6 / 48
第一章 暗闇は深く
第5話 一筋の光
しおりを挟む
横断歩道を渡りきったあと、雨の中をどれだけ歩いたのか、覚えていない。
気づけば私は、何も無い路地の端に座り込んでいた。
冷たい雨粒が髪を、服を、そして心までも容赦なく濡らしていく。
どんどんと冷えていく身体が、むしろ自分を安心させていた。
その時は、もう目覚めたくないと、心の底から思っていた。
「大丈夫?」
頭上から柔らかな声が降ってきた。
顔を上げると、傘を差した男性が私の前に立っていた。
彼は傘を私に向けて傾け、自分は濡れるままにしている。
そのスーツはしっとりと身体に張り付き、雨を吸い取って重そうだった。
優しさがにじむその目が、言葉に力を添えるようにゆっくりと問いかける。
思わず目を細めて見つめると、彼のパーマのかかった黒髪が雨に濡れ、ところどころ束になっていた。
高級そうなスーツに若々しい雰囲気が妙に印象的で、どこか不思議な親しみを感じた。
「……濡れてますよ?」
自分でも驚くほど、疲れ切った声が出た。
こんな惨めでどうしようもない自分では、視線を合わせるのもつらいほど素敵な人で。
濡れているスーツが気になったのだ。
それでも、彼は立ち去ろうとはしなかった。
「君の方が濡れてるだろ。どこか行く当てはあるの?」
その問いかけに、答えられる言葉を持っていなかった。
俯いたまま黙り込む私に、彼が小さくため息をつく気配がした。
次の瞬間、ふわりと膝が浮いた。
「ちょっ、何してるんですか!」
疲れきっていた心が突然鮮明になる。
驚いて声を上げると、彼は苦笑しながら私を抱え上げた。
「濡れて風邪でも引いたら困るだろ?ただの雨宿りだよ。嫌なら、帰る方向を教えてくれる?」
押しつけがましさのないその声は温かかった。
けれど、その優しさがかえって胸を締めつける。
泣きそうになるのを堪えながら、私はかろうじて一言だけ口を開いた。
「……帰る場所、ないんです」
自分で言った言葉が、胸をズキリと痛ませる。
彼は何も言わず、少しだけ力を込めて私を抱え直すと、歩き出した。
不思議と、不信感や恐怖はなかった。
いや、本当は少しだけ警戒していたのかもしれない。
でも、それ以上に、自暴自棄になっていた私には選ぶ余地などなかった。
あの家に帰らなくて済むなら、もうどうなってもいい。
そんな投げやりな気持ちで取ったその手が、まさか私の人生を大きく変える扉になるなんて、このときの私は想像すらできなかった。
_/_/_/_/_/_/
雨に濡れた体が重いのか、見知らぬ彼の腕の中で私の意識はぼんやりと遠ざかりつつあった。
「着いたよ」
そんな声が耳に届き、私は見慣れないリビングに足を下ろす。
大きな窓の外には雨で霞んだ街の景色が広がり、私の知っている生活圏とは、明らかに世界が違っていた。
「タオルと、これ、着替え」
部屋に戻ってきた彼が、バスタオルとルームウェアを差し出してくれる。
「行けそうなら風邪引く前に、シャワーをどうぞ」
その言葉に逆らう気力もなく、言われた通りに浴室へ向かった。
熱いシャワーが冷え切った体を包み込み、少しだけ息ができた気がした。
_/_/_/_/_/_/
お風呂から戻ると、ソファでスマホを見ていた彼がこちらを向いた。
少し冷静になった私は、恥ずかしくなって小さく俯く。
「……ありがとうございます。あの、お見苦しい姿を……」
彼は、だぼだぼのスウェットを着た私の姿を見て、優しい笑みをこぼした。
「寝室こっち。俺は別の部屋で寝るから自由に使って」
「え、そんな悪いです、私帰ります」
案内された扉に私は慌てて両手を振った。
元々大きかった袖がぶんぶんと振られて、彼はまた笑う。
「大きすぎたね」
私の言葉には答えず、袖を捲ってくれる優しい手に、私はされるがままにその場に立っていた。
_/_/_/_/_/_/
