ろに流し、切れ長の深い目で佳人を見つめている。広い肩と厚い胸にツイードのジャケットがよく似合っていて、たくさんの人のなかで彼の姿だけが浮き上がって見えた。
「悪い、待ったか」
「いえ」
 なんとなく顔が見られなくて伏し目がちに言うと、芳崎はポンと佳人の背中を促して歩き出した。
 並んで歩くと佳人の目線は芳崎の肩くらいだった。自分が最後に身長を測った時、169センチだったから、芳崎は多分185センチくらいなのだろう。
「佳人は目立つな。人ごみにいてもすぐ判る」
「え、どうして」
「色が白いし、なんか、いたいけなカンジがするから」
「なんですか、それ」
「ハハ、うまく言えないけど、独りで待たせちゃいけない気がするっていうか。軽い罪悪感を覚えるカンジ、かな」
「……よく、判らない」
「いいんだよ、判んなくて」
 軽く佳人の後頭部を撫でると芳崎はこっちだ、と言って予約したというレストランへ佳人を連れて行ってくれた。
 横浜駅から少し歩いた、小ぢんまりとしたそのレストランは、可愛らしい内装のせいか女性客が多かったが、男性や年配の客もちらほらといて、気取った感じのない居心地の良い店だった。
 佳人が気兼ねしないようにアットホームな店を選んでくれたのだろう。そういう気遣いも芳崎らしくて、彼を好ましく思う気持ちに拍車がかかりそうで、佳人は気がつくと俯いてしまっている。
 出て来た料理も繊細で、優しい味付けで、そのためにいっそう泣きたいような気持ちになった。
「どうした? あんまり口に合わなかったか」
 食後のコーヒーを飲む頃になって、芳崎が気遣わしげに訊いてきた。佳人ははっと顔をあげて、慌てて首を振った。
「すごい、美味かったです。雰囲気も良くて落ち着くし」
「そう? なら良かった。いつも作って貰ってるからさ。たまにはこういうのもいいかと思って。Busman's holidayじゃ申し訳ないからな」
「なんですか、それ」
「普段の仕事と同じことをして過ごす休日のこと」
「そんなことない。芳崎さんに料理作るのは、全然苦じゃないし、楽しいから」
 無理強いされている訳じゃないと言いたくて素直な想いを吐露すると、芳崎は目を瞠り、それから困ったように片手で口許を覆った。
「ほんと、…参るわ」
「え、何か俺、失礼なこと言いましたか」
「いや、いいんだ、佳人はそのままでいてくれ」
 優しい目許が甘く緩んで佳人をじっと見つめる。
(まただ。どうしてこのひとはこういう目で俺を見るんだろう)
 まるで愛おしく思われているみたいに錯覚してしまう。きっと誰にでも優しく笑いかけるに違いないのに。
 もう勘違いはしたくない。だから極力人とは近しい関係になりたくなかった。本当は芳崎とも距離を置いた方がいいことも判っている。寂しさに引きずられて自分の気持ちが抜き差しならない所まで行ってしまう前に。
 けれど芳崎の傍は温かくて、居心地が良くて、もう少しだけと、自分を戒める心から目を逸らしてしまうのだ。 
 食事を終えるとすでに午後九時を回っていた。
「ご馳走さまでした」
 先に店を出ていた佳人は、会計を済ませて出て来た芳崎にペコリと頭を下げた。
「どういたしまして」
 芳崎はおどけたように笑って佳人を促し歩き出した。二人とも明日も仕事のため今夜はこれでお開きだ。
 駅まで肩を並べて歩く。晩秋の風は少しひんやりとはしたが、肌寒いほどではなく、澄んだ芳しい香りを含んで佳人の頬を優しく撫でた。
 どこまでも歩いて行きたいような夜だった。
「一番いい季節だな」
 隣を歩く芳崎が前髪をそっとかきあげながらリラックスした様子で言った。
 同じことを考えていたことが嬉しくて佳人は小さく笑う。
「ですね」
 ぽつりと返した佳人に芳崎は何を思ったのか、またポンと頭に手を置き、結った髪の先をサラリと撫でた。彼のスキンシップ好きにも少しは慣れたけれど、それが平気かというと話は別だった。
「あれ、兄さん?」
 背後から思いがけず声を掛けられて、佳人はぎくりとして振り返った。
「やっぱり兄さんだ。珍しいね、こんなトコで会うの」
 明るく屈託のない表情でこちらに近づいてくるのは弟の誠だった。
「誠。お前こそどうしたんだ、こんな時間に」
「予備校の帰り。わあー、凄い偶然だね」
 佳人の動揺とは別に、誠は思いがけない場所で兄に会えて嬉しいといった顔を隠さない。
「あ、すみません、突然」
 傍らにいる芳崎に気付き、誠は恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。
「あ、弟、です」
 佳人が芳崎に紹介すると、芳崎も人好きのするいつもの笑顔で頷いた。
「どうも、芳崎です。お兄さんにはお世話になってます」
「原田誠です。こちらこそ兄がお世話になってます。あの、お仕事の関係ですか」
「いや、プライベートでね、仲良くさせてもらってます」
「へえ、」
 誠は意外そうに目を瞠った。それも当然の反応だった。佳人には今まで友人と呼べるような親しい間柄の人間はほとんどいなかったし、家に誰かを呼んだこともなかったからだ。
「先輩なんだ、高校の。偶然知り合って」
 少し早口に告げる佳人を興味深そうに誠が見つめる。
「良かった。兄さんに親しくしてる人がいて。父さんも母さんも心配してるよ。全然帰って来ないって寂しがってる」
「うん」
 佳人は強張る頬に無理やり笑みを張り付けて、ごめんな、仕事忙しくて、と言った。ううん、と首を振りながら、誠は微かに眉を潜めた。
「無理しないでよ、季節の変わり目はいつも体調崩してただろ。大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「今度の土曜、行くから」
「お前こそ忙しいだろ。無理しなくていいよ」
「大丈夫! じゃ、俺、行きます。お邪魔しました」
 まだあどけなさの残る愛らしい顔立ちの弟は、歯切れの良い口調で言うと、芳崎にももう一度礼儀正しく頭を下げて、軽い身のこなしで去って行った。
「へえ、随分可愛い弟くんがいるんだな」
 芳崎が感心したように言った言葉に佳人の身体が強張る。それは条件反射のようなものだった。
「……はい。義理の弟、だけど」
「あ、そうか、原田って言ってたな」
 誠が去った方を芳崎がいつまでも見ているのが嫌で、佳人はさりげなく駅の方へ芳崎を促した。
 それでも無言のまま芳崎が何かを考えているのが気になって、わざと軽薄な風を装って訊いた。
「ああいうのが、タイプ?」
「え、ああ、…まあ、笑顔が可愛いのは好きだな」
(やっぱりね……)
 予想していた答えとはいえ、胸に黒い影が落ちる。佳人はいっそ笑い出したくなって小さく唇の端を歪めた。
「可愛いでしょ。俺の自慢の弟。出来が良くて、明るくて、すごく優しい。あいつがいるだけでみんな笑顔になるんです」
 突然饒舌になった佳人を芳崎が訝しげに見るのが判ったが、佳人は気付かないフリで、弟を溺愛する兄を装いながら喋り続けた。

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