美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

いやー困るんですよねえ

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 まあ、頭に浮かんだのはひたすら困る、ということだった。
 困る。なんでもう2度と会いたくない人が店に来ているんだろう。
 昼間と同じ格好の私を見て、絶対にあの時の客だと気付くはずだ。

「どうぞどうぞ」

 お父さんは快く、お洒落アゴ髭男を迎え入れている。
 まあ、客だし当然のことだ。私は反応しきれなかったけれど。

 店で見た麻のサラリとしたシャツに、紺色の薄手ニットを羽織っている。
 それだけなのに、どうしてこんなに洗練されているように見えるのか。

 うちの店の、ごくごく一般的な店舗什器にお洒落な人間が腰かける。
 違和感……。
 量産品の上に、オーダーメイド品が無理矢理飾り付けられているかのようだ。

「あの、本日の魚定食は何ですか?」
「サバ味噌です」
「じゃあ、それを」
「はい」

 大丈夫かい? サバ味噌の匂いが身体に沁みついてしまうよ?
 コーヒーの邪魔になったりするんじゃ??

「すいません、一度挨拶したきり、お店にお邪魔してなくて」

 お洒落アゴ髭男はそう言った。何の話だ。

「ああ、お隣さんですね。いや、開店の時は大変でしょう?」

 キッチンでカウンター越しにお父さんが答えている。何? この人、挨拶に来たことあるの??

「思った以上にバタバタしちゃって……やってみると至らない事ばかりで、お恥ずかしい限りです」
「いえいえ、誰だってそうですよ」

 お父さんはまるで前から知っている人みたいにお洒落アゴ髭男と話す。
 ああ、お洒落アゴ髭男って長いあだ名だな。頭の中ですら面倒くさい。

「今日は、コーヒーを買っていただきまして」

 そのお礼だったら別にわざわざお店に来なくてもいいのに。
 実は律儀な人なのだろうか。

「あ、ああ、私?」

 お父さんに話しかけているかと思ったら、私だった。そうか、買いに行ったのは私だ。

「はい、昼間はどうもありがとうございました。やっぱり、オーダー分かりにくいですか?」
「あ、ああ……。私、コーヒーって詳しくなくて」
「そうですよね、いや、普通はそうなんだよなあ……」

 お洒落アゴ髭男は……言いづらいからもう、アゴ髭男にしよう。アゴ髭男は、そのアゴ髭が生えたアゴに手を当てて、髭をちょっと弄ぶようなことをしながら困った顔をする。
 様子が、ちっともアゴ髭から離れられない。
 
 店内はお客さんもまばらで、世間話を続けられるくらいに余裕がある。
 しまった。この話、暫く続いちゃうやつ。

「娘が、感想言ってましたよ」
「ホントですか?? どうでした??」

 ちょっとお父さん!! ヤメテ!! 別に神の舌とかじゃないから!!

「ええと……中煎りって言われて渡されたんですけど、酸味がありました。ベリー系で、スッキリとした飲み口で」

 私は渋々思い出しながら感想を言う。コーヒーの素人に語られたところで、嬉しくないだろうに。

「おお。コーヒー詳しくないのに産地まで当てましたね」
「いえ、産地なんて言ってません」
「ホンジュラスでベリー系まで分かっていたら充分ですよ。酸味の種類には、ほかに柑橘系がありますが」

 アゴ髭男は、そう言って私をおだてた。嬉しくなどない。たまたまベリー系だと思っただけだし。
 豚じゃないから木には上らない。いや、豚も上らない。

 すぐにサバ味噌定食が用意できたので、私はお盆をアゴ髭男の前に置いた。

「うわあ。サバが綺麗ですね。こういうのホント嬉しいなあ。いただきます」

 ああ、そうですか。このサバの良さに気付くとは、なかなかの目利き。
 実は、お父さんはとある魚卸を昔から懇意にしていて、良い魚が手に入る。
 魚と肉の定食を用意しているけど、絶対に魚定食の方がクオリティが高い。

 現代人風のアゴ髭男は、近くで見ていると30代くらいに見える。
 店長にしては若いのだろうか? その辺の事情には詳しくないけれど、お箸の使い方は綺麗だ。

「このサバ味噌、赤味噌ですか?」

 コップの水を足していたら聞かれてしまった。

「はい、うちは赤を使うことが多いです」
「へえ……?」
「豆だから気になります??」
「え??」

 通じなかった……。味噌も豆を使っているし、コーヒーも豆ですねって意味だったんだけど。

「いや、自分の実家は合わせ味噌か白味噌だったので、赤味噌はこれで美味しいなと思って」
「ああ、そうですか。白味噌でも美味しいですよね」
「いやでも、これはすごく……調和するというか」

 ほう……。なかなか鋭いな、青年。私もそう思って赤を好んで使うようにしたというのに。

「赤味噌って、割とうまみの強い食材を整える時に向いている気がするんです。白味噌に比べると甘みが少なくて塩分が強くてクセがあるように思えるんですけど、実は熟成期間が長い分だけコクが柔らかいところがあって」
「へえー……面白いな」

 アゴ髭男は、またしても髭をいじって感心している。それ癖なんだなあ。
 アゴに目が行って仕方がないんですけど。

「アゴ……」
「あご??」

 やっば。アゴ髭男さんって言いそうになったーー!!
 名前知らないから、もーーーー!!

「すいません、あのって言おうとして噛んじゃいました」
「ああ、何ですか?」

 あっぶな……。名前聞いておこうかな、コーヒースタンド・ナツの人。うかうか話しかけられない。またアゴになっちゃうよ。

「お隣さんは、すごくお洒落なお店ですけど……どうしてこんな下町にオープンさせたんですか??」
「ああ、確かに下町ですよね」

 明らかに浮いていると思いますよって意味なんだけどなあ。お洒落なものなんて大してない場所に、お洒落なお店をオープンさせるなんて。

「なんか良いなあと思って。物件探しで初めてこの町に来た時に、生活感とオフィス街がいい具合に混ざっていたし、道行く人たちが温かいし、隣にはいい雰囲気の昔からある定食屋さんが栄えていて」
「栄えて……?」

 栄えているの意味を分かって使っているのだろうか。昼時にサラリーマンで溢れているだけだ。
 うちのお昼の売上なんて、せいぜい3万円台しかいかない。材料費引いたら2万円にしかならないって言うのに。

「食って、やっぱり人の根源だと思うんですよ、僕。いい食事がある場所がすごく好きで」
「はあ……」

 何を言っているのかよく分からないけど、このお店が褒められているのだろう。アゴ髭男は、「ご馳走様でした。本当に美味しかった」と言って満足げに隣のお店の方に消えて行った。

 あーあ、名前、聞きそびれちゃったなあ……。またアゴって言っちゃいそう……。
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