ものが少なくてあまりにも落ち着かない寝室で、私は寝そべることもできずただベッドに腰をかける。
「入っても大丈夫?」
「は、はい!」
ドアのノックと共に聞こえた声に、私はピンと背筋を伸ばした。
「やっぱ寝れない?」
少し開いたドアからオレンジ色の光が差し込み、柔らかな笑顔が覗く。
さっきからとても不思議だった。
初めて会った人なのに、なぜこんなにも私の心を癒すのか。
湯気の立つマグカップが差し出された。
ふわりと漂うハーブの香りが、張り詰めていた胸の奥をそっと撫でる。
「これどうぞ」
「ありがとうございます」
小さく口にして受け取ると、手のひらがじんわりと温まって、指先が冷えていたのを実感した。
彼は少し距離を取るように床に腰を下ろし、自分の分のカップに口をつける。
床で紅茶を飲んでいるだけなのにドキドキするような綺麗な所作に目を奪われた。
どこかの御曹司だろうか。
こんな高そうなマンションに暮らしている人はやっぱり違う。
荒れ放題だった1LDKの我が家を思い出して、グサリと胸が痛んだ。
「苦手だった?」
「あ、いえ、いただきます」
カップを両手で包み、一口含む。
ほんのりとした甘みが広がり、冷え切っていた体を内側から静かに温めていく。
凍らせていたはずの心が、少しずつ、溶けていくのが自分でも分かった。
「……っ……」
気づけば涙が頬を伝っていた。
止めようとしても次々にあふれ出る涙は、自分でもどうしようもなかった。
「ごめんなさい……私……っ」
声は途中で途切れ、嗚咽混じりの音になって消えた。
俯いて涙を落とさないよう両手を強く目に押し当てる。
小さく立ち上がる気配がしたと思ったら、彼がそっと隣に腰を下ろした。
「無理しなくていいよ」
低く穏やかな声が、私の心を溶かしていく。
凍らせておかないと、どうしようもなかった悲しみや苦しみが、雪崩のように勢いよく溢れ出す。
「あんな状態になるほど苦しかったんだろ……どうか今日はゆっくり休んで」
聞き出そうとするわけでもない、ただ優しいだけの言葉に胸がきゅっと締めつけられた。
私は無意識のうちに彼のスウェットの裾を握りしめていた。
震える手にそっと大きな手が添えられたと思った瞬間、彼はためらうことなく腕を伸ばし、温かな手で私の背中を包んだ。
安心する温度に、私は感情のままに身を預ける。
「眠れるまで、一緒にいるよ」
耳元で囁かれたその言葉に、益々涙が溢れ出し彼の大きな背中に腕を回した。
強い力で抱きつく私を、彼は黙って受け止めてくれる。
ずっと苦しかった。何ヶ月も、何年も。
心を凍らせなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
会社とも彼氏とも、何一つ上手くできない自分が、惨めで悔しくて……。
「……大丈夫?」
優しく頭を撫でられて、ほんの少し体が離れる。
その暖かさから離れたくないという気持ちが、言葉になる前に身体に出た。
私は無意識のうちにぎゅっともう一度彼にしがみつく。
「……お願い」
気付けば掠れた声で、必死に縋ってしまっていた。
「今日だけで良いから……」
彼の服を掴む指に、思わず力が入る。
彼は、私の願いが言葉になる前に、そっと髪に触れた。
「……わかった。もう、何も考えないで」
その一言で、残っていた最後の理性がほどける。
次の瞬間、視界が揺れて、背中に柔らかな感触が広がった。
怖さよりも先に、安堵がきた。
私は頷く代わりに、彼の首に腕を回す。
この腕の中にいられるなら。
見たくもない私の世界が、今だけ止まってくれるなら。
たとえ、明日なにも残らなくても、それで良い。
_/_/_/_/_/_/
目を覚ますと、カーテン越しに柔らかな朝日が射し込んでいた。
ふわりとした光がまぶたを温めるように差し込み、私はゆっくりと息を吸う。
――ここは?
