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第三章

第3話

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 部屋の外は廊下になっていた。

 鍵がかかっていなかったのは幸いだった。
 あまり頑丈な作りでもない。体当たりでもすればドアなど外れそうだったし、後から鍵がかけられるような構造でもなかったからかもしれない。
 その辺りを考えても、義母にとってもこれは急な計画だったのだろうと思えた。
 義母は、昨夜スフィーナがゲイツによって害されれば全てが終わると考えていたのかもしれない。
 だとしたら、この計画のどこかに穴はあるはずだ。逃げられる隙もあるかもしれない。

 スフィーナは足音を忍ばせ、少しずつ歩みを進めた。
 隣には同じような扉があったが、その先は曲がり角だ。
 何も聞こえないことを確認し、そっと顔を覗かせれば、曲がった廊下の先に外へと通じているらしい扉が見えた。

 木と木の隙間から外の光が漏れ入っている。
 スフィーナは逸る胸を抑え、そっとそっと出口へと向かった。
 しかし、古く傷んだ床がきしりと鳴ってしまい、スフィーナは息を詰め足を止めた。

 誰もいなければいい。
 誰も気づかなければいい。
 そう祈ったが、廊下を曲がった先の部屋から、がたんと物音がした。

 誰かが部屋から出てくる気配がする。

 慌てて元の部屋に戻ろうかと思ったが、見つからずに戻ることはできまい。
 それなら、とスフィーナは一気に出口に向かって駆け出した。

 その足音を聞きつけ、慌てた足音が部屋のドアを開けた。

「この女! いつの間に!」

 口汚く罵ったのは、義母イザベラだった。
 スフィーナは振り返らず出口に向かった。
 しかし「人質を殺すわよ!」と鋭い声が飛び、スフィーナは足を止めた。

 振り返れば、イザベラはふん、と勝ち誇ったようにスフィーナを斜めに見下ろした。
 イザベラが出てきたらしい部屋からは、もう一人後から姿を現した。
 辛そうに顔を歪めた馭者ルガートだった。

「また人を使って。人質でもとったのですか? どこまでも卑劣ですね」

「なんとでも言いなさい。最後に勝てば何でもいいのよ」

 意地悪く笑ったイザベラの後ろで、ルガートが瞳を揺らした。
 そしてその瞳が必死にスフィーナを見る。
 ルガートにはまだ幼い子供がいると言っていた。思っていた通りだったのだろう。
 スフィーナは唇を噛みしめ、まっすぐにイザベラを見た。

「私を攫って、人質まで取って。母まで殺して……。一体あなたは何がしたいんです?」

 スフィーナの言葉に、イザベラはくくくくっと笑った。
 そうして、否定もせずに、ただにまにまとスフィーナを見た。

「私が欲しいのはずぅっと、たった一つ。ここまで私が準備してあげたから、あなたは今、たった一枚の紙に署名すればいいだけなのよ」

 そう言って部屋から一枚の紙を手に戻ってきた。

「昨夜ダスティンが各領地をスフィーナに譲渡するという書類を作っていてね。まだ何枚かは書き途中だったのよ。罠かと思って一度は手を出すのを躊躇ったのだけれど。今朝の動きを見ると、どうやらもう決着がつくと油断したようね。その書き途中だったものはこれからダスティンの筆跡を真似て私に譲渡するよう書き進めてもらうからいいのだけれど。その事に気付いて先に書類を出されていたら間に合わないでしょう? だから――」

「私からあなたへ譲渡するという書類に署名しろ、ということですね」

「そういうこと。頭のいい子はこういう時だけ助かるわ」

 唇を歪めて笑うイザベラにも、スフィーナは瞳を揺らがせなかった。

「この後お父様も殺すつもりなのね」

 イザベラは笑みを象ったまま、答えなかった。
 イザベラは何故これまでダスティンを殺さなかったのだろうか。それが最も手っ取り早いのに。
 スフィーナが継承してしまうから?
 サナに続いて死が続けば怪しまれるからだろうとダスティンは言っていた。けれど本当にそれだけだろうか。

