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第1章:忘れられる子ども
第1話『雨の音と白い息』
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霧雨が降っていた。
朝の団地の廊下は、湿ったコンクリートの匂いでいっぱいだった。雨が止んだわけじゃないけれど、傘を差すほどでもないくらいの霧雨。けれど、風が吹くと頬がひんやりして、吐く息が白くなる。わたしはポケットに突っ込んだ右手で、小さな水玉模様のハンカチをぎゅっと握った。
「……いってきます」
声に出しても、誰も返事をしてくれなかった。
ドアの向こう、茶色いカーペットの部屋では、お母さんがソファに座ったまま、ずっとスマホを見ていた。ピコン、ピコンと、通知音だけが繰り返される。わたしが履き古したスニーカーを履き終えても、視線を上げることすらなかった。
お父さんはもう何日も仕事に行っていない。昨日の夜も遅くまでテレビの前で寝ていて、お母さんに起こされても「うるさいな」と言っただけだった。そのまま寝室へ行ったきり、今朝も部屋の奥から微かな寝息が聞こえていた。
だから、わたしは玄関で立ち尽くしてしまった。
わたしが学校へ行くことは、誰にとっても大事なことじゃないんだろうか。今日も一日が始まる。わたしにとっては、学校に行くことが大きなことなのに。小さな手の中で、ハンカチがくしゃっと音を立てた。息を吐くと、白い靄がわずかに広がり、すぐに消えた。
「いってきます……」
もう一度、小さな声で呟いてから、わたしは玄関を出た。
外は薄暗くて、まだ夜が終わっていないみたいだった。霧雨は細くて冷たくて、頭の上に降りかかるたびに髪の毛が重くなる。団地の階段を降りるとき、金属の手すりが冷たくて、手がかじかんだ。
ポケットの中のハンカチは、お母さんが昔作ってくれたものだ。水色の地に白い水玉が散らばっていて、端っこにはわたしの名前が青い糸で刺繍してある。小さかったころは「ななちゃん、学校でこれ使ってね」って笑ってくれたのに。いつからだろう、お母さんがわたしの名前を呼ばなくなったのは。
傘を差している子もいたけれど、わたしは差さなかった。どうせすぐに乾くくらいの雨だし、傘を差していると歩きにくいから。顔に雨粒が当たるたびに冷たくて、小さく瞬きをする。雲は黒くて低く、団地の屋根にかかるくらい近く見えた。
道の端を歩きながら、電柱に止まったカラスがわたしを見ていた。真っ黒な目がじっとこちらを見て、鳴き声を上げずに首をかしげている。わたしはポケットの中でハンカチを強く握り直した。
学校へ向かう道は、いつもと変わらない道だった。
小さなスーパーの前を通ると、古いビニールの旗が風で揺れて、パタパタと寂しい音を立てる。雨に濡れたアスファルトが暗く光っている。前を歩く同じ学校の子たちが笑いながら走って行くけれど、わたしは声をかけられない。走っても追いつけない気がするから。
信号が青に変わるのを待って、横断歩道を渡る。
わたしの足音が水たまりで小さく跳ねて、制服のスカートの裾が濡れた。寒くて、足がじんわり冷たくなるけれど、わたしはただ歩き続ける。
学校の門が見えてきたとき、わたしは少しだけ立ち止まった。
今日も同じ一日が始まる。でも、誰もわたしに「がんばってね」とか「いってらっしゃい」とか言ってくれなかった。わたしの誕生日まで、あと何日なんだろう。去年の誕生日、ケーキはなかった。お母さんはコンビニのおにぎりを買ってきてくれて「今日はこれで我慢してね」と言っただけだった。
でも、今年は違うかもしれない。
ポケットの中のハンカチが、わたしの手の温度で少し温かくなっていた。わたしはハンカチをぎゅっと握ったまま、ゆっくりと学校の門をくぐった。
校庭の土は濡れていて、足跡がついていた。空は灰色で、雨はやんでいるように見えて、でも細かい霧のようなものがまだ降っていた。肌に触れると冷たくて、気づくと髪が少し濡れていた。
靴箱で上履きに履き替えているとき、後ろから笑い声が聞こえた。
「昨日さ、ママがケーキ買ってくれてさ!」
「いいなー、うちなんかさー、プリンだけだったよ!」
クラスの子たちが楽しそうに笑いながら話している。
わたしは、自分の上履きを見つめたまま動けなくなった。濡れた髪から水滴が落ちて、床に小さな点を作った。それを見ていると、雨が自分の中に降っているみたいで、目の奥が熱くなるのを感じた。
「ななちゃん!」
突然、背中から声をかけられて、びくっとした。
振り返ると、そこには笑顔のりおちゃんが立っていた。
「おはよう!」
りおちゃんは、雨で湿った前髪をかきあげながら笑った。白い歯が見える笑顔で、わたしを見てくれている。
「……おはよう」
わたしは小さな声で答えた。
「今日も雨だね。でも、寒くない?」
「……うん、ちょっと寒い」
りおちゃんは自分のポケットから小さなハンカチを取り出して、わたしの濡れた前髪をそっと拭いてくれた。そのハンカチには小さな花の刺繍がついていて、淡い黄色が雨に濡れて少し暗くなっていた。