目の前に広がる光景に、一瞬、思考が止まる。
ふかふかの寝心地の良いベッド。
知らない天井。
カーテンの向こうから差し込む朝日は、部屋全体を優しい色に染めている。
静かに視線を巡らせると、シンプルで整ったインテリアが目に入った。
ものが少なく散らかったところが一つもない部屋は見慣れているものとは違う。
昨夜――そうだ、私は雨の中を歩いていて……。
少し記憶を巡らせれば、ここが昨夜助けてくれた彼の部屋なのだと思い出された。
こんなにぼんやりするほど眠れたのは久しぶりな気がする。
ゆっくり起き上がると、隣で眠っている彼がいて少し驚いた。
ーーあぁ、確かに。
そうだよね。昨日……。
随分と冷静になった頭では、信じられないことをしてしまった自分を思い出し、思わずこめかみを抑える。
弱っていたとはいえ、これは浮気なのでは……。
いや、でもそもそも京介だって……いやいや、だからと言ってやり返していい理由には。
そんな思考をフル回転しているうちに、自分が下着姿であることに気付いて、そっとシーツを引き寄せた。
シーツを動かされたことで少し眉を潜ませて寝返りをうった彼は、昨日と印象が違うくらい幼く見えた。
濡れて細い束を作っていた爽やかなパーマもふわふわと膨らんでいて柔らかそうだ。
もし、あのときあのまま放っておかれていたらどうなっていただろう。
冷たい路地の片隅で心も身体も凍りついていたに違いない。
思い返せば、昨日の自分はどうしようもない絶望に囚われていた。
あのまま命を落としてもいいと思うほど。
それが今、柔らかなベッドの上にいる。
人生何があるのかわからないものだなと、不思議と昨日より落ち着いている心で考えた。
彼の寝息の邪魔をしないように、私はそっと寝室を後にした。
_/_/_/_/_/_/
リビングのテーブルには空になったコンビニの弁当容器やペットボトルが散らかっていた。
部屋全体が驚くほど整然としているだけに、それらの生活感が妙に際立って見える。
知らず知らずのうちに、私の手は動いていた。
空き缶を拾い、テーブルを整え、床に散らばっていたものを片付ける。
――こんな気持ち、久しぶりかもしれない。
最近は、部屋を片付けることも、ただの義務でしかなかったのに。
京介を怒らせないための、やらなければいけないタスク。
それなのに、今は違う。
彼のために片付けたいと思うことが、少しも嫌ではなくて、それどころか、自分自身が癒されているような気さえする。
すっかり片付いたテーブルを眺めながら、バッグからメモ用紙を取り出した。
「助けてくれてありがとう。おかげで、ほんの少しだけ楽になれた気がします」
簡単に書き込んだメモをテーブルの中央にそっと置く。
――きっと素敵な人なんだろうな……。
名前も何も知らないし、もう会うことはきっとないけれど、こんな風に知らない誰かに手を差し伸べられる人がいるのだと思うと、なんだか世界が明るく見える気がした。
感謝の気持ちとともに、ほんの少しの名残惜しさが混じる。
この玄関を出れば、また変わらない救いのない日々に戻らないといけない。
それでも、真っ暗闇の世界がすべてではないと知れたこの出会いは忘れないだろう。
「……進むんだ」
外は曇り空が広がっていた。
雨上がりの朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、私は一歩を踏み出した。
_/_/_/_/_/_/
第五話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
やっと光が見えました……
次回もぜひよろしくお願いいたします。
気づけば私は、何も無い路地の端に座り込んでいた。
