美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏

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第一章 定食屋で育って

帰宅

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 私とナツさんは16時前にお店を出た。
 食べたパフェのことや、これまで見て来たお店の話をしていたらあっという間に時間が経っていたらしい。
 明日も早いし帰りましょうか、と言ったナツさんに、私は何も返せなかった。

 結局、帰り道に向かっている。

「市場調査、私なんかでお役に立てました?」
「ばっちりですよ」
「それは、良かったです」

 過去を話した後、ナツさんは私のこれからに刺激をくれると言ってくれた。
 深い意味なんかないんだろうなと分かってはいるけど、どうしたって意識してしまう。
 
 それに、本当は私の話じゃなくナツさんの話を聞くつもりだったのに。

「私は、とても楽しかったです。ここのところ、商店街からあまり出てなくて」
「利津さんは、もっと自由にしていて良いんですよ」
「でも、ひとりで行きたいところも無くなってしまっていたので」

 いつの間にか、行動しないことが普通になってしまった。
 日曜日の休みは家にいるか日常に必要なものを買いに行くくらいで終わる。
 こんな風に外出したのはいつ振りだろう。

 ナツさんと一緒に食事をすると、心の奥がほんわかと温かくなる。

 地下鉄の車内で並んで座っていると、どこかの窓に私と隣り合っているナツさんが映るのだということが、まるで大きな発見みたいで。

 今日は、色んな事を知った日だった。

「じゃあ、利津さん。また市場調査に誘ったら付いて来てくれますか?」
「え!? 良いんですか? 食事代とか全部払ってもらっちゃってるのに……」
「いやいや、ランチ以外は飲食代というか研究開発費ですから。経費ですよ。利津さんがいてくれると助かるんですよね……今日まわったようなお店は他にもあるので」

 ナツさんは当然のようにそう言うと、地下鉄の駅に向かう階段を降り始めた。慌てて後に付いて行く。

「あの、ナツさん」
「はい?」
「ナツさんの前職の写真、見ちゃいました」
「あー……見られちゃいましたか」

 地下鉄の駅に向かう地下の通路に、私たちの声が反響する。

「髭、無い方が若々しくてカッコいいのに」
「それだと店長の威厳がないじゃないですかー。僕のコンプレックスなのに」
「威厳なんてなくたって、ナツさんは充分すごいです」

 私が口を尖らせて言うと、ナツさんは「すごくありません、利津さんより年を食ってるだけですよ」と謙遜する。自分のことを年配者だと言い切って、どうやら童顔に抵抗があるらしいナツさん。

 私はもっと、ナツさんと並んで「お似合い」になりたい。
 年の差はいつまで経っても追いつけないのだから、せめて見た目だけでもお似合いになれたらいいのに。

 どうやら私は、仕事休みのナツさんを独り占めできたせいで欲張りになっている。
 地下鉄で、我が家までは1時間弱。このままだと17時には家に着くだろう。

「あの、ナツさん、うちで晩ご飯食べて行きませんか? 材料はありものですけど」
「え?」
「お父さんは今日、お友達と会っているので夜遅くまでいないんですよ。どうせ1人分作るのも、2人分作るのも変わらないですし、今日のお礼に……」

 明らかにナツさんは動揺していた。まさかそんな提案が来るとは思わなかったのだろう。

「いや、でも、そんなご厚意に甘えるわけには……」
「1人で晩ご飯食べるの、寂しいじゃないですか。今日は久しぶりに一緒にご飯を食べる人がいて、私、とても楽しかったんですけど」
「はあ……」
 
 ナツさんはどう断ろうかと考えている風で、私たちはそのまま地下鉄の改札を通る。
 ホームに向かう階段を降りる前に、ナツさんは立ち止まった。

「いや、あのう……やっぱり店長がいない業務時間外のお店に僕が入るっていうのは、よくないですよ」
「……お父さんがいないだけで、我が家なんですけど」
「いやだって、まずいでしょ」

 ナツさんは、まるで保護者みたいなことを言う。
 私が家に呼んでいるだけだというのに、どうしてこうも遠慮っぽいのだろうか。

 大人は、リスクのようなことを考えたり、周りの目を気にしたりするのだろう。

「今日は、漬けマグロ丼なんかどうですか?」
「旨そうですね」
「冷凍庫に、マグロがあります」

 ナツさんは複雑な顔をしていた。
 本当は、責任者がいない時に他人がお店に入るなどあってはならない、とか思っているんだろう。
 それはそうなのかも。私はよく知らない。

「今日のお礼に、ご飯を作りたいんです。私も、ナツさんが美味しいって言ってくれるようなものを作れるようになりたいので」

 私は強引にナツさんの手を引いて地下鉄のホームに降りる。ナツさんの掌は思ったよりも厚みがあって、男の人の手だけどそんなにゴツゴツしていない。

「あの」

 明らかに戸惑ったような声が後ろからした。

「分かりました、分かりましたので、その……」
「はい?」
「手は、離していただけたら……」

 小さな声で、ナツさんは私を拒絶した。

「ちゃんと、お店まで来てくれます?」
「はい、行くので……」

 私は精一杯納得して、階段を降りたところでナツさんの手を放す。地下鉄がホームに来ていたけれど、飛び込み乗車をするわけでなし、その場に立ったままだ。

 階段に向かう人たちが、私たちの間を容赦なく通り抜けて行く。

 手を放した公共の場所では、私たちは他人同士のよう。
 電車から出て来た人たちが階段を上って行くと、ホームはすっかり人気ひとけがなくなった。

 ただ手を引いただけなのに、そんなに嫌がらなくたっていいじゃないか。
 私はそんな気持ちでいっぱいになっている。
 半日以上デートのようなことをしてきた相棒に対して、ナツさんは冷たい。

「あっち側に行きましょうか」

 ナツさんはホームを歩いて行く。私はその後に続いて歩いた。
 この後、私たちは地下鉄を乗り継いでいつもの商店街に戻る。
 この距離感で歩いていたら、商店街の人たちに見つかっても何も思われないだろう。そのくらい、私たちは離れていた。

 商店街へ向かう地下鉄の中、隣り合って座ったまま何となく私たちは無言だった。
 何をきっかけに話せばいいのか分からなくなっているような感じで、口を開きにくくなっている。

 およそ40分間の移動中、結局私たちはひとことも交わさずにいつもの商店街に到着した。
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