「ほら、これで大丈夫!」
「……ありがとう」
わたしはハンカチを握りしめている自分の手に気づき、そっとポケットの中で握り直した。小さな水玉模様のハンカチが、少しだけ重く感じられた。
「行こう! 一緒に!」
りおちゃんは笑顔でわたしの手を引いた。
その瞬間だけは、雨の冷たさも、吐く息の白さも、全部消えたような気がした。
朝の団地の廊下は、湿ったコンクリートの匂いでいっぱいだった。雨が止んだわけじゃないけれど、傘を差すほどでもないくらいの霧雨。けれど、風が吹くと頬がひんやりして、吐く息が白くなる。わたしはポケットに突っ込んだ右手で、小さな水玉模様のハンカチをぎゅっと握った。
「……いってきます」
声に出しても、誰も返事をしてくれなかった。
ドアの向こう、茶色いカーペットの部屋では、お母さんがソファに座ったまま、ずっとスマホを見ていた。ピコン、ピコンと、通知音だけが繰り返される。わたしが履き古したスニーカーを履き終えても、視線を上げることすらなかった。
お父さんはもう何日も仕事に行っていない。昨日の夜も遅くまでテレビの前で寝ていて、お母さんに起こされても「うるさいな」と言っただけだった。そのまま寝室へ行ったきり、今朝も部屋の奥から微かな寝息が聞こえていた。
だから、わたしは玄関で立ち尽くしてしまった。
わたしが学校へ行くことは、誰にとっても大事なことじゃないんだろうか。今日も一日が始まる。わたしにとっては、学校に行くことが大きなことなのに。小さな手の中で、ハンカチがくしゃっと音を立てた。息を吐くと、白い靄がわずかに広がり、すぐに消えた。
「いってきます……」
もう一度、小さな声で呟いてから、わたしは玄関を出た。
外は薄暗くて、まだ夜が終わっていないみたいだった。霧雨は細くて冷たくて、頭の上に降りかかるたびに髪の毛が重くなる。団地の階段を降りるとき、金属の手すりが冷たくて、手がかじかんだ。
ポケットの中のハンカチは、お母さんが昔作ってくれたものだ。水色の地に白い水玉が散らばっていて、端っこにはわたしの名前が青い糸で刺繍してある。小さかったころは「ななちゃん、学校でこれ使ってね」って笑ってくれたのに。いつからだろう、お母さんがわたしの名前を呼ばなくなったのは。
傘を差している子もいたけれど、わたしは差さなかった。どうせすぐに乾くくらいの雨だし、傘を差していると歩きにくいから。顔に雨粒が当たるたびに冷たくて、小さく瞬きをする。雲は黒くて低く、団地の屋根にかかるくらい近く見えた。
道の端を歩きながら、電柱に止まったカラスがわたしを見ていた。真っ黒な目がじっとこちらを見て、鳴き声を上げずに首をかしげている。わたしはポケットの中でハンカチを強く握り直した。
学校へ向かう道は、いつもと変わらない道だった。
小さなスーパーの前を通ると、古いビニールの旗が風で揺れて、パタパタと寂しい音を立てる。雨に濡れたアスファルトが暗く光っている。前を歩く同じ学校の子たちが笑いながら走って行くけれど、わたしは声をかけられない。走っても追いつけない気がするから。
信号が青に変わるのを待って、横断歩道を渡る。
わたしの足音が水たまりで小さく跳ねて、制服のスカートの裾が濡れた。寒くて、足がじんわり冷たくなるけれど、わたしはただ歩き続ける。
学校の門が見えてきたとき、わたしは少しだけ立ち止まった。
今日も同じ一日が始まる。でも、誰もわたしに「がんばってね」とか「いってらっしゃい」とか言ってくれなかった。わたしの誕生日まで、あと何日なんだろう。去年の誕生日、ケーキはなかった。お母さんはコンビニのおにぎりを買ってきてくれて「今日はこれで我慢してね」と言っただけだった。
でも、今年は違うかもしれない。
ポケットの中のハンカチが、わたしの手の温度で少し温かくなっていた。わたしはハンカチをぎゅっと握ったまま、ゆっくりと学校の門をくぐった。
校庭の土は濡れていて、足跡がついていた。空は灰色で、雨はやんでいるように見えて、でも細かい霧のようなものがまだ降っていた。肌に触れると冷たくて、気づくと髪が少し濡れていた。
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突然、背中から声をかけられて、びくっとした。
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「おはよう!」
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「……おはよう」
わたしは小さな声で答えた。
「今日も雨だね。でも、寒くない?」
「……うん、ちょっと寒い」
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「……ありがとう」
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