冷たい雨粒が髪を、服を、そして心までも容赦なく濡らしていく。
どんどんと冷えていく身体が、むしろ自分を安心させていた。
その時は、もう目覚めたくないと、心の底から思っていた。
「大丈夫?」
頭上から柔らかな声が降ってきた。
顔を上げると、傘を差した男性が私の前に立っていた。
彼は傘を私に向けて傾け、自分は濡れるままにしている。
そのスーツはしっとりと身体に張り付き、雨を吸い取って重そうだった。
優しさがにじむその目が、言葉に力を添えるようにゆっくりと問いかける。
思わず目を細めて見つめると、彼のパーマのかかった黒髪が雨に濡れ、ところどころ束になっていた。
高級そうなスーツに若々しい雰囲気が妙に印象的で、どこか不思議な親しみを感じた。
「……濡れてますよ?」
自分でも驚くほど、疲れ切った声が出た。
こんな惨めでどうしようもない自分では、視線を合わせるのもつらいほど素敵な人で。
濡れているスーツが気になったのだ。
それでも、彼は立ち去ろうとはしなかった。
「君の方が濡れてるだろ。どこか行く当てはあるの?」
その問いかけに、答えられる言葉を持っていなかった。
俯いたまま黙り込む私に、彼が小さくため息をつく気配がした。
次の瞬間、ふわりと膝が浮いた。
「ちょっ、何してるんですか!」
疲れきっていた心が突然鮮明になる。
驚いて声を上げると、彼は苦笑しながら私を抱え上げた。
「濡れて風邪でも引いたら困るだろ?ただの雨宿りだよ。嫌なら、帰る方向を教えてくれる?」
押しつけがましさのないその声は温かかった。
けれど、その優しさがかえって胸を締めつける。
泣きそうになるのを堪えながら、私はかろうじて一言だけ口を開いた。
「……帰る場所、ないんです」
自分で言った言葉が、胸をズキリと痛ませる。
彼は何も言わず、少しだけ力を込めて私を抱え直すと、歩き出した。
不思議と、不信感や恐怖はなかった。
いや、本当は少しだけ警戒していたのかもしれない。
でも、それ以上に、自暴自棄になっていた私には選ぶ余地などなかった。
あの家に帰らなくて済むなら、もうどうなってもいい。
そんな投げやりな気持ちで取ったその手が、まさか私の人生を大きく変える扉になるなんて、このときの私は想像すらできなかった。
_/_/_/_/_/_/
雨に濡れた体が重いのか、見知らぬ彼の腕の中で私の意識はぼんやりと遠ざかりつつあった。
「着いたよ」
そんな声が耳に届き、私は見慣れないリビングに足を下ろす。
大きな窓の外には雨で霞んだ街の景色が広がり、私の知っている生活圏とは、明らかに世界が違っていた。
「タオルと、これ、着替え」
部屋に戻ってきた彼が、バスタオルとルームウェアを差し出してくれる。
「行けそうなら風邪引く前に、シャワーをどうぞ」
その言葉に逆らう気力もなく、言われた通りに浴室へ向かった。
熱いシャワーが冷え切った体を包み込み、少しだけ息ができた気がした。
_/_/_/_/_/_/
お風呂から戻ると、ソファでスマホを見ていた彼がこちらを向いた。
少し冷静になった私は、恥ずかしくなって小さく俯く。
「……ありがとうございます。あの、お見苦しい姿を……」
彼は、だぼだぼのスウェットを着た私の姿を見て、優しい笑みをこぼした。
「寝室こっち。俺は別の部屋で寝るから自由に使って」
「え、そんな悪いです、私帰ります」
案内された扉に私は慌てて両手を振った。
元々大きかった袖がぶんぶんと振られて、彼はまた笑う。
「大きすぎたね」
私の言葉には答えず、袖を捲ってくれる優しい手に、私はされるがままにその場に立っていた。
_/_/_/_/_/_/
ものが少なくてあまりにも落ち着かない寝室で、私は寝そべることもできずただベッドに腰をかける。