 探るようにイザベラの瞳を見つめながらスフィーナは、静かに口を開いた。

「人質はどこにいるんです? 本当は人質なんていない、なんてことはありませんよね」

「ちゃぁんといるわよ。だからそこの男もこっちについてくれたんじゃない」

 嘲笑うようにルガートを顎で示す。
 ルガートの瞳がイザベラとスフィーナとを交互に行き来した。

「すぐに出さないということは、ここに人質はいないのでしょう」

 そう言ってスフィーナはじりじりと後退りをした。
 人質がこの場にいないのならば、逃げて助けを呼び、大勢で人質を探してもらった方が早い。
 しかし焦りを見せたのはルガートだった。必死で首を振っている。
 人質は本当にここにいるのかもしれない。それがわかっていても、イザベラ一人を相手に人質を助け出せずに付き従っている。
 それは閉じ込められている場所がわからないからなのか、鍵の場所がわからないからか――。

「いると言っているでしょう!」

 苛立たしげに怒鳴ったイザベラに、スフィーナは冷静に返した。また一歩後退りしながら。

「じゃあ連れてきてください。でなければあなたの言葉なんて信じられません」

 その冷静さがイザベラの感情を逆なですることをスフィーナはよく知っていた。
 しばし睨み合ったが、イザベラは苛立たしさを一周回って嘲りに変えると、先程の部屋から鍵を手に戻ってきた。
 そのまま背を向けて廊下を歩き出した間にルガートに視線を走らせれば、縋るようにスフィーナを見ている。一つ頷いて返すと、ルガートは祈るようにぎゅっと拳を握り締め、イザベラの行動を見守った。
 向かったのはスフィーナがいた隣の部屋で、よく見ればそこには元々ドアに鍵が付けられていた。

 何故スフィーナをそちらに閉じ込めなかったのかと思ったが、先に閉じ込めたのが人質の方で、一緒に閉じ込めると結託されては困るとでも考えたのだろう。
 鍵がかかっていても、大人の体のスフィーナなら体当たりでドアを開けることもできるかもしれない。
 何よりこうして人質さえいれば、スフィーナを意のままにすることができるのだから、人質こそ鍵をかけて閉じ込めておくべきだったのだろう。

 イザベラは鍵を開けると中から五歳くらいの子供を引きずるようにして連れて来た。

「ああ! ルーク!」

 ルガートは駆け寄りかけ、イザベラに鋭く睨まれ足を止めた。
 歯噛みするルガートには気づかないまま、ルークは縄で結ばれた手で眠たげに目をこすり、足をもつれさせながらイザベラに無理矢理腕を引っ張られていく。
 もしかしたら騒いだことで睡眠薬でも飲まされたのかもしれない。
 スフィーナは怒りを堪え、じっとイザベラを睨み据えた。

「さあ、人質は本当にいたわね? わかったらさっさと署名をしなさい。言っておくけど、おかしなことをしたらすぐにこの子供の首を絞めるわよ」

 そう言ってルークの腕をぐいと引っ張った。
 すかさずスフィーナは、懐に入れてきた赤い髪の布人形を取り出してイザベラに向けて見せた。

「ここはお義母さまの生まれた家なのですね」

「その人形は……」

 イザベラの瞳が見開かれ、それから憎々しげに歪められた。
 ルークを掴む手が緩んだ。

 その瞬間、イザベラの背後を影が覆った。

「うあああ!!」

 両の手を握り合わせ振り上げたのはルガートだった。

「うっ!?」

 イザベラは後頭部に拳を叩き込まれ、ふらふらと足をもつれさせた。
 後ろに結い上げていた髪がクッションになったのか、イザベラは倒れなかった。
 間髪入れずにスフィーナは大きく足を踏み込み、握り締めた拳をイザベラの頬目掛けて思い切り突き出した。

「がっ!」

 拳のめり込んだ頬と共に、ぐらり、と体を傾がせたイザベラは、そのまま横倒しに倒れ込んだ。
 ルガートはぜえはあと肩で息を吐き、がくがくと膝を震わせへたり込んだ。

「あ、あ、スフィーナ様……」

「ルガート、助けてくれてありがとう。ルークも無事でよかったわ」

 やはりルガートは、ルークが閉じ込められていた部屋の鍵を手にできず、ルークと同じ建物の中にいても助け出すことができずにいたのだ。
 鍵さえ開けば、もうイザベラに従う必要はない。
 そう気づいてすぐにルガートが動いてくれて助かった。

