だれもおめでとうと言わないこの世界で、わたしだけが覚えていた “あの日の小さな指輪” と、忘れられた友だちの笑顔について

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第1章:忘れられる子ども

第8話『はじめての「おめでとう」』

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 雨上がりの空は白く濁っていた。
 雲がまだ重く垂れ込め、学校の校舎は少し暗く見えた。

 放課後、教室には誰もいなくなっていた。
 椅子が机の上にあげられ、掃除のあとの水拭きで床は少し濡れて光っていた。
 窓の外から風が入り込み、教室のカーテンが小さく揺れるたびに、石鹸と雨のにおいが混ざった匂いが流れ込んできた。

 わたしはランドセルを背負う前に、もう一度机の中をのぞいた。
 今日も、何も残っていないはずだった。
 お母さんが作ってくれた水玉模様のハンカチが、一日中ポケットの中でしわしわになっているだけで、他には何もない。

 けれど、その日は違った。

 机の中に、小さな赤いものがあった。

 わたしは思わず息を止めた。

 それは、折り紙で作られた小さなハートだった。
 赤い折り紙が雨で濡れたのか、ところどころに滲んだ跡があって、ハートの形は少し崩れていた。
 そのハートに挟まれるように、小さな紙片が一枚、入っていた。

 “おめでとう”

 その三文字が、にじんでいるけれど、確かに読めた。

 わたしの胸の奥がきゅうっと痛くなった。
 嬉しいのか、苦しいのか、わからない感情がぐるぐると渦を巻いた。

 周りを見渡したけれど、教室には誰もいなかった。
 窓の外から聞こえる運動場の声も、遠くて薄く響くだけだった。

 誰が入れたのかわからなかった。

 りおちゃんかもしれない。
 でも、りおちゃんはいつも「おめでとう」って直接言ってくれるはずだ。

 クラスの誰かが入れたのだろうか。
 でも、誰もわたしの誕生日なんて知らないはずだった。

「……」

 声を出そうとして、出せなかった。

 もし誰かがこれをくれたのなら、「ありがとう」って言いたい。
 でも、それを聞いてくれる人は、今この教室にはいなかった。

 わたしはそっと机の中からハートを取り出した。
 折り紙は冷たく湿っていて、指先に雨の匂いが移った。

 持ったまま立ち尽くしていると、窓からの風が頬をなでた。

「おめでとう」

 小さな声で、自分の口から言葉が漏れた。

 自分に向けた言葉だった。

「おめでとう、わたし……」

 折り紙のハートを胸に当てると、雨で冷えたはずなのに、少しだけあたたかく感じた。

 教室のドアの外で、誰かの笑い声が遠くで響いた。
 廊下の向こうから靴の音が近づいてきては、すぐに遠ざかっていった。

 わたしはもう一度周囲を見渡してから、小さな紙片をランドセルのポケットにしまった。
 折り紙のハートは、壊れないようにそっと胸の前で抱えた。

 だれがくれたのか、わからない。

 でも、「おめでとう」という言葉はわたしの中でずっと欲しかった言葉だった。

 ほんとうは、お母さんに言ってほしかった。
 お父さんにも言ってほしかった。

 でも誰も言ってくれなかった言葉を、
 誰かが、名前も顔もわからない誰かがくれた。

 わたしはその言葉を、心の中で何度も繰り返した。

 おめでとう。
 おめでとう。

 言葉の響きが胸の奥で小さく光った。

 ランドセルを背負って、教室を出るとき、わたしは振り返って自分の机を見た。

 そこにはもう、何も残っていなかったけれど、

 わたしはその机に向かって、心の中でつぶやいた。

「ありがとう」

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