【完結】新人機動隊員と弁当屋のお姉さん。あるいは失われた五年間の話

古都まとい

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7章(6)

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 宝井たからいは血と汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、床に突っ伏していた。

 30分ほど前、部屋の外からかすかに足音と男の話し声がして、誰かが助けにきてくれたのだと歓喜したのも束の間。猫のようなしなやかさで部屋を飛び出していったあかつきが、あっさりと外にいた人影を打ち倒してしまった。
 聞こえたうめき声は二つ。警察が自分の不在に気づいて、助けにきてくれたのだと信じたかった。しかしスタンガンを手のうちで転がしながら凱旋した暁を見て、宝井はもう二度と自分を助けにくる人間はいないだろうと絶望に苛まれた。

 室内はあいかわらず冷え込んでいるのに、汗が際限なく吹き出してくる。極度のストレスと恐怖で神経がどうにかなってしまったようだ。死にたくないという強い思いに呼応するように、とめどなく涙もあふれる。体中の水分という水分が外に流れ出て、宝井はもうじき自分が干からびるのではないかという錯覚に囚われた。
 ここに運び込まれてから少なくとも8時間以上は経過していると思われるが、喉の渇きも空腹も感じない。ただひたすら生への執着だけが体の中で強く渦巻いている。

「君……」

 宝井は突っ伏していた顔を上げ、意を決して彩鳥さとりに声をかけた。
 彩鳥が宝井を鋭く注視する。彩鳥の顔からは表情が抜け落ち、とても昨日と同じ女だとは思えない。彩鳥の冷ややかな視線を見ていると、宝井は失った妻を思い出すようだった。
 恐怖を嚙み砕き、彩鳥の方へ体を転がす。口を動かすと、頬で乾いた血がぺりぺりと剥がれていく感覚がした。

「添木巡査長の件は、本当に悔いても悔やみきれない……犯人の凶行を止められなかった私にも、当然責任があるだろう」

 彩鳥はじっと宝井を見つめ、次の言葉を待っている。

「しかし君は、怒りの矛先をまちがえていないか? 憎むべきは私ではなく、君の夫を撃った銀行強盗事件の犯人で――」

 彩鳥が浅く足を踏み込んだと思った瞬間、耳をつんざく発砲音とともに、宝井は何者かの手によって投げ飛ばされ、もんどり打って倒れた。コンクリートが剥き出しの床に頭を打ちつけ、一瞬自分の置かれている状況が分からなくなる。
 ぼんやりとする視界で捉えたのは、拳銃を構える彩鳥の憎悪に塗れた顔だった。
 宝井の視界を遮るように、横からぬっと暁が出てきて立ち塞がる。

「オレがいなかったら、あんたは二回死んだことになるな」

 なにが面白いのか、暁は喉の奥でひそやかに笑っている。宝井は自分の身に起きた状況を察した。どっと冷や汗が吹き出し、すでに冷え切っている体をさらに濡らす。
 宝井の一言で、彩鳥はためらいなく発砲した。すんでのところで暁が助けに入ってくれなければ、彼の言う通り自分は死んでいただろう。

 床に打ちつけた部分が腫れ上がってくるのを感じながら、相対するふたりを見やる。彩鳥は暁の乱入によって興が冷めたと言わんばかりに拳銃を下ろした。小さなため息を吐いて、恨みがましい目つきで暁を見ている。
 暁はいつもと変わらない軽快な足取りで彩鳥との距離を詰め、片手で細い腰を引き寄せた。彩鳥を抱き寄せつつ、空いた片手でするりと拳銃を取り上げる。彩鳥も目立った抵抗はしなかった。

「どうして邪魔するの?」

 ささやくような低い声で、彩鳥が暁へ尋ねる。宝井は黙ってふたりの男女が抱き合っているのを見るしかなかった。昨日、宝井の前でしどけなく開かれた彩鳥の体が、今は暁の腕にすっぽりと収まっている。
 拳銃を取り上げられ、手すきになった指先で、彩鳥は暁の長い黒髪を梳いた。暁がくすぐったそうに忍び笑いをもらす。

