【完結】新人機動隊員と弁当屋のお姉さん。あるいは失われた五年間の話

古都まとい

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7章(5)

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 思わず7階めがけて駆け出そうとした将太の手を、相沢が強く引く。

「待て、その恰好で行くな」

 相沢が厳しい表情で、そう告げる。周りに知られないように宝井たからいの捜索を行なっていたため、ここにいる機動隊員は全員私服だ。装備は無線しかない。

「とにかく、早く確認だけでもしないと」

 一瞬だけ見えた宝井の顔は血に濡れていた。他に怪我は? もし時間がかかることで宝井の命が危険にさらされるとしたら。将太は焦って説得しようとするが、相沢はゆるゆると首を振るだけだ。苦虫を嚙み潰したような顔をして、苦悩を吐き出すように大きく深呼吸をする。

「確認だけでも、装備はきちんとしていくべきだ。相手がなにを持っているかも分からない。部下が怪我をしたり、命が危ぶまれるような場面は……もう見たくない」

 相沢がうつむきがちに言い切り、震える手でスマホを取り出す。
 将太の頭をよぎるのは、添木迅そえぎじんのことだった。相沢は5年前、迅を止められなかったことを今でも悔やんでいる。代わりに行くと言った相沢の申し出を断り、迅は死んだ。あのような形で部下を亡くしたことは、相沢の心に今でも暗い影を落としている。慎重にならざるをえないのだろう。

 将太はもどかしい思いでビルを見上げた。彩鳥さとりの言葉が本当なら、見上げた7階に彼女はいる。おそらく、血まみれの宝井と一緒に。
 宝井を傷つけたのは彼女なのだろうか? 相沢は暁も一緒にいるだろうと言ったが、地上からは確認することができない。
 遠くから、かすかにパトカーのサイレンの音が聞こえはじめた。サイレン音は徐々に近づいてきており、4丁目のビルめがけて緊急走行をしていることは明白だった。
 電話を切った相沢が引き締まった顔で将太をはじめとした隊員たちを見回す。部下を失ったことを悔いる表情は、もう見えない。

「先に機捜隊が7階の現状を確認することになった。宝井本部長を人質とする立てこもり事案が確認されたら、俺たちの隊で当たることになるだろう」

 一気にその場を緊張感が包んだ。訓練とは比べものにならない、圧倒的な緊迫感を持って現実が襲いかかってくる。

 首都圏から離れ、ほどよい田舎であるこの県では、機動隊が出動するような事件はめったに起こらない。災害も少なく、機動隊に配属されたとしても一度も出動や災害派遣を経験せずに異動になるパターンがほとんどだ。ごくまれに政府関係者の視察に伴う要人警護や、デモ行進の警備がある程度。いざという時に備えた訓練だけが続く毎日。
 将太も配属された当初は毎日の訓練と、たまの当直だけで2年ほどを機動隊ですごし、なにも起こらず異動になるだろうと思っていた。本当に、つい最近までそう思っていたのだ。まさか配属1年目でこんな緊迫した状況に出くわすとは、想像もしていなかった。

 じりじりと時間がすぎていき、各地に散らばっていた相沢隊の隊員たちもビル前に集まりはじめた。
 付近を巡回していた機動捜査隊の覆面パトカーがビルの管理人らしき人物を伴っていち早く駆けつけ、ビル内部の階段へと続く入口の鍵を開けさせている。機捜隊の署員2人が入口をくぐりながら素早く拳銃を抜いたのを見て、将太は心臓を鷲掴みにされるような痛みを感じた。
 めったなことでは発砲しないことは、同じ警察官として将太もよく分かっている。近くに本部長がいるならなおさらだろう。もし万が一、弾が逸れて本部長に当たるなんてことがあれば、大問題である。けれど、状況によっては彩鳥が撃たれるのではないかという不安は、一度刻み込まれると拭うことができなかった。
 相沢は機捜隊が乗ってきた覆面パトカーの運転席に座り、無線から流れる報告に耳を傾けている。

 7階まで到達、異常なしと小声での報告直後。人と人がぶつかる鈍い音と同時に、署員の低いうめき声が無線からこぼれ落ちた。
 7階を見上げる。なにも見えない。しかし、なにかが起こった。あまり、よくないことが。

「相沢から機動隊。4丁目空きビルにて機捜隊に被害発生。寮に残っている隊員は全員出動。特に銃対は計画書の通り装備を整えてくれ、以上」

 応援に駆けつけたパトカーがビルの周りを取り囲み、街ゆく人を急き立てながら立ち入り禁止の規制線を張っていく。将太も人や車の誘導に駆り出され、あっという間にビルの周りは警察による占領状態になる。
 相沢は機動隊に出動要請をしてからも無線の前でビルへ入っていった機捜隊へ呼びかけていたが、一向に返事はなかった。

「こっちの指示は、全部筒抜けかもな」

 誰に聞かせるまでもなく、相沢はつぶやいた。誰にやられたのか、宝井はまだ無事なのか、彩鳥や暁は本当に7階にいるのか。なにも情報がない。けれど、もし本当に彩鳥や暁がここにいるとして、偵察へ入った機捜隊を襲ったのなら、無線から警察の動きを把握していることは容易に想像できた。

 はじめは、自分が彩鳥を説得してなんとか未然に防げたらいいと思っていた。将太の思いとは裏腹に、彩鳥はすべてを拒絶し、宝井への復讐を決行した。どんどん事が大きくなり、将太の手には負えなくなっている。ここまで大きくなってしまえば、将太や相沢だけの力ではどうしようもない。彩鳥と暁は警察を敵に回してでも、宝井を殺すという目的を遂行することを選んだ。
 将太は相沢に歩み寄り、無線を貸してほしいと頼む。相沢はその一言ですべてを察したようだ。頑なにその場を動こうとはしない。

「お願いします! 俺の言うことなら、添木さんも暁さんも、聞いてくれる、かも……」

 将太が何度頭を下げても、相沢は首を縦に振らない。どうして、と詰め寄りかけた将太の肩に、相沢はなだめるように手を置いた。

「いいか、お前がやろうとしてることは、自分は共犯ですって言うようなものなんだ。この無線は県警の全員が聞いてる。そこで添木や暁との関係をバラしてどうする?」

 嫌な汗が背中を伝う。もし自分や相沢が、彩鳥や暁と関係があると知られたら。まちがいなく職を追われる。相沢は、将太の身を案じているのだ。

「加藤はまだ若いんだ。こんなところで、人生を棒に振るようなことはするべきではない。お前のお母さんだって、お前がクビになることは望んでいないだろう?」

 冷静になれ、と相沢は将太に一声かけ、運転席を降りていった。

 自分にできることは、なにもないのだろうか。ここで黙ってなりゆきに任せておいて、いいのだろうか。
 焦燥が体を蝕む。彩鳥が手を下してしまう前に、彩鳥が誰かに攻撃される前に、自分が行かなければいけない。心は激しく叫んでいるのに、足裏から根が生えたようにその場を動けなかった。
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