「申し訳ありません、スフィーナ様! 人質をとられていたとはいえ、スフィーナ様をこんな目に遭わせてしまい」

「巻き込んでしまったのは私の方よ。幼いルークにまで怖い思いをさせてしまってごめんなさいね。どこか痛い所は? 頭ははっきりしているかしら」

 優しくルークに声をかけると、きょとんとスフィーナを見つめたあと、こくりと頷いてくれた。
 ほっとしながらも、スフィーナは素早く周りを見回し、縄を探した。
 そしてはっと気が付き、スフィーナが閉じ込められていた部屋まで戻ると自分の足が縛られていた縄を持って来てイザベラを後ろ手に固く縛った。
 親指を縛っていた紐は切ってしまったが、慌ててルークの拘束を解いたルガートが、その縄を使ってイザベラの足を縛り上げた。

「あのイザベラ様でも、動揺することがあるんですね」

「お義母さまも人だったということね。とにかく助かったわ。さあ、すぐにここを出ましょう」

 頷きあい、ルガートがルークを背負った。

「あ、ごめんなさい、一つ忘れ物をしたわ」

 言い置いて、スフィーナはイザベラの元へと戻った。

「さっきのはお母様の分。そしてこれが私の分」

 そう言ってスフィーナはイザベラの額を指で強くはじいた。
 イザベラは気を失ったまま、目を覚まさなかった。

「そんな……その程度で、よろしいのですか?」

「だって、これ以上したら死んじゃうじゃない。本当はお父様の分もしたかったけど、まあお父様は自分でするわね」

 そう言って一つため息を吐くと、スフィーナはイザベラの傍に赤い髪の布人形を置いた。
 イザベラにどんな過去があったのかは知らない。
 だがここがイザベラの生家だとしたら、貴族街ではない。
 人通りの多い通りにもすぐ出られるかもしれない。

 スフィーナはルガートと揃って扉から外へと走り出した。
 周りを見回せば、質素な家が立ち並ぶ町の外れのようだった。
 小道を駆け抜けて大通りに出れば、騎士の姿が何人か行き交うのが見えた。

「助けてください! お嬢様が……!」

 ルガートが張り上げた声に気が付いた騎士が振り返り、慌てて駆け寄った。

「こちらは……、アンリーク家のスフィーナ様ですね? おい! 見つかったぞ!! グレイグを呼んでこい!」

 その声に、遠くから駆けてくる人影が見えた。
 グレイグだ。

「スフィーナ!!」

「グレイグ、スザンナは?」

「大丈夫だ、無事だ。スフィーナは……とても無事ではないな。すまない、傍にいてみすみすスフィーナを攫われるなど。しかもまさか自力で逃げてくるとはな」

「それも全部グレイグとの訓練があったからよ。おかげで渾身の拳も叩き込んで、倍返しもしておいたから」

 ルガートも一発食らわせていたから、三倍かもしれない。

「スフィーナ、その手……」

 目を見開いたグレイグの視線を追い、スフィーナは拳の皮膚が破れているのに気が付いた。
 人を殴ると手はぼろぼろになるらしいとは聞いていたが、痛みは感じなかった。今は興奮で痛覚が麻痺しているのかもしれない。

「大丈夫。大したことはないわ」

「爪だって剥げてるだろうが! 手当てを、誰か!」

「いいの! それより早く邸に戻らないと。私が戻らなければ、ミリーが何をするかわからないわ」

 ただでさえ、ゲイツの逃走、逮捕と続いて、イザベラから何かを吹き込まれてこれ以上ないほどに荒れているのだ。
 もしイザベラが捕まったなどと耳に入れば、自棄を起こしかねない。

「グレイグ、馬車を!」

 強く見つめれば、グレイグは舌打ちをしてスフィーナの手を引き、歩き出した。

「ミリーのことが片付いたら何よりもまず医者だからな!」

「ええ。ありがとう、グレイグ」

 グレイグに再会できたことで心からほっとしていた。
 けれどここで気を緩めるわけにはいかなかった。
 まだ終わっていないのだから。
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