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暗雲①
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すっかり日課となった朝の乗馬の後、ようやく始まった体術の訓練で全身に大なり小なり傷を作りながら、着実に木蓮は強くなっていった。
効率的な筋肉の鍛え方、人間の急所と、箇所に合わせた効果的な攻撃の仕方を教わり、それらが徐々に身についてきたため、今の木蓮はひ弱な現代日本人女性ではない。
とはいっても、監督する千李が人間離れしているだけに、木蓮は自分が強くなっている実感がわかなかった。
千李の稽古が三度目を迎え、しばらく相手を出来ないと宣告されたことにより、ようやくもう一人の体術の師匠、静雲藍と面会することになった。
「基本的な動き、技は一通り教えたけれど……もともとの骨格が華奢だし、筋肉も薄っぺらかったから、どこまで伸びるかはやってみないとわからないわね。それに、今の仙術と組み合わせるのであれば、私の理想とするところまで仕上げる必要は無いのかもしれないわ」
約二時間近く木蓮の拳と蹴り、その他肘や肩を使った攻撃の数々を受け流し続けた千李は、真夏の昼下がりであるのを感じさせないくらいに涼しげな表情でそう言った。
汗一つかいていない彼女が理想とする強さは、果たしてどれくらいなのか。
考えるだに恐ろしく、木蓮は顔がひきつった。
こちらは全身汗だく、土埃まみれで、体のあちこちに軽傷を負い、髪はぐしゃぐしゃである。
「でも予想より強くなってくれたし、私としてはそれなりに満足だわ。静雲藍の訓練は苛烈よ。今まで教えたことを忘れず、より高みを目指してちょうだい」
「はい。お忙しい中、ご指導ありがとうございました」
拱手の礼をし、激務の合間を縫って時間を作ってくれた千李に心から礼を言う。
千李はゆったりとした微笑みで、一服してから帰るように勧めた。
「よく冷えた緑茶を用意してあるわ。少し休憩してから帰ったら?」
「ありがとう。暑いからありがたいよ」
千李の宮に入るのはこれで二度目であるが、後宮でも格別の広さと使用人の多さを誇る承福宮にいまだに圧倒される。
今回は千李の部屋に招かれた。
一輪挿しに活けられた芍薬以外に装飾性のあるものはなく、円卓に椅子が二つと、壁沿いにズラッと本棚が並び、部屋の端に寝椅子と文机があるだけの、実に質素な部屋である。
鮮やかな黄緑の旗袍を着た宮女が一切の音を立てることなく入室し、硝子の器によく冷えた緑茶を注ぐ。
たった今剥いたばかりであろう、色鮮やかで瑞々しい桃と蜂蜜で固めた木の実を給仕し、彼女はそのまま壁沿いに控えた。
無駄の無い洗練された姿に拍手を送りたくなるが、木蓮は目礼だけすると水菓子に手をつけた。
「しばらく会わないだろうし、貴女とたくさん話したいことが……あら、黄崔乾が来るわ」
千李が話を中断しておよそ五秒後、遥か後方の扉が叩かれた。
「お入り。緊急なのでしょう?」
のんびりと桃をつまみながら入室を促す千李に、木蓮は怪訝な表情を隠せなかった。
なぜそんなことがわかるのか。
いや、そもそも遥か後ろの扉に人が近づいているのがわかるなど、本当に人間なのか。
「人より耳が良いものだから、足音でわかるのよ。速度、重さから誰がなんの目的で来ているかくらいなら想像がつくわ」
「私より遥かに仙女っぽい能力だね」
こんな超人がいるのに、ちょっと風を吹かせることしか出来ないような自分がなぜ仙女を名乗っているのか、木蓮は軽く自分の存在意義に疑問を覚えた。
入室を許可された千李付きの宦官、黄崔乾は頭を垂れながら低い声で囁いた。
「皇后娘娘、梁児が自害いたしました」
いきなり飛び出た不穏な単語に、木蓮は息を呑んだ。
千李はというと、冷静さは失っていないが眼光が鋭くなっている。
「詳しく教えなさい」
「御意。死因は毒のようですが、何を服用したのかはわかりません。昼食の時間になっても現れないため、心配した春水が部屋を訪ねて遺体を発見いたしました。幸い、まだ春水以外の目撃者はおりません」
「……まさかとは思うけれど、遺体に破損した箇所は無かった?」
黄崔乾が無言で肯定したことに、千李は怒りを混ぜたため息をついた。
「やはりね。こんなことにならぬよう、良い縁談を整えたけれど遅かったわね。来月には嫁ぐはずだったのに、可哀想に」
「手酷く犯されたのか、旗袍の内側は血で薄紅色に染まっていました。殴られた跡もあります」
「これで三人めよ。次こそ、あの化け物を殺してやる!梁児の死因は事故死ということにしなさい。遺族には見舞金を」
「御意」
黄崔乾が出ていくのを見届けながら、憎々しげに舌打ちする千李を息を潜めて見遣る。
口ぶりからして、宮女を犯した犯人を知っているようだ。
「木蓮、あなたの宮にはとても美しい侍女がいるわね。確か、あなたの義妹の」
「そうだけど……」
「しばらくは宮から出さないようにしたほうが良いわ。あるいは自衛の方法を考えるか。でないと、化け物に目をつけられるわよ」
「化け物って誰のこと?」