「入っても大丈夫?」
「は、はい!」
ドアのノックと共に聞こえた声に、私はピンと背筋を伸ばした。
「やっぱ寝れない?」
少し開いたドアからオレンジ色の光が差し込み、柔らかな笑顔が覗く。
さっきからとても不思議だった。
初めて会った人なのに、なぜこんなにも私の心を癒すのか。
湯気の立つマグカップが差し出された。
ふわりと漂うハーブの香りが、張り詰めていた胸の奥をそっと撫でる。
「これどうぞ」
「ありがとうございます」
小さく口にして受け取ると、手のひらがじんわりと温まって、指先が冷えていたのを実感した。
彼は少し距離を取るように床に腰を下ろし、自分の分のカップに口をつける。
床で紅茶を飲んでいるだけなのにドキドキするような綺麗な所作に目を奪われた。
どこかの御曹司だろうか。
こんな高そうなマンションに暮らしている人はやっぱり違う。
荒れ放題だった1LDKの我が家を思い出して、グサリと胸が痛んだ。
「苦手だった?」
「あ、いえ、いただきます」
カップを両手で包み、一口含む。
ほんのりとした甘みが広がり、冷え切っていた体を内側から静かに温めていく。
凍らせていたはずの心が、少しずつ、溶けていくのが自分でも分かった。
「……っ……」
気づけば涙が頬を伝っていた。
止めようとしても次々にあふれ出る涙は、自分でもどうしようもなかった。
「ごめんなさい……私……っ」
声は途中で途切れ、嗚咽混じりの音になって消えた。
俯いて涙を落とさないよう両手を強く目に押し当てる。
小さく立ち上がる気配がしたと思ったら、彼がそっと隣に腰を下ろした。
「無理しなくていいよ」
低く穏やかな声が、私の心を溶かしていく。
凍らせておかないと、どうしようもなかった悲しみや苦しみが、雪崩のように勢いよく溢れ出す。
「あんな状態になるほど苦しかったんだろ……どうか今日はゆっくり休んで」
聞き出そうとするわけでもない、ただ優しいだけの言葉に胸がきゅっと締めつけられた。
私は無意識のうちに彼のスウェットの裾を握りしめていた。
震える手にそっと大きな手が添えられたと思った瞬間、彼はためらうことなく腕を伸ばし、温かな手で私の背中を包んだ。
安心する温度に、私は感情のままに身を預ける。
「眠れるまで、一緒にいるよ」
耳元で囁かれたその言葉に、益々涙が溢れ出し彼の大きな背中に腕を回した。
強い力で抱きつく私を、彼は黙って受け止めてくれる。
ずっと苦しかった。何ヶ月も、何年も。
心を凍らせなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
会社とも彼氏とも、何一つ上手くできない自分が、惨めで悔しくて……。
「……大丈夫?」
優しく頭を撫でられて、ほんの少し体が離れる。
その暖かさから離れたくないという気持ちが、言葉になる前に身体に出た。
私は無意識のうちにぎゅっともう一度彼にしがみつく。
「……お願い」
気付けば掠れた声で、必死に縋ってしまっていた。
「今日だけで良いから……」
彼の服を掴む指に、思わず力が入る。
彼は、私の願いが言葉になる前に、そっと髪に触れた。
「……わかった。もう、何も考えないで」
その一言で、残っていた最後の理性がほどける。
次の瞬間、視界が揺れて、背中に柔らかな感触が広がった。
怖さよりも先に、安堵がきた。
私は頷く代わりに、彼の首に腕を回す。
この腕の中にいられるなら。
見たくもない私の世界が、今だけ止まってくれるなら。
たとえ、明日なにも残らなくても、それで良い。
_/_/_/_/_/_/
目を覚ますと、カーテン越しに柔らかな朝日が射し込んでいた。
ふわりとした光がまぶたを温めるように差し込み、私はゆっくりと息を吸う。
――ここは?