「何度も言っているだろう? 彩鳥ちゃんが手を汚す必要はない。宝井を殺すための準備も、実際に手を下すのも全部、下々の男の役目さ」

 蟻も敬遠するような甘ったるい声で、暁は彩鳥に忠誠を誓う。

「大丈夫、オレらに任せておいて。君は高いところから、宝井が苦しんで死んでいく様を見るといい」

 そう言って暁は彩鳥を抱いたまま、宝井を見た。肉食獣のような獰猛な笑みに、胃がひっくり返りそうなほどの恐怖を感じた。
 本当の脅威が彩鳥ではないことに、宝井はこの時はじめて気づいたのだった。



◇ ◇ ◇



 本部から出動した機動隊が到着し、全員が装備を整え、訓練通りの配置についたのは彩鳥と電話で言葉を交わしてから2時間以上経った後だった。先に入った機動捜査隊の安否が分からなくなってから1時間以上が経過している。
 常時ならこれほど時間はかからなかっただろう。ハロウィンの雑踏警備や人混みが影響したと言わざるを得ない。宝井の捜索に当たっていた相沢隊の面々に加え、非番で寮に残っていた隊員を全員集めても、その数はぎりぎり小隊に色をつけた程度の人数だった。
 耳にはめたインカムから相沢の硬い声が響く。

『最優先は機捜隊ふたりの救助だ。他は可能であればやる、くらいの認識でいい。怪我だけはしないように、無理はするな。頼んだぞ』

 訓練の時とはまるきりちがう、ピリピリとした緊張感が肌を刺す。将太は階段前でしゃがみ込んだまま、ポリカーボネート製の透明盾を構え直した。
 なにかあった時、自分の身を守ってくれるのはこの盾だ。6キロあるこの盾を持って、将太は毎日訓練に明け暮れた。はじめは持って走るのもやっとだったが、今では自分の一部のように手に馴染んでいる。重さをものともせず自由に扱うことができなければ、いざという時に身を守ることができない。
 将太は突入の合図を待ちながら、深呼吸をした。隣で待機している隊員たちも、じっとその時を待つ。

 相沢の押し殺した突入合図が、頭の中で鳴り響いた。盾を持つ手にぐっと力を込め、素早く階段を駆け上がる。誰も早まったり、遅れたりすることがない。一糸乱れぬ足音が、ビルの中をこだまする。

「7階、突入します!」

 先頭の隊員が無線で報告する。7階の廊下に出て、速やかに配置を変える。透明盾をぴたりと合わせ、寸分の隙間もないみっちりとした配置でじりじりと廊下を進む。
 長さ200メートルほどの廊下のちょうど中心部。男がふたり倒れているのが見える。駆け出したくなる気持ちをこらえ、歩幅を合わせてじっくりと進む。
 倒れた男たちの足先に届きそうなほど近づいたところで、後ろに控えていた隊員たちが訓練通りの手慣れた動きで、ざっと周囲を盾で取り囲んだ。

 倒れていたふたりは意識は失っているものの、目立った外傷は首筋の火傷痕だけに見える。周りの隊員に盾を預けた先輩隊員ふたりが、意識のないふたりを背負った。盾を持たないその一塊を守るように、四方に透明盾を張り巡らせ、防御しながらきた道を引き返す。

 階段までたどり着いたところで小隊はまた配置を変え、将太は最後尾について後方を警戒する。
 機捜隊のふたりが倒れていた辺りで、ドアがそっと開いた。盾を構える手が震える。さっと後ろを振り返って、隊列が順調に階段を下っているのを確認し、将太もじりじりと後ずさる。

 外開きのドアを盾にするように、そっと顔を覗かせたのは。紛れもない、彩鳥本人だった。
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