怒りと軽蔑をこめ、冷たく千李は吐き捨てた。
「皇太后付き太監、丁胤聖よ。美しい容姿の者は、男だろうが女だろうが犯し尽くすわ」
効率的な筋肉の鍛え方、人間の急所と、箇所に合わせた効果的な攻撃の仕方を教わり、それらが徐々に身についてきたため、今の木蓮はひ弱な現代日本人女性ではない。
とはいっても、監督する千李が人間離れしているだけに、木蓮は自分が強くなっている実感がわかなかった。
千李の稽古が三度目を迎え、しばらく相手を出来ないと宣告されたことにより、ようやくもう一人の体術の師匠、静雲藍と面会することになった。
「基本的な動き、技は一通り教えたけれど……もともとの骨格が華奢だし、筋肉も薄っぺらかったから、どこまで伸びるかはやってみないとわからないわね。それに、今の仙術と組み合わせるのであれば、私の理想とするところまで仕上げる必要は無いのかもしれないわ」
約二時間近く木蓮の拳と蹴り、その他肘や肩を使った攻撃の数々を受け流し続けた千李は、真夏の昼下がりであるのを感じさせないくらいに涼しげな表情でそう言った。
汗一つかいていない彼女が理想とする強さは、果たしてどれくらいなのか。
考えるだに恐ろしく、木蓮は顔がひきつった。
こちらは全身汗だく、土埃まみれで、体のあちこちに軽傷を負い、髪はぐしゃぐしゃである。
「でも予想より強くなってくれたし、私としてはそれなりに満足だわ。静雲藍の訓練は苛烈よ。今まで教えたことを忘れず、より高みを目指してちょうだい」
「はい。お忙しい中、ご指導ありがとうございました」
拱手の礼をし、激務の合間を縫って時間を作ってくれた千李に心から礼を言う。
千李はゆったりとした微笑みで、一服してから帰るように勧めた。
「よく冷えた緑茶を用意してあるわ。少し休憩してから帰ったら?」
「ありがとう。暑いからありがたいよ」
千李の宮に入るのはこれで二度目であるが、後宮でも格別の広さと使用人の多さを誇る承福宮にいまだに圧倒される。
今回は千李の部屋に招かれた。
一輪挿しに活けられた芍薬以外に装飾性のあるものはなく、円卓に椅子が二つと、壁沿いにズラッと本棚が並び、部屋の端に寝椅子と文机があるだけの、実に質素な部屋である。
鮮やかな黄緑の旗袍を着た宮女が一切の音を立てることなく入室し、硝子の器によく冷えた緑茶を注ぐ。
たった今剥いたばかりであろう、色鮮やかで瑞々しい桃と蜂蜜で固めた木の実を給仕し、彼女はそのまま壁沿いに控えた。
無駄の無い洗練された姿に拍手を送りたくなるが、木蓮は目礼だけすると水菓子に手をつけた。
「しばらく会わないだろうし、貴女とたくさん話したいことが……あら、黄崔乾が来るわ」
千李が話を中断しておよそ五秒後、遥か後方の扉が叩かれた。
「お入り。緊急なのでしょう?」
のんびりと桃をつまみながら入室を促す千李に、木蓮は怪訝な表情を隠せなかった。
なぜそんなことがわかるのか。
いや、そもそも遥か後ろの扉に人が近づいているのがわかるなど、本当に人間なのか。
「人より耳が良いものだから、足音でわかるのよ。速度、重さから誰がなんの目的で来ているかくらいなら想像がつくわ」
「私より遥かに仙女っぽい能力だね」
こんな超人がいるのに、ちょっと風を吹かせることしか出来ないような自分がなぜ仙女を名乗っているのか、木蓮は軽く自分の存在意義に疑問を覚えた。
入室を許可された千李付きの宦官、黄崔乾は頭を垂れながら低い声で囁いた。
「皇后娘娘、梁児が自害いたしました」
いきなり飛び出た不穏な単語に、木蓮は息を呑んだ。
千李はというと、冷静さは失っていないが眼光が鋭くなっている。
「詳しく教えなさい」
「御意。死因は毒のようですが、何を服用したのかはわかりません。昼食の時間になっても現れないため、心配した春水が部屋を訪ねて遺体を発見いたしました。幸い、まだ春水以外の目撃者はおりません」
「……まさかとは思うけれど、遺体に破損した箇所は無かった?」
黄崔乾が無言で肯定したことに、千李は怒りを混ぜたため息をついた。
「やはりね。こんなことにならぬよう、良い縁談を整えたけれど遅かったわね。来月には嫁ぐはずだったのに、可哀想に」
「手酷く犯されたのか、旗袍の内側は血で薄紅色に染まっていました。殴られた跡もあります」
「これで三人めよ。次こそ、あの化け物を殺してやる!梁児の死因は事故死ということにしなさい。遺族には見舞金を」
「御意」
黄崔乾が出ていくのを見届けながら、憎々しげに舌打ちする千李を息を潜めて見遣る。
口ぶりからして、宮女を犯した犯人を知っているようだ。
「木蓮、あなたの宮にはとても美しい侍女がいるわね。確か、あなたの義妹の」
「そうだけど……」
「しばらくは宮から出さないようにしたほうが良いわ。あるいは自衛の方法を考えるか。でないと、化け物に目をつけられるわよ」
「化け物って誰のこと?」
怒りと軽蔑をこめ、冷たく千李は吐き捨てた。
「皇太后付き太監、丁胤聖よ。美しい容姿の者は、男だろうが女だろうが犯し尽くすわ」
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