目の前に広がる光景に、一瞬、思考が止まる。
ふかふかの寝心地の良いベッド。
知らない天井。
カーテンの向こうから差し込む朝日は、部屋全体を優しい色に染めている。
静かに視線を巡らせると、シンプルで整ったインテリアが目に入った。
ものが少なく散らかったところが一つもない部屋は見慣れているものとは違う。
昨夜――そうだ、私は雨の中を歩いていて……。
少し記憶を巡らせれば、ここが昨夜助けてくれた彼の部屋なのだと思い出された。
こんなにぼんやりするほど眠れたのは久しぶりな気がする。
ゆっくり起き上がると、隣で眠っている彼がいて少し驚いた。
ーーあぁ、確かに。
そうだよね。昨日……。
随分と冷静になった頭では、信じられないことをしてしまった自分を思い出し、思わずこめかみを抑える。
弱っていたとはいえ、これは浮気なのでは……。
いや、でもそもそも京介だって……いやいや、だからと言ってやり返していい理由には。
そんな思考をフル回転しているうちに、自分が下着姿であることに気付いて、そっとシーツを引き寄せた。
シーツを動かされたことで少し眉を潜ませて寝返りをうった彼は、昨日と印象が違うくらい幼く見えた。
濡れて細い束を作っていた爽やかなパーマもふわふわと膨らんでいて柔らかそうだ。
もし、あのときあのまま放っておかれていたらどうなっていただろう。
冷たい路地の片隅で心も身体も凍りついていたに違いない。
思い返せば、昨日の自分はどうしようもない絶望に囚われていた。
あのまま命を落としてもいいと思うほど。
それが今、柔らかなベッドの上にいる。
人生何があるのかわからないものだなと、不思議と昨日より落ち着いている心で考えた。
彼の寝息の邪魔をしないように、私はそっと寝室を後にした。
_/_/_/_/_/_/
リビングのテーブルには空になったコンビニの弁当容器やペットボトルが散らかっていた。
部屋全体が驚くほど整然としているだけに、それらの生活感が妙に際立って見える。
知らず知らずのうちに、私の手は動いていた。
空き缶を拾い、テーブルを整え、床に散らばっていたものを片付ける。
――こんな気持ち、久しぶりかもしれない。
最近は、部屋を片付けることも、ただの義務でしかなかったのに。
京介を怒らせないための、やらなければいけないタスク。
それなのに、今は違う。
彼のために片付けたいと思うことが、少しも嫌ではなくて、それどころか、自分自身が癒されているような気さえする。
すっかり片付いたテーブルを眺めながら、バッグからメモ用紙を取り出した。
「助けてくれてありがとう。おかげで、ほんの少しだけ楽になれた気がします」
簡単に書き込んだメモをテーブルの中央にそっと置く。
――きっと素敵な人なんだろうな……。
名前も何も知らないし、もう会うことはきっとないけれど、こんな風に知らない誰かに手を差し伸べられる人がいるのだと思うと、なんだか世界が明るく見える気がした。
感謝の気持ちとともに、ほんの少しの名残惜しさが混じる。
この玄関を出れば、また変わらない救いのない日々に戻らないといけない。
それでも、真っ暗闇の世界がすべてではないと知れたこの出会いは忘れないだろう。
「……進むんだ」
外は曇り空が広がっていた。
雨上がりの朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、私は一歩を踏み出した。
_/_/_/_/_/_/
第五話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
やっと光が見えました……
次回もぜひよろしくお願いいたします。
14
あなたにおすすめの小説
わたしの愉快な旦那さん
川上桃園
恋愛
あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。
あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。
「何かお探しですか」
その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。
店員のお兄さんを前にてんぱった私は。
「旦那さんが欲しいです……」
と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。
「どんな旦那さんをお望みですか」
「え、えっと……愉快な、旦那さん?」
そしてお兄さんは自分を指差した。
「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」
そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの
偽装結婚を偽装してみた
小海音かなた
恋愛
「家借りるときさぁ、保証人が必要だと困るとき来そうで不安なんだよね」
酒の席で元後輩にそんなことをグチったら、旦那ができました――。
降って湧いたような結婚話を承諾したら、そこにはすれ違いの日々が待っていた?!
想いを寄せている相手の気持ちに確信が持てず、“偽装”を“偽装している”夫婦のモダモダ遠回り生活。
苦くてしょっぱくて甘酸っぱい、オトナ思春期ラブストーリー第2弾。
※毎日19時、20時、21時に一話ずつ公開していきます。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。
ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。
翻弄される結城あゆみ。
そんな凌には誰にも言えない秘密があった。
あゆみの運命は……
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
楓乃めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる