だれもおめでとうと言わないこの世界で、わたしだけが覚えていた “あの日の小さな指輪” と、忘れられた友だちの笑顔について

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第1章:忘れられる子ども

第7話『黒板の前で』

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 カツン、カツン、と黒板にチョークが当たる音が教室の空気を震わせていた。

 窓の外は曇り空で、うっすらと光が差し込んでいるはずなのに、教室の中は暗く感じた。蛍光灯の白い光が、板書する先生の背中を照らしていた。

「ここの答え、わかる人?」

 先生の声はいつもの調子で穏やかに響いた。

 教室の空気が一瞬だけぴんと張り詰める。

 数人の子が手を挙げる音が聞こえた。袖がこすれる音。椅子がきしむ音。鉛筆が机の上で転がる音。

 わたしは胸の奥で、自分の鼓動が大きく鳴るのを感じていた。

(……わかる、この問題、わかるよ)

 簡単な問題だった。

 きっと、みんなもわかっているんだろうと思ったけれど、それでもわたしは手を挙げようと思った。

(わたしも、答えたい)

(わたしも、「はい」って言いたい)

(わたしも、ここにいるって言いたい)

 ゆっくりと、わたしは右手を上げた。

 肩より少しだけ高く、震える腕が空気を切った。

 教科書の角が冷たく当たっていた左手に力が入った。

(先生、見て……わたしのこと、見て)

 わたしの腕は、小さく震えていた。

 小さな汗が手のひらににじみ、指先がじわりと冷たくなっていくのを感じた。

 先生の視線が教室をゆっくり泳いだ。

「はい、じゃあ……」

 視線が通り過ぎる。

 わたしの腕をすり抜けていく。

「じゃあ、そこの……」

 先生が指さしたのは、わたしの前の席の子だった。

「はい!」

 元気な声が教室に響いた。

 その声は、わたしの胸の奥で、がらん、と大きく反響した。

 わたしの手は空気の中に取り残されていた。

 ゆっくりと、わたしは腕を下ろした。

 肩に置いた瞬間、そこだけ重く痛んだ。

 わたしの声は、また喉の奥に戻ってしまった。

 そのとき、隣の席の子が、ノートをめくりながら小さな声で笑った。

「え? ななちゃん、いたんだ」

 わたしの胸が、一度だけ強く痛んだ。

 視界の端で、その子はわたしを見もせずに笑った。

(わたし、いたよ……ここにいたよ……ずっと、ここにいるよ)

 声にならなかった。

 喉がひりついて、言葉が出なかった。

 机の上の教科書が揺れて見えた。

 小さな文字の列が、水の中でゆらゆら揺れているみたいに、形を失っていった。

 黒板の前で答えている男の子の声が、遠くで響いているだけだった。

 笑い声が教室のあちこちで弾けていた。

 椅子を動かす音、鉛筆の音、笑い声、先生の声。

 全部が遠くの音に聞こえた。

 わたしだけが、その音の中に取り残されているみたいだった。

 机の角が冷たかった。

 制服の袖が湿っていて、雨の匂いがした。

 教室の空気が冷たく、でも重たかった。

 窓の外でカラスが鳴いた。

 カァ……カァ……。

 誰も気づかないまま、わたしはその鳴き声を聞いていた。

 わたしの名前は、呼ばれなかった。

 わたしの声は、聞かれなかった。

 わたしはここにいるのに。

 わたしはここにいるのに。

 机の中に入れていたハンカチを、そっと握りしめた。

 小さな水玉模様のハンカチが、手の中でしわくちゃになった。

 その布の感触だけが、わたしがここにいることを教えてくれているような気がした。

(りおちゃん……)

(大丈夫って、言ってくれたよね……)

 りおちゃんの笑顔が胸に浮かんだ。

 小さな指が、あたたかくわたしの手を握ってくれた感触が蘇った。

 でも、そのあたたかさはすぐに薄れていった。

(りおちゃん……)

 助けて、とは言えなかった。

 助けて、とは言ってはいけない気がした。

 だから、わたしは唇をきつく噛んだ。

 痛みが走って、わずかに味がした。

 でも、その痛みすらも、わたしがここにいることを確かめる唯一のもののように思えた。

 わたしはいる。

 ここにいる。

 ここに、いるんだよ。

 でも、わたしの声は誰にも届かなくて、教室の笑い声の中で、小さな呼吸の音だけがわたしの周りに残っていた。
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