だれもおめでとうと言わないこの世界で、わたしだけが覚えていた “あの日の小さな指輪” と、忘れられた友だちの笑顔について

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第1章:忘れられる子ども

第12話『泣き声』

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 夜の団地は、壁が薄くて小さな音も響いた。

 暗くなった窓の外からは、遠くの道路を走る車の音が低く聞こえた。
 風が吹くと団地の外壁がギシギシと軋んだ。
 その音が、心の奥にまで冷たい風を送り込むようだった。

 蛍光灯を消した部屋の中は真っ暗で、布団の中だけがわたしの居場所だった。

 布団を引き寄せると、鼻の奥に布の匂いがした。
 少し湿っていて、お日さまの匂いではなく、夜の冷たい空気の匂いが混じっていた。

 そのときだった。

 隣の部屋から、小さなすすり泣く声が聞こえた。

(お母さん……)

 声にならない声で、心の中で呼んだ。

 お母さんの泣き声は小さくて、でも途切れ途切れに続いていた。
 ときどき、喉を押さえているような低い声で「う……うぅ……」と漏れて、また静かになる。
 そしてまた、小さな嗚咽が始まる。

 わたしは息を止めて、その音を聞いていた。

 涙が出そうになった。

 でも、泣いてはいけないと思った。

 もし泣いたら、お母さんに聞こえてしまう気がした。
 泣いたら、お母さんがもっと泣く気がした。

 だからわたしは布団を頭までかぶって、耳を塞いだ。

 でも、泣き声は止まらなかった。

 壁をすり抜けて、布団をすり抜けて、わたしの胸の奥にまで届いた。

 心臓がどくん、どくん、と痛いくらいに脈打った。

 わたしのせいなのかな。

 わたしの誕生日が近いから、お金がかかるから、
 わたしのこと、面倒だと思ってるのかな。

 わたしがいるから、お母さんは泣くのかな。

「……わたしのせいじゃないよね」

 声に出したら、空気が震えた。

 でも、すぐにその言葉は夜の闇に飲まれてしまった。

 布団の中は狭くて、息苦しかった。

 でも、出られなかった。

 外に出たら、もっと泣き声がはっきり聞こえてしまうから。

 だからわたしは目をぎゅっと閉じて、布団の中で小さく体を丸めた。

(お母さん、泣かないで)

(泣かないで……)

 お願いだと思ったけれど、声にはならなかった。

 すすり泣きの音は続いた。

 その音は小さいのに、雷よりも大きな音に思えた。

 目を閉じているのに、涙が出た。

 布団の中で涙を拭こうとしたけれど、暗くてわからなくて、袖で何度も顔をこすった。

 そのたびに、布団の中で小さな布擦れの音がした。

「わたしのせいじゃないよね」

 もう一度、小さな声でつぶやいた。

 声が震えて、喉が痛くなった。

 隣の部屋の泣き声は、まだ止まらなかった。
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